第6課 祈りの霊

リバイバル講演集
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霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。(ローマ8:26-27)

 私の前回の講義ではありませんが、講義の一つに勝利を得る祈りという主題がありました。その中で、効果的な祈り、勝利を得る祈りの最も重要な特性の一つが信仰であることを述べました。これは非常に内容が濃い主題のため、私はそれを別の講義のために予約しました。従って、私は先週の金曜日の夜の主題については、祈りに対する信仰、あるいは信仰の祈りと呼ばれるものにしました。一つの講義でその主題のすべてについて語ることが私の意図でした。しかし、私がいくつかの点を凝縮する必要性が生じたことにより、他の人から、いくつかの不明点があると指摘されました。そして、それらの不明点はもっと完全に答えなければなりません。特に一つの主題については、ほとんど暗闇の中の状態です。この説教の大きな目的の一つは、聖書を注意を払って読み、その意味を知りたいと望む人の心の中で自然に発生する質問に答えるような形で真実を述べることです。それによって、人々は教えられたことを実践することができます。私は聖書本文を説明するにあたり、次のことを明らかにするつもりです。

1.「御霊は私たちの弱さを助けてくださいます」とはどのような霊についてか
2.その霊は私たちのために何をするか
3.なぜ彼は聖書本文が宣言することをなさるのか
4.彼はそれをどのように達成するか
5.彼が影響下にある人々の心に影響を与える程度
6.彼の影響は、悪霊の影響や私たち自身の心の思いとどのように区別されるべきか
7.私たちがこの聖霊の力を得る方法
8.この問題で彼の影響を楽しむことを期待する権利を持っている人、あるいは聖書本文に書いてあるその霊が影響を与える対象は誰か

1.本文で取り上げられているのはどのような霊か

 聖書の本文の中で話されている霊が、私たち自身の霊を意味すると思っている人もいます。しかし、聖書の本文に少し注意を集中すれば、そういう意味ではないことがはっきりします。もし私たち自身の霊だとすると、「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます」を「私たち自身の霊は私たち自身の霊の弱さを助け」「私たち自身の霊は私たち自身の霊のために執り成してくださいます」ということになります。これでは、意味をなさないことがわかるでしょう。聖書の本文の文脈から明らかなように、ここで霊と書いてあるのは聖霊のことです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ローマ8:13-15)そして、聖書の本文もこの箇所と同じ聖霊について言及しているのです。

2.その霊は何をするか

 答えは、聖徒のための執り成しです。私たちがどのように祈るべきかを知らないとき、私たちのために執り成してくださり、弱い私たちを助けてくださるのです。聖霊はクリスチャンが神の御心に適った祈りをすること、あるいは神が祈るように望んでおられることを祈るのを助けてくださいます。

3.なぜ聖霊は祈りを助けてくださるのか

 私たちが無知だからです。私たちは何のために祈るべきかを知りません。私たちは聖書で示されている神の御心についても、聖書では示されていない摂理によって学ぶことができる神の御心についても、全くの無知です。人類は、聖書の約束と預言の両方についてほとんど何も知らず、神の摂理についても盲目です。そして、人類は神が御言葉によらず、聖霊の導きによって示される事柄については、もっと無知です。私が、約束、預言、摂理、聖霊を信仰の祈りの基盤となる4つの根拠と呼んだことを思い出してください。他のすべての手段が、私たちに何を祈るべきかを教え導くことに失敗したとしても、聖霊は確実に導いてくださいます。

4.聖霊は聖徒のためにどのように執り成すか

 弱い私たちを助けるために、聖霊はどのような方法で働かれますか。
 1.聖霊は、私たちが自分自身の能力を使用することに取って代わるような方法では働かれません。私たちが何もしない間に、私たちのために祈ってくださるわけではありません。聖霊は、私たち自身の能力を高揚させることによって、私たちのために祈ってくださいます。聖霊はすぐに私たちに祈るべき言葉を提示したり、祈りを導いたりすることはありません。しかし、聖霊は私たちの心を啓発し、真理によって私たちの魂を抱え込むようにします。聖霊は私たちに教会の状態について、また、私たちの周りの罪人たちの状態について、深く考えさせます。聖霊が私たちの心の前に真理をもたらし、それが効力を生じるまでそこに保持する方法を説明することはできません。しかし、私たちは、聖霊が私たちに物事の状態について熟考させ、深い感情を持たせることを自然科学の実験結果と同じくらいにはっきりと認識できます。御霊が人の心の前に真理をもたらすとき、人が深い感情を持つことから逃れる方法は1つだけです。つまり、聖霊によって与えられた考えを捨て去って、自分の心を他のことを考えるように仕向けることです。神の霊が罪人の前に真理をもたらすとき、彼はそれを感じるはずです。彼らが頑なな心のままである限り、彼らは自分が間違っていると感じます。また、もしその人がクリスチャンであり、聖霊が彼の心と熱い接触をもたらすなら、それを感じないようにすることは、火の中に手を入れても何も感じないようにするくらい不可能なことです。魂を救うために、聖霊が大きな熱情を引き起こす事実に目をとめさせてくださっているにもかかわらず、少しも心が動かされないとすれば、彼には魂に対する愛がなく、キリストの御霊についても、クリスチャンの歩みについても何も知らないことになります。
 2.聖霊はクリスチャンに魂の価値を感じさせ、現在の罪人たちの状態がいかに罪深くて危険であるかを感じさせます。しばしば、このことについてクリスチャンが無理解で、無感覚な状態にあることは驚くべきことです。クリスチャンの両親でさえ、自分の子供たちが目の前でまっすぐに地獄に向かうままにさせて、ほとんど心を動かしておらず、救うための努力をしているようにも見えません。どうしてでしょうか。彼らは地獄が何であるかについてとても盲目だからです。そして、聖書について信じられず、神が敬虔な親のためにお与えになった貴重な約束に無知です。彼らは神の霊を深く悲しませます。そして、祈りの霊が彼らから離れているうちは、彼らに子供たちのために祈らせようとしても無駄です。
 3.聖霊はクリスチャンを聖書の約束を理解し、適用するように導きます。どの時代でも、クリスチャンが生きているうちに、自分の人生で起こる出来事に対して聖書の約束を完全に適用することができなかったことは、驚嘆すべきことです。これは、約束があいまいだからではありません。約束自体は十分にはっきりしています。しかし、驚くべきことに、クリスチャンはいつも過ぎ行く人生の出来事を照らす貴い光の源である聖書の約束を見逃してしまう傾向にあるのです。使徒たちは、キリストが非常に多くの預言を御自身に適用されたことに非常に驚きました。使徒たちは常に驚いてこのように叫ぶ準備ができていました。「これは驚くべきことです!それはそのようにとらえられるのですか。私たちは今までそのように理解したことがありません。」使徒たちが聖霊によって影響を受け、霊感を与えられて、旧約聖書の御言葉を福音書の時代に適用して、聖書の隠された豊かな意味を明らかにする様を見て、驚かずにいられるでしょうか。このようなことは多くのクリスチャンに起こりました。深く祈りをささげていると、クリスチャンは、それまで考えたことがないような聖書の御言葉の適切な適用方法を悟るのです。
 私はかつて霊的に真っ暗な状態だった人を知っています。彼は祈りのために退き、彼が主を見出すまでは決して祈ることをやめないと決心しました。彼はひざまずいて祈ろうとしました。すべては真っ暗で、彼は祈ることができませんでした。彼は立ち上がり、しばらく立ったままの状態でいましたが、彼は神に自分自身をささげる前に明日を迎えまいと約束したので、祈って主を見出すことをあきらめませんでした。彼はもう一度ひざまずきましたが、やはりすべては霊的に真っ暗で、彼の心は以前と同じように頑なのままでした。彼は絶望しかけ、苦しんで言いました。「私は神の霊を悲しませ、遠ざけました。そして、私には依り頼める約束はありません。私は神の臨在から閉ざされています。」しかし、彼はあきらめまいと決心していたので、再びひざまずきました。彼の心に、まるで今まさに読んだばかりかのように御言葉が入ってきたので、彼はその御言葉をつぶやきました。「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう。」(エレミヤ29:13-14)この約束は旧約聖書にあり、ユダヤ人に対して語られていましたが、同時に彼に該当するものでもありました。その瞬間、その御言葉は主からのハンマーの一撃のように彼の心を打ち砕きました。彼は祈り、そして上がって、神にある幸いを見出しました。このようなことは、信徒が子供のために祈っているときにも、しばしば起こります。時に、彼らが祈っても、霊的な暗闇と疑いの中に閉ざされ、信仰の基礎となるものがなく、信者の子供たちのための特別な約束もないように感じます。しかし、彼らが訴えられている間、神は彼らにいくつかの約束の完全な意味を示してくださり、彼らの魂は神の強大な腕の中にあるようにそれらの約束に安らぎを見出します。私はかつて、子供たちのために熱心に祈っていると、この御言葉が強烈に心に与えられた未亡人について聞いたことがあります。「あなたのみなしごを置いて行け。わたしが育てる。」(エレミヤ49:11)彼女はその御言葉に広い意味があることを見出し、彼女は自分の手の中にあるかのように、その御言葉を握りしめることができました。そして、彼女は祈りにおいて勝利を得て、子供たちが回心しました。聖霊は救い主によってこの世に送られ、御自分に属する人々を導き、指示を与え、記憶を呼び覚まし、そして世に罪を認めさせるように命じました。
 4.聖霊はクリスチャンを導いて、神の御言葉で具体的には何も言及されていないことを求めさせ、祈らせます。個々の事例を考えてみましょう。神が人々を救うことを望んでいることは、普遍的な真理です。だから、神が救いについての祈りに進んで答えようとしておられることは、普遍的な真理です。しかし、私がある人の回心と救いのために祈るとき、その人についての神の御心に基づいて信仰の祈りをすることができるかどうか、どのようにして知ることができるでしょうか。聖霊が働いて、神の人々の心を導き、特定の人々のために祈らせます。そのときこそが、神がその人々を祝福する準備ができているときです。私たちが何を祈ればよいかわからないとき、聖霊が私たちの心を導いてある物事にとどまらせ、その状態について考えさせ、そのことのために祈る価値を認識させ、感情を起こさせ、祈らせ、それを獲得するまで祈りの内に産みの苦しみを経験させるのです。私が知っているこのような経験は、都市部では一部の地域よりも一般的ではありません。なぜなら、都市には注意をそらし、聖霊を悲しませるものが無数にあるからです。私はこのような経験がいくつかの地域でどのように起こったかを知る機会がたくさんありました。私は、彼が特別に関心を持っている人々の祈りのリストを持っている人と知り合いました。そして、私は彼が関心を持って祈っていたことで、多数の人々がすぐに回心したことを知りました。私は、彼がリストの人々のために文字通り苦悩して祈るのを見ました。そして、彼が時々祈っている人々のうちの一人のための祈りを助けてもらうために、他の人に電話をかけることを知りました。私は、彼が頑なで、荒れた性格のため、普通の方法では接触できない人に、心を向けたことを知りました。この州の北部のリバイバルが起こった町では、ものすごく暴力的で極悪非道の悪人がいました。彼は居酒屋を経営していました。そして、クリスチャンが聞いているといつもその感情を害するために、口汚くののしることを喜びとしていました。彼はとんでもなく悪い人だったので、ある人はこんなにののしる男の近くに住んではいられないので、自分の土地を売るか譲るかして、町から出ていかなければならない言ったほどです。私が話していたこの祈りのリストを持っていた善人は、町を通過するときにこれらのことを聞き、その悪人のために非常に悲しみ、苦悩しました。彼は悪人のことを祈りのリストに載せました。そのことは、彼が寝ても覚めても、心の重荷となりました。彼は悪人について考え続け、日々彼のために祈り続けました。その祈りの答えが最初にわかったのは、この神を畏れぬ男が集会に来て、罪を告白し、魂を注ぎ出したときです。彼の居酒屋はすぐに教会の祈り会を開催する場所になりました。このようにして、神の御霊は、聖霊によって導かれていない限り祈らないに違いないものを祈るように、個々のクリスチャンを導きます。このように、彼らは神の御心に従って物事を祈ることができるのです。
 「そのような働きは神からの新しい啓示を示唆するものではないか」と批判する人もいます。このような働きのことを新しい啓示に相当すると言うことは、巨大な悪であることは間違いありません。多くの人々は、祈りの霊による働きを「新しい啓示だ」と批判されるのを聞くと、恐れてしまうでしょう。だから、多くの人々はそれはどういうことか、聖書がそれを教えているのかどうかを繰り返し質問します。そうすることで、新しい啓示だという指摘への完全な答えを得られると思うのです。しかし、ことの真相は単純で、ただ御霊が人を祈るように導くということです。そして、神がある特定の人のために祈るように人を導くならば、聖書からの推測できるのは、神がその個人を救おうと意図しておられるということです。私たちの心の状態を聖書に照らし合わせて考えて、私たちがある人のために祈るように聖霊によって導かれていることがわかる場合、それは、神がその人を祝福する準備ができていると信じるに足る良い証拠です。
 5.クリスチャンに神の摂理の働きと進行についての霊的な識別力を与えることによって執り成します。献身的で、祈るクリスチャンはしばしばこれらのことをとても明確に見ることができ、あまりにも先まで見通せるので、他の人々をつまずかせるほどです。時々、彼らはほとんど預言しているかのようです。もちろん、彼らは聖霊によって導かれていると思っていても、勘違いしているだけかもしれません。実際に、聖霊ではなく、自分自身の思いに頼ってしまうこともあります。しかし、クリスチャンが摂理によって、時代のしるしを正確に見分け、何を期待するべきか、つまり、何のために信仰の祈りをささげるかがわかることがあることも間違いありません。それで、彼らはほかの誰もそのしるしのかけらも見えないときに、しばしばリバイバルを期待し、信仰の祈りをささげることができたのです。
ニュージャージー州の過去にリバイバルが起きていた場所に、ある女性がいました。彼女は物事が悪い方向に向かっているときにも、非常に楽観的でした。彼女は、その場所で先の雨を経験したので、これから後の雨を経験することになっていると、頑強に主張しました。彼女はリバイバル集会を設定したいと思っていました。しかし、牧師と長老たちは何もリバイバルを促しそうなことを見出さなかったので、何もしませんでした。彼女は、彼らが盲目なのがわかったので、自分でことを進めました。大工に頼んで家に座席を造らせ、彼女の家で集会を開くと宣言しました。確かにリバイバルが起こると信じていたのです。彼女が集会のために家の扉を開くとすぐに、神の霊が強大な力をもって降って来られました。そして、眠りこけた教会のメンバーたちは、彼らが罪の認識をもった大勢の罪人たちにとり囲まれていたことに気づきました。そして、彼らはただ「まことに主がこの場所におられるのに、私たちはそれを知らなかった」としか言えませんでした。このような人々が、神の御心を示す兆候に気づくのは、優れた知恵を持っているからではありません。神の霊が、時代のしるしを見ることができるように彼らを導くのです。そして、これは啓示によってはありません。しかし、彼らは神の摂理のうちの一つの要点を集中して見るように導かれることで、これから何が起こるかを確信を持って予見できるのです。

5.神の霊が信徒の心にどの程度の影響を与えることを期待できるか

 神の霊は信徒の心にどの程度の影響を与えることを期待できるでしょうか。この本文では、「霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださる」と書いてあります。この意味は、聖霊が願望を高揚させる度合が大きすぎて、うめき声しか出せなくなると理解できます。何か言語では言い表せない思い、魂が満たされ過ぎていてとても言葉では表現できない思いを抱くとき、その人はただ心の言語を理解することがおできになる神に対してうめくことしかできません。

6.どのようにして神の霊が私たちの心に影響を与えたのかどうかを知ることができるか

 どのようにして神の霊が私たちの心に影響を与えたのかどうかを知ることができるのでしょうか。
 1.何らかの外面的な影響や働きが加えられることによって、感じることはありません。私たちは、神との直接的で物理的接触のようなものを心に感じることを期待すべきではありません。もしそのようなことができるのであれば、私たちは何によって聖霊の働きを感知することができるか考えても仕方ありません。私たちは、自分の心を自由に動かせますが、何者かが私たちの感情を高揚させて、私たちの思考に影響を及ぼすということを知っています。しかし、私たちは、手を引かれて導かれるような感覚、または、耳にささやく声、あるいは、神の御心をはっきりと表す奇跡的な現れといったものが奇跡が起こるのを期待することはできません。人々は聖霊を心に抱かず、その影響を大切にしないので、しばしば聖霊を悲しませ、去らせてしまいます。罪人はほとんどの場合、このことに無知です。罪人は、もし彼らが聖霊によって認罪の念が与えられるとしたら、思い違いをすることがないように神秘的な感情が伴い、衝撃が与えられるはずだと思っています。多くのクリスチャンは聖霊の影響に非常に無知で、聖霊の執り成しによって祈るということについてほとんど考えていません。彼らは聖霊の執り成しを受けても気づくことがなく、それを大事にすることなく、慕い求めることも保とうとすることもありません。私たちはほかでもない、心の動きだけを認識しています。他のことによっては、聖霊の働きを感じることはできません。聖霊が働くとき、私たちは単に、自分の考えがある特定の事柄にひたすら思い定まっていることに気づきます。この点について、クリスチャンはしばしば神の霊を持っていないためではないかという恐れにかられ、不必要に誤解し、苦しみます。彼らは激しく感じていますが、何がそう感じさせているのかを知らないのです。彼らは罪人のことについて苦悩します。しかし、クリスチャンが罪人の状態を考えたら、どうして苦しまずにいられるでしょうか。クリスチャンはいつも罪人のことを考え続けているのに、どうして彼らが苦しまずにいられますか。今、真実を述べます。あなたが罪人のことを考えているということは、神の霊があなたを導いている証拠です。ほとんどの時間にこれらの影響があなたに臨んでいないことに気づいていますか。大部分の時間、あなたは罪人の置かれている状況についてあまり考えません。あなたは彼らの救いがどんなときにも重要であることを知っています。しかし、一方で、あなたが暇を持て余していても、あなたの心は完全に暗く、罪人のために何の感情も抱きません。しかし、あるときには、あなたは他のことについて忙しかったとしても、罪人のことを考え、罪人のために祈り、激しい感情を抱きます。忙しいときすらそうであれば、その他の時には、罪人への思いがあなたの考えのすべて占めるでしょう。そして、あなたが持っている考えのほとんどすべては、「神は彼らを憐れんでおられます」というものになります。どうしてそうなるのでしょうか。なぜ、罪人の置かれている状態があなたの心の中で強い光のもとに置かれるのでしょうか。あなたは、何が罪人への慈しみの心を持ち、彼らのために苦悩して祈るように導くのかと尋ねますか。神の霊に他なりません。あなたを導くのは悪魔ではありません。もし、あなたの感情が本当に慈悲深いものになるなら、それは神の御心に従って物事のために祈るように聖霊に導かれていると考えましょう。
 2.聖書によって、その霊がどのような霊かを見分けてください。人々は時々奇妙な妄想や狂気の衝動に駆り立てられることがあります。あなたが、それらの思いを聖書と忠実に照らし合わせるなら、迷いの道に導かれることは決してありません。あなたはいつでも、聖書に書いてあるように、あなたの願望を聖霊と信仰心に照らし合わせることによって、あなたの思いが聖霊の影響によって生じたものかどうかを判断することができます。あなたの気持ちが聖霊の影響によって生み出されるかどうかを知ることができます。聖書は、霊を確かめなさいと命じています。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。」(Ⅰヨハネ4:1抜粋)仲間に対するあなた自身の気持ちだけでなく、私たちの主イエス・キリストに関する教えの背後に働く霊を確かめましょう。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。」(Ⅰヨハネ4:2-3)

7.どうすれば神の霊の働きを受けられるか

 私たちはどうすれば、神の霊の働きを受けられますか。
 1.熱心に信じて祈り求められなければなりません。キリストは、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)と言われました。「私は聖霊を求めて祈りましたが、聖霊は来ませんでした」という人はいますか。その理由は、あなたが適切に祈らなかったからです。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)あなたは正しい動機で祈っていないのです。ある教会の主要なメンバーの信徒が、牧師に疑問に思っていることを尋ねました。彼は毎週続けて聖霊を求めて祈っていたのに、受け取っていませんでした。牧師は彼に聖霊を求めて祈る動機を尋ねました。彼は、幸せな気分になりたかったと答えました。彼は聖霊を持っている人たちが幸せそうなのを知っていたので、彼も彼らのように幸せな気分を楽しみたいと思ったのです。悪魔自身すらもそう祈るかもしれません。それでは、ただの自己中心です。その男は怒りを鎮めました。彼は何のために聖霊を求めて祈るのかを知らなかったことに気づきました。彼は、自分が偽善者だったと気づきました。彼の祈りはすべて利己的で、自分の幸せに対する欲求によってのみ占められていました。 ダビデは、彼を自由な霊によって支えてくださいと神に祈りました。それによって、彼が掟を破る人に神の道を教え、罪人を神に立ち帰らせられるようにするためです。クリスチャンは彼がより有用なものになり、より神の栄光を現せるようにという目的で、聖霊を祈り求めるべきです。自分自身がもっと幸せになるためではいけません。その男は、彼が間違っていたことをはっきりと気づきました。そして、彼は回心しました。おそらく、ここにいる多くの人もこの男と同じでしょう。あなたは、自分の祈りが利己的でないかどうか、すべて調べるべきです。
 2.聖霊を求めるなら、聖霊に対して心を燃やし、そこにあなたの注意が固定されるようにしなければなりません。人が聖霊を求めて祈っていながら、すぐに世にその心を奪われて、ほかの多くのものを求めて逸れていくなら、その人は神を試みているのであり、祈りの目的から逸脱しています。もし彼が祈ったものを手に入れることができるならそれは奇跡でしょう。罪人はどのようにして罪を自覚することができるでしょうか。ほかでもない、自分の罪について考えることによってです。それは、クリスチャンが祈っているものについて考えることで、深い感情を得るのと同じです。神は、あなた自身の努力なしにこれらの感情をあなたに注ぐことはありません。あなたは、ほんのわずかな気持ちをも大切にする必要があります。聖書を手にとって、世の状態と見通しを示す聖句を読んでいきます。世を見てください。あなたの子供たちを見てください。あなたの隣人を見てください。彼らが罪の中にとどまっている状態を見て、あなたが祝福を得て神の霊を内に住まわせていただくまで、忍耐強く祈ることに努めてください。これは間違いなく、ワット博士が体験したことです。彼は二番目の著書である二番目の讃美歌の詩でこの感情を記述しています。

わが心は破滅と死という恐ろしい主題について考え、打ち震える。
 なんという恐怖が罪人の魂を死の床で鷲掴みにすることだろう。
これらの死の手前の岸辺に長居して、彼女はそこにいる時間を延ばしている。
 洪水のような急激な力によって、死が悪人である彼女を除き去るまで。

それから、彼女はすばやくて凄まじい降下をし、燃え盛る沿岸に到達する。
 嫌悪の悪鬼たちの中にあって、彼女自身が恐ろしい亡霊だ。

そこには無数の罪人たちが横たわっていて、暗闇が彼らを縛る鎖となる。
 拷問を受けて絶望的な叫びをあげるが、さらに激しい痛みが襲うのを待たなければならない。

彼らが苦悩し、血を流しても過去の罪を償うことはできない。
 憐れみ深い神も、彼らのうめき声に耳を傾けることはない。

驚くばかりの恵みによって私の命は保たれ、私の魂が取り除かれることはない。
 私の救い主の死を知るまで。彼の愛によって私は保証されている。

 望遠鏡を通してすべてを近くに見ることができるように、それをあなたの近くにあるものとして見てください。地獄を見て、彼らのうめき声を聞いてください。それから望遠鏡のレンズを上に向けて、天国を見て、白い衣を着てハープを手に持った聖徒たちを見て、彼らが贖いの愛の歌を歌うのを聞いてください。そして自分自身に質問してください。私が神と共に勝利を得て、罪人を地獄から天国に引き上げることは可能でしょうか。この通りに行ってください。あなたが邪悪な人ではなく、神を知らない人でもなければ、すぐにあなたの体が維持できる限りの祈りの霊を持つことになるでしょう。
 3.あなたは祈りの結果を見守らなければなりません。あなたは観察し続けて、あなたが求めるときに神が祝福を授けてくださるかどうか知る必要があります。人々は時々、祈っても、その祈りが答えられるかどうかを知ろうとしないことがあります。また、神の霊を悲しませないようにも注意してください。罪を告白して、断ち切ります。あなたが罪を告白して、それを捨てない限り、神はあなたを彼の秘蔵のものの一人として奥義を知ることができるように導くことは決してありません。いつもただ罪を告白するだけで、捨てないというのではいけません。告白した上で、その罪を捨て去ってください。少しでも傷のような問題があれば、それを正してください。あなたは、まず祈りの霊を得てから、罪を悔い改めるということは期待できません。あなたは祈りの霊を得てから罪と戦うということはできません。高慢で、神に服従せず、自分を正当化してばかりいる信徒たちは、決して強制的に神を彼らの内に住まわせることはできません。
 4.聖書に書いてある律法に完全に従うことを目指してください。言い換えれば、罪と交わりを持たないようにするということです。完全に世よりも上であることを目指してください。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)もし、あなたがまったく罪の内にあるなら、そのことを毎日の悲しみましょう。これを心がけていない人は、罪の内に生きることを意味します。そのような人は、神の戒めをすべて守ることを真剣に望んでいないのだから、神の祝福を期待するべきではありません。

8.聖霊は誰のために執り成すか

 答え―聖霊は聖なる者のために執り成します。すべての聖なる者たちのため、誰でも聖なる者であればその人のために執り成すのです。「霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せない呻きをもって執り成してくださるからです。人の心を見極める方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って聖なる者のために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26-27)

備考

 1.なぜ、多くの人が聖霊による回心について語るのに対して、祈りにおける聖霊の影響についてほんの少ししか語られていないのでしょうか。それは、多くの人が驚くほどの恐れによって、聖霊の影響を除外してしまうからです。多くの人は罪人を回心する際に働かれる聖霊の影響を重視します。しかし、祈りにおける影響については、どのほど少しのことしか語られておらず、書かれていないことでしょうか。人々が神の御心に従って祈るにあたって聖霊の影響を十分に求めないことについて、どのほど少しの不満しか訴えられていないことでしょうか!聖霊の導きによらずしては、どのクリスチャンも適切に祈ることはできないということを忘れないようにしましょう。クリスチャンには祈るための自然な力を持っており、神の御心がを明らかにされている限り、適切に祈ることができます。しかし、神の霊がクリスチャンに影響を与えない限り、決して適切に祈れません。それは、罪人が悔い改めることが可能であっても、聖霊の影響を受けない限り、決して悔い改めないことと同じです。
 2.この主題は、多くの人が信仰の祈りに関して受け入れるのを難しく感じる点の土台を成す部分です。彼らは、信仰の祈りが、求めた通りのものを受け取ると信じるという点に反対します。そして、そのような信仰をとどまらせる土台や根拠がないと主張します。数年前にこの主題について出版された説教では、著者が信仰の祈りについての困難な点を前面に押し出して、強調しました。私は彼にこう言います。信仰によって祈るまでは、祈ったことが叶えられる根拠はありません。なぜなら、信仰によって祈ることこそが、祈ったものが与えられると約束されている状態だからです。そしてもちろん、私がその状態を満たすまで、私は約束の実現を請求することはできません。また、もしその状態がある場合は、私は求めた通りの祝福を受けられると信じています。もし約束が不可能な条件を満たした場合に与えられるのであれば、その約束は明らかに無効です。約束の内容はまさに次の通りです。「あなたは、まずそれが得られると信じることを条件に、あなたが求めるものは何でも手に入れることができます。」さて、私は約束の実現を請求する前に、条件を満たす必要があります。しかし、私はそれが得られると信じるまで、私がそれを得られるという根拠はありません。このことは、私がそれを得られるという根拠を持つ前に、私がそれを得られると信じる必要性をなくします。そんなことは不可能です。
 この異議の全体的に、聖霊の影響が完全に見落とされているという事実から生じています。聖霊は個々人が信仰を働かせられるように導く上で力を発揮します。マルコ11:22-24の文章は、奇跡にのみ関連するものであり、信仰の祈りの主題とは別の内容だと考えられています。しかし、これが本当だったとしましょう。私は尋ねます。使徒たちが奇跡のために祈ったとき、彼らはどのように信じていたのでしょうか。使徒たちは、祈った通りに奇跡が起こるだろうと信じていましたか。彼らがそう信じていたことは明らかです。本文の聖句の中でも、そのことをほのめかしています。キリストは「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と言われました。ここでは明らかに、与えられると信じて心の中で少しも疑わないものこそが、祈ることを通してその通りに与えられる祝福です。さて、今回の異議申し立ては、この種の信仰は奇跡を行うために祈るときにのみあてはまるとするものです。他の祝福のために祈るときには、この約束を信じることは不可能だとするのです。だから、この約束は、奇跡のために祈ることと同じことになります。私は尋ねます。使徒は、彼が信仰の祈りをささげた状態になる前に、奇跡が起こるだろうと信じることができるでしょうか。できません。その状態があってこそ、彼は彼が祈ったものを受け取るべきだと信じることができるでしょう。考えられる可能性は、この約束が無効か偽りであるか、条件を満たせば実行できるかのどちらかです。
 さて、すでにお伝えしたように、信仰の祈りを受け入れることを困難にしているのは、聖霊の働きについて見落とされており、神の働きによって信仰が与えられるということが除外されてしまっているためです。もし、この異議があらゆる目的のために祈ることに対して適用されるものであれば、それは奇跡の起こすことを信じて祈ることに対してもあてはまるはずです。実際には、神の霊が根拠を与えることで、何らかの特定の奇跡が起こると信じることができるのです。聖霊は、私たちの心を導いて、神にしっかりと頼ることを可能にし、その結果、祝福が得られることを信じます。そして、現在、聖霊は私たちが必要とするどのような祝福のために祈ることにも、同じ保証を与えることができます。その一例の一つが、奇跡を起こす場合の聖霊による影響です。あなたが魂の回心のために祈っても、奇跡のために祈っても、同じことです。信仰は、どちらの場合でも同じです。ただ、別の対象に行きつくという違いだけです。ある場合には、魂の回心、そして、他の場合には奇跡を行うことです。また、約束に関係なく、どちらか一方に対して他方よりも多くの信仰が行使されることもありません。この一般的な約束は、奇跡についてと同じように、魂の回心についても適用することができます。そして、どちらの場合についても言えるのは、神の霊の影響なしに誰も信仰の祈りをすることはできないということです。そして、聖霊が使徒の心を導いて奇跡に関する信仰を発揮させることができるのであれば、聖霊は同じ一般的な約束に基づいてほかのクリスチャンの心を導いてその他の祝福を得るための信仰を発揮させることができるでしょう。
 誰かがこう尋ねることでしょう。「求めている祝福を受けられると信じる義務が生じるのはいつですか。」私は答えます。

 (1.)特定の祝福が得られるという特定の約束がある場合は、その祝福を受けられると信じなければなりません。たとえば、聖霊を求めて祈る場合がそれにあたります。この祝福が得られるということは、はっきりと約束されているので、この約束が信じるべき根拠であり、何か神的な影響を受けたかどうかにかかわらず、信じるように縛りを受けています。それは、罪人が聖霊から悔い改めるように強い促しを受けているかどうかにかかわらず、悔い改めなければならないのと同じです。彼らの義務は、聖霊の影響に基づくのではなく、彼らが持つ道徳心に由来します。彼らは悔い改める能力があるのです。彼らのうちの一人として聖霊の影響なしに悔い改めることはありませんが、それでも聖霊の促しを受けているかどうかにかかわらず、彼らには悔い改める力があり、悔い改める義務があるのです。クリスチャンも同じことです。クリスチャンは信じるべき根拠があれば、信じなければなりません。そして、神の霊によらなければクリスチャンは明示的な約束を持っていても決して信じませんが、それでも神的影響ではなく、信じることができる能力由来する義務があります。
 (2.)神が摂理によって啓示をする場合には、私たちは啓示の明確さに比例して信じなければなりません。
 (3.)もし預言がある場合にも、私たちは信じなければなりません。しかし、いずれの場合にも、実際には、神の霊なしで信じるわけではありません。
 しかし、私たちの信仰を置くための約束、摂理、または預言もないところでも、私がこの講演で示しているように、御霊が熱望を創造して特定の対象のために祈るように導くことで、根拠を与える場合には、祈りが答えられると信じるべき義務が生じます。一般的な約束について、どのような特定の状況でそれらを適用すべきか私たちには正直なところわからないでいる場合、私たちはそれらを適用することを義務ではなく、むしろ特権ととらえます。しかし、神の霊が、私たちにそれらの約束を特定の対象に適用するように導くと、それらを適用することは、私たちの義務になります。この場合、神は御自身の約束について説明してくださり、それをどのように適用するべきかを示してくださるのです。そして後は、私たちが特定の対象のために約束を適用する義務だけが残ります。
 3. 中には、パウロが肉に刺さったとげを取り除くために信仰の祈りをささげたにもかかわらず、その祈りは答えられなかったと考える人々がいます。しかし、彼らはパウロが信仰の祈りをしたということを証明できません。私が先の講演の内容で示したように、むしろその逆であることが推測できます。彼には約束もなければ預言も摂理もなく、信じるように導く聖霊の働きもありませんでした。異議を唱える人々は、使徒は聖霊によって導かれずに信仰の祈りをささげたのかもしれないととんでもない反論します。このような反論は、祈りの中における聖霊の影響を捨てるための簡単な方法です。確かに、彼が信仰の祈りをささげたと仮定することは、彼が聖霊によって導かれることなく信仰の祈りをしたか、聖霊が神の御心に適わないことを祈るように導いたということになってしまいます。
 私はこの主題についてさらに扱っていきます。なぜなら、あなたがた全員が聖霊を悲しませないように気をつけなければならないということを、はっきりさせたいからです。私はあなたが聖霊に関する高尚な考えを持ち、聖霊の影響なしに何一つ良いことを行えないと感じさせたいのです。どんな祈りや説教も聖霊なしでは役に立ちません。たとえ、イエス・キリストが地上に降りてきて罪人への説教したとしても、聖霊なしでは誰も回心しないでしょう。聖霊があなたを祈るように招くとき、聖霊の影響を軽んじたり無視したりすることによって聖霊を悲しませないように注意してください。
 4.ある対象のために祈るとき、手に入れるまで辛抱する必要があります。ああ、神の霊がクリスチャンたちの願いを一人の罪人の上に固定するとき、熱心なクリスチャンたちは祈りの中でその罪人の救いをどこまでも追い求めます。貪欲な人でもこれほど固い決意を持ってお金を追い求めることはありません。
 5.衝動によって導かれていることに対する恐れは、正しく考慮されないことによって大きな損害をもたらしてきました。人の心は人を惑わす者によって導かれることもあります。しかし、だからといって私たちが恐れの衝動にかられて、聖霊からの良い衝動に抵抗することにつながるなら、間違っています。クリスチャンが霊を見分けることを嫌がり、すべての衝動と目に見えない者によるすべての導きを拒否したり抵抗したりするなら、祈りの霊を持つことができないのは当然です。多くの人が、非常に目立つ熱狂主義を警戒することによって、神の霊の導きを受けることに拒否反応を起こします。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)そして、衝動が神によるものか否か、霊を試してみることは私たちの義務です。私たちは綿密に精査し、正確に区別することに努めるべきです。御霊によって導かれる衝動が何かしらあるはずです。そして、それを神からの衝動だと確信するとき、私たちは聖霊が私たちに間違った導きをするはずがないという完全な信頼を持って従うべきです。
 6.私たちはこの主題から、祈祷文を使うことの愚劣さがわかります。祈祷文を使用するという考え自体、当然のことながら、聖霊の導きを拒絶してしまいます。祈祷文を使用するよりも、もっと祈りの霊を台無しにし、心を暗くし、混乱させてしまうことは、ほかに何も想像できません。祈祷文はそれ自体にばかげているだけではなく、霊の働きを台無しにし、祈りの力を破壊するための悪魔の道具なのです。祈祷文は良いものであるというのは無駄です。祈りは言葉によって構成されているのではありません。そして、祈りは心が神の霊によって導かれていないなら、どんな言葉で祈るかは重要ではありません。願い求める心が燃え上がっておらず、考えと感情が神の霊によって与えられ、導かれていないのであれば、それは祈りではありません。そして、祈祷文を設定することは、個々人が本来ささげるべき祈りを妨げる上で、何よりも効果的な方法です。
 7.この主題は人格の試験を提供します。聖霊は執り成しをしています。誰のための執り成しでしょうか。聖なる者たちのためです。聖なる者たちは、聖霊の執り成しによって訓練されます。あなたが聖なる者であれば、あなたは聖霊によって訓練されるべきことを経験的に知っているか、それともあなたが神の霊を悲しませているので、聖霊があなたを導けないかのどちらかでしょう。あなたは、この聖なる慰め主があなたと一緒に住まず、祈りの霊を与えることもない生き方をしているのです。もし、そうであれば、あなたは悔い改めなければなりません。あなたがクリスチャンであるかどうかは、何の解決にもなりません。ただ、初めて悔い改めるかのように、悔い改めてください。あなたがすべきことをただちにしなさい。自分はクリスチャンだから大丈夫だと思わず、謙虚な罪人のようになって、あなたの心を主に注ぎ出しなさい。あなたは、他の方法で祈りの霊を持つことはできません。
 8.この主題を理解することの重要性について扱います。
 (1.)有用な者となるためです。祈りの霊なしでは、あなたと神との間に一致はなく、あなたは神と共に歩むことも、神と共に働くこともできません。あなたは聖霊と一緒にあなたの心を強く鼓動させる必要があります。そうでなければ、大いに有用な者となることを期待すべきではありません。
 (2.)あなたの聖化と同じくらい重要です。祈りの霊がなければ、あなたは聖化されないでしょうし、聖書を理解することもできないでしょうし、御言葉をあなたに適用する方法を知ることもできません。私は、あなたが常に神と共にいることの重要性を感じてほしいのです。あなたが御心に適った生き方をするならば、神はあなたのもとに来て、あなたと共に住み、あなたと一緒に食事をし、あなたも神と一緒に食事をします。
 9.人々が祈りの霊のことを知らなければ、祈りの結果を信じられなくなりがちです。人々は何が起ころうとしているか予見しませんし、祈りと結果のつながりもわかりませんし、祈りが答えられる証拠を得られません。彼らは霊的な祝福を期待しません。罪人に認罪の念が与えられるとき、彼らは罪人たちがただ恐ろしい説教を怖がっているだけだと思ってしまいます。そして、罪人が回心させられたときには、彼らは本当に回心した確信を持てないので、「彼らがどうなることか見てみましょう」などと言います。
 10.祈りの霊を持っている人は、祝福が来るときに気づきます。イエス・キリストが現れたときがちょうどそうでした。不敬虔な律法学者はイエスのことがわかりませんでした。なぜだと思いますか。イスラエルの贖いのために祈っていなかったからです。しかし、シメオンとアンナはイエスのことがわかりました。どうしてわかったのでしょうか。彼らが何を言い、どのように祈り、そしてどのように暮らしていたかに注目してください。彼らは信仰の祈りをささげていたので、イエスが来られたときに驚きませんでした。信仰の祈りをささげるクリスチャンには同じことが起こります。罪人が罪を認識したり回心したりするとき、彼らはそのことに驚きません。彼らはちょうどそのことを期待していました。彼らは神の訪れのときを待ち望んでいるので、神が来られるときにわかるのです。
 11.教会には、この主題について誤りを犯すか、真実を見逃がしてしまう3つの種類の人がいます。
 (1.)祈りに依存し過ぎて、他の手段を全く利用しない人です。彼らはどの特別な手段をも警戒しながら、「リバイバルを起こす」ことについて話します。
 (2.)それとは異なり、もう一つの種類の人は、様々な手段を使用し、祈る人でもありますが、祈りの霊の影響について決して考えない人です。彼らは聖霊を求めて祈ることについて話し、罪人の回心における聖霊の働きの重要性を感じてはいますが、祈りにおける聖霊の重要性を理解していません。それで、彼らの祈りはすべて冷たい会話に過ぎず、体で感じられることは何もなく、神をとらえることはできません。
 (3.)神の主権についての奇妙な概念を持つ人たちです。彼らは祈りやその他の手段を用いずに、ただ神が世界を回心させるのを待ちます。
教会では、もっと祈りの霊の必要性を深く認識しなければなりません。実際のところ、一般的に、様々な手段を熱心に用いて、人々の救いのために最も激しく努力していて、罪人の回心のためにどのような手段を用いるべきかわかっている人々は、ほとんどの祈りを神の霊を求めてささげてもいて、祝福のために神と格闘します。その結果、どうなるでしょうか。事実に基づいて、これらの人々が祈っているか祈っていないか、そして、神の御霊が彼らの祈りを証しせず、神の力で彼らの働きに伴わないかどうかを話してください。
 12.現在、祈りの霊とは全く異なる霊が、一部の長老教会を席巻しているようです。祈りの霊ほどすぐに物議をかもして反対に遭いやすいものは何もありません。もし誰かが罪人について重荷を感じて、祈りの中でうめくとどうなるでしょうか。それを聞いた女性の中には迷惑に思う人がいて、彼は叱責と反対を受けることになってしまいます。私は何の感情も伴わないのにあるふりをしたり、うめくことで人の心をあおったりすることを嫌います。しかし、聖霊に抵抗しない限り、うめきを抑えることができない精神状態になることもあります。私はかつて、この主題が議論されていた場所にいました。その会議では、うめきは軽視すべきだとされました。そこで、質問が投げかけられました。「神はそのような感情の状態を生み出す上で、うめき声を出さないようにすることはできなかったのですか。」そして、答えは「できます。しかし、神は決してうめき声を出さないようにはしません」でした。もしうめきを必要としないなら、使徒パウロが言葉で表せないうめき声について書いたことについて、ひどい思い違いだということになってしまいます。ジョナサン・エドワーズがリバイバルに関する本を書いたとき思い違いをしていたことになります。リバイバルはすべて空想に過ぎないことになります。さて、教会史を評価する人は誰もそんなふうに思いません。私はこのように祈りの霊を締め出したり、奪ったり、貶めたり、制限したりしようとすることが好きではありません。私は、「もう二度とうめき声を聞きたくない」と言って祈りの霊を叱責するくらいなら、すぐに右手を切り落とします。
しかし、私はこの主題をどこでどう締めくくるべきかわかりません。私は教会全体がこの主題を理解することができるようになり、信仰の祈りを祈れるようになるまで、1か月間でも論じ続けたいと願います。愛する者たち、私はあなたに尋ねます。この主題に関するすべてのことを信じていますか。それとも、なぜ私がそんなにこの主題について話すのか不思議に思いますか。おそらくあなたたちの内の幾人かは、これらのことをほんの少し垣間見るくらいには理解できたでしょう。さて、あなたは自分自身を祈ることにささげ、祈りの霊を持って生きていますか。そして、いつも聖霊を持っていますか。ああ、祈りの教会とならなければなりません!私はかつて、14回の冬に渡って連続してリバイバルに用いられた牧師を知っています。私は、彼の会員のうちの1人が祈り会で起き上がって告白するのを見るまでは、そのリバイバルをどう説明してよいかわかりませんでした。 「兄弟たちよ。」と彼は言いました。「私は長い間、毎週土曜日の夜、真夜中過ぎまで、私たちの間に聖霊が降ってくださるように祈る習慣を持っていました。そして今、兄弟たちよ。」そこで、彼は泣き始めました。「私はその習慣を2週間か3週間、やめてしまったことがあることを告白します。」秘密が明らかになりました。その牧師は、祈りの教会を持っていたのです。兄弟たち、私の現在の健康状態では、私がいつものように祈った上で、説教も続けることは不可能だとわかりました。そうすることは、私の力の限界を越えています。それでは、私は自分自身を祈りにささげるために、説教を止めましょうか。そうはしません。今こそ、健康であるあなたが、神が祝福を注いでくださるまで、この祈りという仕事に身を投じて、この重荷を負い、ひざまずいて祈りをささげるときではありませんか。

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