主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。
主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。
数年のうちにも、それを生き返らせ
数年のうちにも、それを示してください。
怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。(ハバクク3:2)
預言者ハバククはエレミヤと同時代に生き、この預言はバビロン捕囚を予見してなされたと考えられています。預言者の魂は、彼の国にすばやく下された裁きを見て苦しみに打ちひしがれ、「主よ、あなたの御業を生き返らせてください」と苦しみながら叫びます。彼は次のように言いたかったのかもしれません。「主よ、あなたの裁きがイスラエルを荒廃させることがありませんように。この恐ろしい時に、あなたの御業によって私たちの信仰を復活させてください。お怒りになっても慈悲を忘れないでください。」と。
信仰は人間の仕事です。それは人間がすることです。それは、心を尽くして、そして心から神に従うことにあります。それは人間の義務ですが、実際には、神は人間に服従するように仕向けます。人間は邪悪で服従しようとしないため、神は聖霊によって働きかけてくださいます。もし、神が働きかけなくても、人が神に従おうと決意することができるなら、「主よ、あなたの御業を生き返らせてください」と祈る必要はありません。このような祈りが必要なのは、人間は神に従う気が全然ないからです。そして、神が聖霊によって心を動かせてくださらない限り、地上の人は誰も神の命令に従わないでしょう。
「信仰の復興」がよく口にされるのは、目の前に信仰の後退があるからです。世界のほとんどすべての教派はリバイバルによって生み出されてきました。人間の心には、刺激によって高揚される性質があります。神は、人間を従わせるために、この性質を用いて、人間の心を激しく高揚させる必要があると考えておられます。人間は霊的に鈍く、世には信仰から心を引き離し、福音の影響に反することがたくさんあります。だから、霊的な高潮によって信仰に対する障害を一掃するまで、人間の心を高揚させる必要があります。信仰に反する影響を打ち破るくらい高揚することによって初めて、人間は神に従順するようになります。もちろん、その高揚した感情自体は信仰ではありません。そして反対に、信仰を妨げる欲望、貪欲、感情の高揚もあります。人間の意志は、ある意味で、肉欲と世俗的な欲望によって奴隷にされています。したがって、人間を罪悪感と危機感に目覚めさせ、肉欲と世俗的な欲望を打ち砕くべくそれに対抗する感情の高揚を生み出させ、意思を神に自由に従えるようにする必要があります。
ユダヤ人の歴史を振り返ると、神は彼らの間で信仰を維持させるために、大きな高揚をもたらす特別な機会を設けることによって人々を主に立ち返せていたことがわかります。そして、このように覚醒した後、すぐに信仰を妨げる多くの悪い影響が臨むようになり、信仰は衰退し、次の神の時が来るまで衰退し続けます。神は聖霊によって彼らに罪を悟らせ、神の摂理によって裁きが行われると、それによって大衆の注目を集めて、救いの偉大な主題に目を向け、大規模なリバイバルと覚醒を起こします。その後、信仰に対する妨害が再び働き始め、信仰が衰退し、国は生活のおごり、偶像崇拝、そして高慢の渦に流されてしまいます。
教会には信仰の原則がほとんどありません。教会に与えられた目的に沿ったしっかりとした歩みがなされていません。そのため、信仰的な感情が目覚め、高揚し続けない限り、それに反する世俗的な感情と高揚が優勢になり、人間は神に従わないでしょう。教会は知識がほとんどなく、原則も非常に弱いので、高揚しない限り、義務の道から外れてしまい、神の栄光を現すために何もしません。世界はまだそういう状態です。おそらくは千年王国が来るまで、信仰は主にリバイバルによって促進されるでしょう。教会は定期的な高揚なしに、神のために着実に行動しようと、長年試みてきましたが、何の進歩もありません。多くの人は、信仰を促進するための最良の方法は、高揚なしに、未信者を徐々に教化し、規則正しく成長させることだと今でも考えています。しかし、そのようなやり方はうまくいくように見えたとしても、現実がその誤りを示しています。教会が知識において十分に進んでいて、目を覚まし続けるのに原理が安定していれば、そのような方法も効果があるでしょう。しかし、教会はほとんど啓蒙されておらず、反作用する原因がたくさんあるので、特別な関心が目覚めない限り、教会は健全な歩みをすることができません。千年王国が始まれば、これらの定期的な高揚は不要になるでしょう。千年王国になれば、教会は啓発され、信仰を妨害するものは取り除かれ、教会全体が絶えず忠実に神に従順するようになります。教会は子供たちの心を神に向けます。子供たちは正しい方法で訓練されます。そしてリバイバルによる高揚がなくても、教会の信仰を試すような、世俗主義、流行、そして貪欲といった急流はありません。
そうであることが理想です。教会が高揚なしに従順の道で着実に進むことは、非常に望ましいことです。リバイバルによる高揚は健康を害する傾向があります。私たちの神経系は非常に緊張するので、強力な高揚が長く続くと、私たちの健康を害し、生活での義務を果たせなくなります。もし信仰が世界を席巻する影響力を持っているとすれば、一時的にしか高揚されない信仰のあり方はやめなければなりません。クリスチャンが霊的に眠ることがほとんどなくなるからです。たまに目を覚まし、目をこすり、寝返りをうち、声を上げてから、再び眠ってしまうことはありません。そうであれば、牧師たちが教会に降りかかる世俗的な影響力の洪水を防ぐために努力し、身をかがめて必死で祈る必要はなくなります。しかし、現在のキリスト教界は、高揚なしに信仰を促進することを期待し難い状態です。キリスト教国を動揺させる大きな政治的な力をはじめとする世俗的な勢力はすべて、信仰にとってよくないものであり、魂の問題から心をそらします。現在、これらの勢力は信仰的な高揚によってのみ打ち消すことができます。そして、世界から信仰を妨げる勢力がなくなるまで、リバイバルによる高揚以外の方法で、信仰を促進しようとすることは無駄です。これは哲学的に真理であり、歴史が証明する事実でもあります。
リバイバルの影響を除いて、異教徒の国々の間で信仰が進歩することはまったくありません。現在、教育やその他の慎重で段階的な方法によって、異教の国の福音化を実現しようとしています。しかし、心の法則がそのままである限り、それは不可能です。眠っている道徳的な力を目覚めさせ、退廃と罪の流れを打ち破るのに十分な高揚がなければなりません。そして、私たち自身の国が邪教に近いのであればなおさら、そのような状態で信仰を促進することは不可能です。信仰の促進はただ強力な高揚によって可能です。事実、神は常に高揚という方法をとってきました。神は理由もなしに高揚によって信仰を促進させてこられたわけではありません。人類は神に従うことに非常に消極的なので、高揚するまで重い腰をあげようとしません。たとえば、自分が信心深くなるべきだとわかっていても、敬虔になると仲間に笑われるのではないかと恐れて躊躇している人がどれくらいいるでしょうか。多くの人は偶像と結婚します。他の人々は人生が落ち着くまで、あるいは彼らが好きな世俗的な関心事に飽き足りるまで、悔い改めを先延ばしにしています。そのような人々は、罪悪感と危機感に高揚して自分を保つことができなくなるまで、偽りの恥をあきらめたり、野心的な計画を放棄したりすることは決してありません。
今までの内容は導入です。これから下記の本題に入っていきます。
今までの内容は導入です。これから下記の本題に入っていきます。
1. 信仰のリバイバルは何でないのか
2. 信仰のリバイバルとは何なのか
3. リバイバルを促進するものについて
1. 信仰のリバイバルは奇跡ではありません
1.奇跡とは一般的に、自然法則を除外したり、一時停止したりする、神の干渉であると定義されています。そういう意味でリバイバルは奇跡ではありません。リバイバルが起こってもすべての物質と心についての法則は有効です。リバイバルによって一時停止されたり、除外されたりすることはありません。
2.奇跡という言葉の「自然の力を超える何か」と定義しても、リバイバルは奇跡ではありません。信仰には、自然の力を超えるものは何もありません。信仰は、自然の力の完全に正しい行使を含むものです。それだけであって、他には何も超自然的なことはありません。人類が宗教的になったからといって、以前には持っていなかった力を持つようになるわけではありません。ただ、神の栄光のために、もともと持っていた力を以前とは異なる方法で発揮することができるのです。
3.リバイバルは、いかなる意味においても、奇跡ではなく、奇跡に依存しているわけでもありません。方法を正しく用いるなら何事もそれなりの結果が得られるように、リバイバルも一定の方法を正しく用いれば当然起こるべきものなのです。リバイバルに先行して奇跡が用いられることがあるかもしれませんし、ないかもしれません。使徒たちは単に、メッセージに人々の注意をひきつけるため、また、神の権威を表すために、奇跡を行いました。しかし、奇跡はリバイバルではありませんでした。奇跡は奇跡であって、その後のリバイバルはまったく別のことでした。使徒たちの時代のリバイバルは奇跡と関係がありましたが、奇跡ではありませんでした。
私は、リバイバルは適切な手段が正しく用いられた結果だと言いました。神がリバイバルを生み出すために命じられた手段は、間違いなく、自然にリバイバルを生み出すものです。そうでなければ、神は命じられなかったでしょう。しかし、神の祝福なしに、手段だけではリバイバルは起こらないことは言うまでもありません。神の祝福なしに種を蒔いても、穀物を収穫することはできません。リバイバルを生み出すことについても、穀物を収穫することについても、神からの直接的または間接的な影響がないと言うことはできません。穀物の収穫についての自然法則から、神の働きについての定められた方法を見ることができます。聖書では、神の御言葉は麦にたとえられ、説教は種を蒔くことにたとえられています。種まきの結果、麦は発芽し、成長します。麦が適切な農作業によって自然に成長するように、リバイバルも、適切な手段を用いれば必ず起こります。確かに、信仰には必ずしも原因と結果だけで論じることができない部分があることは事実です。しかし、それでも、麦が適切な農作業という原因によって成長するのと同じくらい、信仰のリバイバルもある機会を原因として、自然にそして確実に生じることがあります。
この考えがあなたの心に印象づけられることを願っています。なぜなら、信仰を促進するのは、自然の因果関係の法則によらず、得体の知れない何かがあるという神話が長い間浸透してしまっているからです。要するに、手段と結果には因果関係がなく、効果的な手段についての傾向もないという発想です。教会の繁栄にとってこれほど危険で馬鹿げた教義はほかにありません。
ある人が農民たちに、この教義をもとづいて種まきについて、こう説教をしたとしましょう。「神は主権者であり、神は御自分の望むときにだけ作物を与えてくださいます。だから、あなたたちが自分で作物を育てようと畑を耕し、植え、労働することはとんでもない間違いです。それは、神の御手の働きを奪うことにほかなりません。自分の力で働くことによって、神の主権を侵害しています。そして、農作業という手段と収穫という結果との間には、何の因果関係もありません。」もし、農民たちがそのような教義を信じたらどうなるでしょうか。全世界が餓死してしまうでしょう。
まさに同じことが、信仰を促進することは神秘的な神の主権の問題であり、手段と目的の間につながりがないという教会の教えによって引き起こされます。その結果、幾世代にも渡って、大勢の人々が地獄に落ちたのです。教会が夢を見て、神が自然の手段を使わずに人々を救ってくれるのを待っている間に、間違いなく5億人以上が地獄に落ちました。それは、魂を滅ぼすための悪魔の最も成功した策略でした。農民が種を蒔くのと同じように、信仰においても手段と結果のつながりは明らかです。
神の統治下には、普遍的に知られ、永遠の記憶に値する一つの事実があります。最も有用で重要なものは、適切な手段を使用することによって、最も簡単かつ確実に取得できます。これは明らかに神の国の原則です。したがって、生活に必要なものはすべて、最も単純な手段で非常に確実に得られます。贅沢品を手に入れるのはもっと難しいのです。贅沢品を調達する手段は、必需品よりも複雑で、不確実です。たとえば、アルコールのように明らかに有害で有毒なものは、自然を痛めつけ、一種の地獄の魔術を利用して死をもたらす物質を生み出すことによってのみ得られるものです。この原則は魂の問題にも当てはまります。霊的な祝福は非常に重要なので、適切な手段を使用することで、非常に確実に得られることを期待するべきです。それは確かな事実です。定められた手段が正しく使用されれば、霊的な祝福が永続的に得られると私は確信しています。
2. リバイバルとは何か
それはクリスチャンが最初の愛に立ち帰ることであり、罪人の目覚めと神への回心をもたらします。一般的に、教会における信仰のリバイバルは、多かれ少なかれ後退した教会を揺り起こし、勢いを与え、再生させます。信仰のリバイバルは、多かれ少なかれあらゆる種類の人々の目覚めであり、神の御声に注意を向けさせます。
リバイバルの前には、教会は後退した状態です。リバイバルが起こると、教会は後退した状態から立ち帰り、罪人は回心します。
1.リバイバルには、常に教会側の罪の自覚が含まれます。信仰の後退した信者たちは、心の内を深く探らなければ、すぐに目を覚まして神への奉仕を始めることはできません。罪の泉を破壊しなければなりません。真のリバイバルでは、まずクリスチャンが深い罪の自覚に導かれます。クリスチャンは自分たちの罪を強い光の中で見るので、神に受け入れられるという希望を持つことすらできなくなることがよくあります。毎回必ずそれほどの認罪が生じるとは限りません。しかし、真のリバイバルでは、罪の深い自覚が常にあり、すべての希望を投げ捨ててしまうほどになることもよくあるのです。
2.信仰の後退したクリスチャンが悔い改めます。リバイバルは、神への従順の新たな始まりに他なりません。回心した罪人の場合と同じように、最初のステップは深い悔い改め、打ち砕かれた心、塵の中にふして神の御前にへりくだること、深い謙遜、そして罪の放棄です。
3.クリスチャンは信仰を新たにします。信仰が後退しつつある状態のとき、クリスチャンは滅びゆく罪人たちに対して盲目です。クリスチャンの心は大理石のように固く、聖書の真理は夢のようにしか見えません。彼らは聖書がすべて真実であることを認めています。彼らの良心も理性も、聖書に同意します。しかし、彼らの信仰は、聖書が驚くべき救いの真理を示していることを実感しません。しかし、リバイバルに入るとき、彼らの目には人間が歩く木のようにはもはや映らなくなるでしょう。彼らは強い光を受けて、心の中の神の愛を新たにして人々を見ます。彼らは他の人を神の下に導くために熱心に働くようになります。彼らは自分が神をとても愛しているのに、他の人々が神を愛していないことに悲しみを感じるでしょう。そして、彼らは神に心を明け渡すようにと隣人を説得したと感じるようになります。彼らの人間への愛は新たになります。彼らは失われた魂への優しくて燃えるような愛で満たされます。彼らは全世界の救いを切望するでしょう。彼らは、救いに導きたいと思っている友人、親族、敵のことを思い、心を苦しめるでしょう。彼らは他の人々に心を神に明け渡すように促すだけでなく、信仰の腕の中で人々を神の下に運び、強い叫びと涙で人々を憐れみ、人々の魂を永遠の火から救うよう神に求めます。
4.リバイバルは、クリスチャンに対する世と罪の力を打ち砕きます。リバイバルによってクリスチャンは見晴らしの良い場所へと運ばれ、天国への欲求を新たにさせられます。クリスチャンは天国の前味を味わい、神様と一つになりたいという願いを新たに持つようになります。そして世に魅力を感じなくなり、罪の力を克服します。
5.このように教会が目覚め、改革されると、罪人の改革と救いが続き、両者とも認罪、悔い改め、そして改革という同じ段階を経ます。彼らの心は打ち砕かれ、変化します。非常に多くの場合、最も社会から見放された人々がこの中に含まれます。娼婦、酔っぱらい、異教徒、そしてあらゆる種類の見放された人々が霊的に目覚め、回心します。最悪な部類の人々は柔和になり、へりくだって、清さと麗しさの見本のようになります。
3. リバイバルを推進するもの
通常、罪人の回心には3つの関係者と、1つの道具がかかわっています。3者は、神と真理を伝える人と罪人自身です。道具は真理です。真の回心では、少なくとも神と罪人の2者が常にいます。
1.神の働きは2つあります。神の摂理と聖霊による働きです。
(1)神の摂理的な統治によって、神は罪人の心が真理に触れる機会を与えます。神は真理が罪人の耳または罪人の目に届くように、罪人を導きます。神がそのためにどのように絶好な機会を用意するのか、また、時としてどのようにすべてのものをリバイバルに有利に働くように仕向けるのかを調べることは非常に興味深いことです。天候、公衆衛生、その他の状況を総動員して、最大限真理を受け入れるにふさわしいようにします。神は時々、ちょうど必要なときに牧師を送ってくださいます。神は、個々人が聞くべき特定の真理を最も適切なときに聞くことができるように導いてくださいます。
(2)聖霊によって神は特別な働きをされます。心を直接見て、個々の罪人の人生と状態のすべてを完全に把握している聖霊は、その罪人に最も適した真理を選び、それを御力によって罪人の心に植えます。聖霊はその真理に鮮烈さ、強さ、力を与え、罪人がうめき声を上げ、反逆の武器を投げ捨て、主に立ち帰るようにします。聖霊の影響下によって、真理は燃えあがる火のようになって罪人の道をふさぎます。聖霊はそのように真理に力を帯びさせるので、最も高慢な人をも山のような重さで押しつぶします。もし、従順する気があれば、聖書で真理がはっきりと示されています。説教からも必要なことをすべて学ぶことができます。しかし、罪人が神に従順することを全面的に拒否しているので、神は彼らの心に真理を示し、彼らの魂に耐えがたい激しい認罪の光を注ぎます。それで人間は屈し、神に従順し、救われます。
2.多くの場合、人間が仲介者として用いられます。真理は道具ですが、働き人は神の御手にある単なる道具ではありません。説教者は道徳的行為者です。単なる受動的な道具ではありません。自発的に罪人の回心を促進します。
3.罪人自身が回心に関わります。回心には、罪人が真理に従うことが伴います。したがって、罪人には決定権があるので、罪人の意思の決断なしに回心が起こることはありえません。罪人は回心する上で、神と人から影響を受けます。人は、言葉だけによらず、外見、涙、日ごろの行いによって影響を与えます。敬虔な妻を持っているかたくなな男のことを考えてみてください。彼女が見た目、優しさ、厳粛さ、憐れみに満ちた品性によって、キリストの似姿に形作られていれば、その男にとって存在自体が説教となります。彼はなんとか注意をそらそうとします。妻の敬虔さが彼への非難となるからです。彼は一日中耳に説教が鳴り響いているように感じます。
人は他の人の表情を読みとることができます。罪人はクリスチャンの目を見ての心の状態を知ることがよくあります。もしクリスチャンの目が浮き沈みし、世的な思い煩いと考えに満ちているなら、罪人はそれを読みとります。クリスチャンが神の霊に満ちているなら、罪人はそれを読みます。そして罪人は、クリスチャンの表情を見ることによって強い認罪に導かれることがあります。
ある人が紡績工場に機械を見に行きました。彼はリバイバルがあった場所にいたので、彼の心は厳粛でした。そこで働いていた人々は皆、一目で彼が誰であるかわかりました。働いていた一人の若い女性が彼を見て、仲間に愚かなことをささやき、笑いました。その人は立ち止まり、悲しみを感じながら彼女を見ました。彼女は止まり、糸が切れました。彼女は動揺してつなぐことができませんでした。彼女は気を取り直そうと窓の外を見て、それからもう一度作業を再開しようとしました。彼女は何度も何度も自制心を取り戻すために努力しました。とうとう彼女は感情を抑えきれなくなり、へたり込んでしまいました。それから、その人は彼女に近づき、話しかけました。すると、彼女はすぐに深い罪の意識を抱いたことを示しました。その感情は火のように施設全体に広がり、数時間でそこの従業員のほとんどすべての人が認罪に導かれました。工場主は世的な男でしたが驚いて、作業を止めて祈り会を開くことを要請しました。彼は、仕事を続けるよりも、人々を回心させることがもっと重要だと言いました。そして数日で、工場主と施設の従業員のほぼすべての人が回心しました。その人の目、その厳粛な表情、その憐れみ深さは、若い女性の軽率さを叱責し、彼女を認罪に導きました。この小さな出来事によって、大きなリバイバルが起こったのです。
クリスチャンが自分自身の信仰について深い感情を持っているなら、どこへ行っても深い感情を生み出すでしょう。そして、クリスチャンが冷たく、軽率でふまじめであれば、必然的に、目覚めた罪人の深い認罪の感情をもすべて破壊してしまいます。
一つの悪い事例があります。ある婦人が強い求道心を持ちました。ところがある日、彼女の罪の意識がすっかりなくなってしまったかのように見えたので、私は悲しみました。私は彼女に何をしていたのかを聞きました。彼女は、信者たちと午後の時間を過ごしていました。まさかそれで罪の意識なくなってしまうとは思わず、信者たちと午後を過ごしていたと私に言いました。信者たちがふまじめで空っぽだったので、彼女の罪の意識は失われました。間違いなく、信者たちの愚かさによって、一人の魂が失われてしまいました。彼女の罪の意識は二度と戻らず、回心することができませんでした。
教会は罪人の回心のためにあらゆる手段を行使することが求められています。罪人は自分自身の回心のためにあらゆる手段を尽くさなければならないのではありません。教会がそれをするのです。罪人がすることは、真理に服従するか、反抗するかです。罪人が自分自身の回心のために手段を講じなければならないとするのは大間違いです。リバイバルの全体の流れとリバイバルに関するすべてのものは、あなたに従順か反抗かを選択させるために、あなたの心に真理を提示するように設計されています。
備考
1.リバイバルは、以前は奇跡と見なされていました。そして、いまでもそう思っている人がいます。彼らは、この主題について非常にいい加減で不十分な考えを持っているので、少し考えるだけで、おかしいことに気づくでしょう。長い間、教会は、リバイバルは奇跡であり、神の御力の介入であって、雷や嵐や雹や地震を生み出すことができないように、リバイバルを起こすためにできることは何もないと考えてきました。牧師が一般的に、リバイバルを起こすために神によって用意された適切な手段を用いることによって、リバイバルを促進することができると考えるようになったのは、ここ数年の話です。ニューイングランドでさえ、リバイバルはシャワーと同じように、時にはある町で、時には別の町で起こるものであって、牧師や教会は雨が別の街で降っているときには自分の街で降らせることができないように、リバイバルを起こすためにできることは何もないと考えられていました。
かつて、15年に一度のリバイバルが起こり、神が救おうとしていたすべての人が回心し、次の収穫のときが来るまで人生の舞台で待たなければならないと考えられていました。あとになって、期間は5年に短縮され、そのくらいの頻度でリバイバルが起こるかもしれないと思われるようになりました。
これらの牧師の一人で、5年に一度リバイバルが起こると信じていた人の話を聞いたことがあります。彼の教会の会衆はリバイバルが起こりました。翌年、隣の町でリバイバルがあり、彼は説教のためにそこに行き、心を尽くしてすべての働きを終えるまで、数日間滞在しました。彼は土曜日に家に帰り、聖日の準備のために聖書研究に入りました。彼の心は苦しんでいました。彼は、会衆のうちどのくらいの大人が神と敵対関係にあるのかを考えました。非常に多くの人がまだ回心していません。回心していない人を含めて毎年多くの人が死んでいます。もしリバイバルが5年後まで起こらなかったら、一家の家長にあたる多くの人々が地獄に落ちることになります。彼は自分の計算を紙に書き記し、次の日の説教でその破滅的な予測を心痛と共に会衆と共有しました。私が思うに、彼はリバイバルを期待して説教をしたわけではありませんでしたが、彼の深い心の痛みを、会衆に注ぎました。そして、その説教は40人の家長を霊的に目覚めさせ、強力なリバイバルを引き起こしました。それで、5年に一度だけリバイバルが起こるという彼の理論は崩れ去りました。
このように、神は広く、リバイバルは奇跡であるという理論を覆しました。
2.神の主権に関する誤った考えは、リバイバルを大きく妨げてきました。多くの人々は、神の主権を実際とは非常に異なるものと捉えてしまっています。リバイバルを不可抗力的な出来事、ある種の聖霊の賜物のように考えるので、信仰のリバイバルを促進するための合理的な手段を用いることを妨げていました。しかし、神がそのように主権を行使しているという根拠は、聖書にはありません。それを証明する事例も何もありません。しかし、逆にすべてのことが、神が神のあらゆる主権的な統治を通して、つまり自然と恵みによって、手段と結果を結びつけていることを示しています。神が関与しない自然の出来事はありません。神は、御自身の深い配慮なしに勝手に進む巨大な機械のような被造物を創造していません。神は宇宙を自動的に働くようにして、御自身は手を引いてしまったのではありません。それでは単なる無神論です。神は普遍的な監督と管理を行っています。それでも、自然界のすべての出来事は何らかの手段によってもたらされてきました。神は、手段を省くような主権によって、自然の摂理と恵みを管理しません。自然界においても、救いの働きにおいても同様です。
それでも、リバイバルを促進するための直接的な努力にひどく警戒する人もいます。彼らは、「あなたは自分の力でリバイバルを起こそうとしています。気をつけなさい。あなたは神の主権を侵害しています。いつものやり方を続けて、神が最善だと思ったときにリバイバルを与えていただきなさい。神は主権者であり、リバイバルが必要だと思っているからといって、あなたがリバイバルを起こそうとするのはとんでもない間違いです。」これは悪魔が望んでいる説教です。私たちがリバイバルを起こすための努力をするべきではない理由として、神の主権を説教すること以上に、効果的に悪魔の働きをすることはできません。
3.リバイバルなしで信仰を世で促進させることができると考え、霊的な目覚めを引き起こすためのあらゆる努力を手放そうとしているとする人々は明らかに間違っています。信仰に関する大きな高揚によって時に悪が働く場合もあるので、リバイバルを完全に排除することが最善だと彼らは考えています。そうしてはなりません。確かに、リバイバルが悪用される危険はあります。偉大な信仰の高揚は、その他のすべての高揚と同じように、当然、多かれ少なかれそれに付随して悪いことが起きることは予想できます。しかし、これはリバイバルを断念すべき理由とはなりません。最高のものには常に悪用されるリスクがつきものなのです。数多くの様々な種類の悪が、神の摂理の許しのもとで起こります。しかし、これらの倒錯と悪が予見できても、リバイバルをあきらめる十分な理由とは見なされませんでした。リバイバルによっていろいろなことが起こりますが、全体としては、最大の幸いな結果を得るためにできる最善のことでした。ですから、信仰のリバイバルがなければ、経験上、現状の世においては、信仰を促進することはできないことがわかります。時折目につく悪は偶発的なものであり、リバイバルによって生み出される良い結果と比較した場合とるに足りないものです。リバイバルをあきらめようという思いは、一瞬たりとも教会にあってはなりません。その思いは、御国における富を脅かすものであり、宣教に死をもたらし、世界の堕落をもたらします。
最後に、ここにいるあなたに提案があります。私は、このリバイバルという主題についての私自身の奇想天外な理論を打ち立てるために、このリバイバルに関する講演を始めたのではありません。私はあなたに教え、あなたの好奇心を満足させ、あなたにおもしろい話題を提供するために私の時間と力を費やしたくありません。私はリバイバルについて説教するつもりは全くありません。あなたが何の行動を起こすことなしに、「私はリバイバルについてすべて理解した」と最後に言えるように説教するのが私の目的ではありません。私はあなたに質問をしたいと思います。何のためにリバイバルについての講義を聞いていますか。リバイバルを推進するためにこれをしなければならないと確信したことは何でも、出て行って実践するためですか。
神の御言葉によって私があなたに与える指示に従い、あなたの生活の中でそれらを実践していただけますか。あなたはリバイバルの講演で学んだことをあなたの家族、あなたの友人知人、そして街全体に伝えていただけますか。それとも、ただリバイバルについて学ぶために時間を過ごすだけで、何もしませんか。リバイバルについて何かを学ぶやいなや、それを実践して、罪人の間でリバイバルを起こせるかやってみてください。そうしないのであれば、最初に教えてください。そうすれば私は無駄なことをしなくてすみます。これを行うかどうかを今すぐ決める必要があります。あなたは、私たちが罪人と呼ぶ人々が、福音に従うかどうかをその場で決めなければならないことを知っています。そして、罪人がすぐに従わなければならない以上に、あなたにも神に従うかどうかを熟考するために時間をかける権限はないのです。私はあなたが今、神への厳粛な誓いをし、あなたがそれ何かを学ぶやいなや実践する義務を果たし、神がいま教会とすべての都市に御霊を注いでくださるように祈ります。
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