再びわたしたちに命を得させ
あなたの民があなたによって
喜び祝うようにしてくださらないのですか。(詩編85:7)
この詩編は、読めばすぐわかるように、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還した直後に書かれたと考えられています。詩編の作者は、神がイスラエルの民に対して非常に好意的だったと感じました。そして、彼らが捕囚とされていた土地から連れ戻してくださった主の善良さを思い巡らし、イスラエルの民の前途を思って信仰のリバイバルのための祈りに入りました。「わたしたちをリバイブさせ、あなたの民があなたによって喜び祝うようにしてくださらないのですか。」 神が摂理の中で、彼らの国をもとのように再建してくださったので、彼は御働きを完成してくださるよう、信仰のリバイバルをも祈り求めたのです。
前回の課で、私は信仰のリバイバルが何でなく、何であるのかを示そうとしました。そして、リバイバルを促進するために用いられる関係者についても触れました。今回あなたに注目していただきたい内容は、下記の通りです。
1.信仰のリバイバルが必要なとき
2.リバイバルが必要なときにおけるリバイバルの重要性
3.どのようなときにリバイバルが期待できるか
1.信仰のリバイバルが必要なとき
1.信者たちの間で、兄弟愛と信頼が欠けている場合に、リバイバルが必要です。それから、神が働いてリバイバルを起こしてくださるようにという大きな叫び声があがります。クリスチャンの信仰が沈み込み、後退した状態のときには、生き生きとした信仰があって、聖なる生活を送っていたときのような、互いに対する愛と信頼を持っていませんし、持つことはできません。慈悲という意味での愛は信仰が後退しているときも変わらないかもしれませんが、それは満足をもたらす愛の交わりではありません。神は慈悲の愛をもってすべての人を愛しておられますが、聖なる生活を送る人以外には満足できる愛の交わりを感じません。クリスチャンは、聖さによってしか、満足をもたらす愛で互いに愛し合うことはありませんし、できません。もしクリスチャンの愛が、内なるキリストの形による愛であれば、キリストの形が実際にはっきりとその人の内に存在する場合にしか愛することができません。人はキリストの形を反映し、キリストの御霊を示さなければ、他のクリスチャンと真実な愛の交わりをすることができません。クリスチャンの信仰が愚かにも沈みこんでいるのに、クリスチャンとして、キリストの愛をもって互いを愛し合いましょうと呼びかけるのは無駄です。満足をもたらす愛の交わりを生み出すものを、互いに何も持っていないのです。信仰以外の方法で互いに深く愛することは、罪人を愛するよりも不可能に近いことです。クリスチャンがただ教会に所属していて互いのことを知っているだけ、あるいは聖餐の席で時々互いの顔を見ているだけで、キリストの形を見ない限り、クリスチャンの愛を生み出すことはありません。
2.信者たちの間で不和、嫉妬、悪口があるとき、リバイバルが切実に必要とされます。クリスチャンが神から遠く離れており、リバイバルについて真剣に考える時が来ているのは明らかです。教会がそのような体たらくでは、信仰は栄えることはできません。そして、リバイバル以外によっては状況を打開することはできません。
3.教会に世俗的な傾向があるとき、リバイバルが必要です。クリスチャンが世的な服装、アクセサリー、パーティー、世的な娯楽を求めたり、小説や世の人が好むような本を読んだりして世に順応しているのを見れば、教会の信仰が後退した状態に陥っていることは明らかです。それは、クリスチャンが神から遠く離れていて、信仰のリバイバルが大いに必要とされていることを物語っています。
4.教会員がとんでもないスキャンダラスな罪に陥っているのを見れば、教会は目を覚まし、信仰のリバイバルを神に叫び求める時が来ています。そういうことがあると、信仰の敵に非難の機会を与えてしまいます。教会は神に「あなたの偉大な御名はどうなってしまうのでしょう」と尋ねなければなりません。
5.その教会や国が論争好きなとき、リバイバルが必要です。信仰心は論争心ではありません。論争に病みつきになっていたら、信仰は決して栄えません。
6.邪悪な者が教会を打ち負かし、教会をののしるとき、信仰のリバイバルを求める時です。
7.罪人が軽率で、愚かな生き方をして、地獄に沈んでいることに無自覚なとき、教会は自らを奮い立たせるべき時です。そういうときには、大都市で夜に火事が起こったときに目を覚ますのが消防士の義務であるのと同じように、目を覚ますのは教会の義務です。教会は邪悪な者を燃やす地獄の火を消すべきです。消防士が眠っていれば、街全体が焼き尽くされてしまいます。そのような消防士をどう思いますか。それでも、消防士の罪よりは、周りの罪人が愚かにも地獄の火に沈んでいるのに、眠りこけているクリスチャンの罪の方がずっと重いでしょう。
2.リバイバルが必要な状況での信仰のリバイバルの重要性
1.信仰のリバイバルだけが、教会に押し寄せる非難を一掃し、信仰を多くの人が考える本来あるべき姿に戻すことができます。リバイバルがなければ、教会への非難はますます押し寄せてきて、世界全体が教会を軽蔑してしまうほどになるでしょう。あなたはリバイバル以外の自分の目に良いと思うことを行うこともできます。そして、あなたは社会の教会に対する評価をいくらか変えることができます。しかし、本質的に益となることは何もできません。信仰のリバイバルなしでは悪化させるだけです。あなたは行って、立派な新しい礼拝堂を建て、ダマスク織の椅子を並べ、高価な講壇を立て、荘厳なオルガンやその類のものをすべて手に入れて、派手なショーをすることができます。そうすれば、邪悪な人々たちから信仰に対するある種の尊敬を得ることができるかもしれませんが、実際には全然良いことではありません。むしろ痛手となります。信仰の本質について彼らを誤解させてしまいます。そして、彼らを回心させるどころか、救いから遠のかせてしまいます。罪人たちがキリスト教の祭壇をきらびやかに飾られているのを見ると、信仰の本質に反した印象を持ってしまいます。クリスチャン自身が信仰の力に目覚め、聖霊で満ちあふれていなければなりません。さもないと、世は教会を笑うでしょう。
2.リバイバル以外に教会員の間でクリスチャンの愛と信頼を取り戻すものはありません。信仰のリバイバル以外にそれを回復することはできず、他に何もそれを回復するべきではありません。クリスチャンを目覚めさせ、表現できないほどの愛をもって互いに愛し合うようにする方法は他にありません。信頼なしにそのような愛を持つことはできません。そして、リバイバルが起こると見られる敬虔な信仰によらなければ、信頼を取り戻すことはできません。牧師は、教会員の信頼を少しでも失ったことに気づいたら、信頼を取り戻す唯一の手段としてリバイバルのために努力すべきです。教会員の信頼を取り戻すことをリバイバルのために努力する動機とすべきだという意味ではありません。しかし、リバイバルという彼の取り得る唯一の手段を用いれば、彼の祈りの力に対する信頼を回復することができます。だから、教会の長老や一般信徒が、兄弟たちが彼に対して冷たいと感じたら、解決策は一つだけです。自分自身をリバイブさせ、その目と生き方を通して内なるキリストの形の輝きを注ぎだすことです。そうすれば、その霊は人々の心をとらえ、教会に広まり、信頼を新たにし、兄弟愛を再びいっぱいにします。
3.教会が神の裁きを避けるために、信仰のリバイバルは不可欠です。もしリバイバルが完全に奇跡であって、雷雨を起こすことができないように、教会がリバイバルを生み出す方法を持っていないのなら、これは奇妙な説教となってしまいます。そうであれば、教会に対して、リバイバルがない限り、裁きを受けることになりますと言うのは、雷雨を持っていないなら、裁きを受けることになると言うのと同じくらいばかげているでしょう。実際には、罪人が回心しないことよりも、クリスチャンがリバイブされていないことの方がもっと責任を問われます。もしクリスチャンが目覚めなければ、神が裁きもって訪れることを知らなければなりません。ユダヤ人の会衆が、預言者の呼びかけに応じて悔い改めたりリバイバルしたりしなかったので、神は何度裁きをもって訪れたでしょうか。全教派の全教会が、目を覚まして主を求めず、「再びわたしたちに命を得させ、あなたの民があなたによって喜び祝うようにしてくださらないのですか」と祈らないので、何度呪いを受けたでしょうか。
4.信仰のリバイバルだけが、教会をそのような破滅から守ることができます。衰退する教会は、リバイバルなしには存続できません。教会が新しい会員を受け入れるなら、その大部分は不敬虔な人々です。通常、リバイバルがなければ、死ぬ人と同じくらいの人が回心することはありません。この国の教会には、会員が亡くなっていき、代わりに他の人々を回心させるリバイバルがなかったので、人がいなくなり、閉鎖してしまったものもあります。
ある牧師は、かつて燃えるトーチのように光り輝いたサミュエル・デイヴィスがいたバージニア州の地で牧会していたと私に話しました。デイビスの教会は、男性のメンバーが1人しかいないほど縮小していました。私の記憶が確かなら、彼は有色人種の男性でした。教会は高慢になり、すべてを失ってしまいました。以前は栄えていたのに、リバイバルを怠ってしまったペンシルベニア州の教会のことを聞いたことがあります。あまりにも人数が減ってしまい、牧師が聖餐を行う際に、近くの教会から長老を派遣してもらわなければならないほどでした。
5.信仰のリバイバルだけが、恵みの手段が不敬虔な者に大きな傷を負わせるのを防ぐことができます。リバイバルがなければ、彼らは説教の下でますます頑なになり、福音を聞いたことがなかった場合よりも恐ろしい苦しみを経験するでしょう。あなたの子供たちと友人たちは、彼らを神に立ち帰らせるリバイバルがなければ、恵みの手段によって、地獄で恐ろしい目に遭います。恵みの手段、聖礼典、聖書、説教がなく、福音を一度も聞かない方が、リバイバルのない場所で一生を過ごすよりも、彼らにとっては幸せです。福音は、命から命へと至らせる香りでなければ、死から死へと至らせる香りです。
6.教会を聖化し、恵みにおいて成長し、天国にふさわしくする方法はリバイバルの他にありません。恵みにおいて成長するというのは、どういうことでしょうか。説教を聞いて、信仰について新しい概念を得るということでしょうか。いいえ、そのようなことはではありません。説教を聞くだけのクリスチャンは、ますます悪くなり、頑なになり、週を追うごとに、彼を果たすべき務めに就かせることが難しくなっていきます。
3.どのようなときに信仰のリバイバルを期待できるか
1.神の摂理が、リバイバルが間近に迫っていることを示しているとき、リバイバルを期待できます。神の摂理の兆候は、神の御心の啓示と言っていいくらい明白な場合があります。リバイバルの道を開くために神によって計画された出来事やリバイバルにとって好都合な状況が与えられるので、リバイバルを求めている人は、天からの啓示のようにはっきりとリバイバルが間近に迫っていることを知ることができます。神の摂理の現れが非常に明白なので、御働きを注意深く見張る人々が、神が聖霊を注ぎ出して、信仰のリバイバルを与えるときが来ているということをためらわなかった事例がこの国ではありました。神が人々に御心を示す方法はいろいろあります。時には独特な手段によって、時には憂慮すべき出来事によって、時には天候や健康などの顕著なしるしによります。
2.邪悪な者の邪悪さがクリスチャンを悲しませ、謙虚にし、苦しめるとき、リバイバルが期待できます。クリスチャンは自分の周りの邪悪さについて何も気にしないように見えることがあります。また、彼らが邪悪さについて話すとき、宗教改革に絶望したかのように、冷たく、冷淡で、無感覚なようです。彼らは罪人を叱りつけ、罪人に対して神の子としての憐れみを感じなくなります。しかし、時として、邪悪な者の行いがクリスチャンを祈りに駆り立て、打ち砕き、悲しみと優しい心にさせ、昼も夜も泣くことができるようにします。罪人を叱ったり非難したりする代わりに、クリスチャンは彼らのために真剣に祈ります。そうすれば、リバイバルを期待できます。確かに、これがリバイバルの始まりです。時々、邪悪な者は信仰に反対して立ちふさがるでしょう。そして、これがクリスチャンをひざまずかせ、神への祈りに駆り立て、涙を流して大声で泣くとき、リバイバルを確信することができます。悪の蔓延は、リバイバルが起こらないという根拠には全然なりません。それは往々にして神の御働きの時です。敵が洪水のようにやって来るとき、主の霊は御働きの水準を引き上げます。多くの場合、リバイバルの最初の兆候は、悪魔が反対して何か新しいことを起こしていることです。それは常に、2つに1つの効果を発揮します。クリスチャンを神の御元に駆り立てるか、または神から遠ざけて、物事を悪化させるだけの肉的な対策に追いやるでしょう。多くの場合、不敬虔な者の最もとんでもない悪事の後に、リバイバルが続きます。クリスチャンが自分には希望がなく、神にあると感じさせられ、神の栄光と頑なな罪人の魂の救いを願う心が十分にあれば、確実にリバイバルが起こります。クリスチャンを神への祈りに駆り立てるだけなら、地獄が沸騰して、道にある石ころの数くらいの悪霊どもをこの世に吐き出してきても大丈夫です。彼らはリバイバルを妨げることはできません。サタンに列を作らせ、好きなだけ角笛を鳴り響かせましょう。それで、クリスチャンが謙虚になって祈るのなら、すぐに信仰のリバイバルによって神の力強い御腕による御業を見ることになります。雷鳴のように突然、リバイバルが敵の陣地に侵入し、彼らを散り散りにさせた例を私は知っています。まさに敵の首謀者たちを戦利品としてとらえ、一瞬にして彼らの軍勢を解散させました。
3.クリスチャンがリバイバルのための祈りの霊を持っているとき、リバイバルを期待できます。つまり、クリスチャンが心からリバイバルに照準を合わせて祈るときです。クリスチャンは、熱心に祈るときすら、リバイバルのための祈りに従事しないことがあります。彼らの心は何か他のものにあります。彼らは他の何か、たとえば異教徒の救いなどを祈っていますが、彼ら自身の間にリバイバルが起こることを祈っていません。しかし、クリスチャンはリバイバルへの願望を感じるとき、それを祈ります。彼らは自分の家族や隣人のために祈る必要性を感じ、祈るのをやめられません。何が祈りの霊を生じさせますか。多くの祈りと熱心な言葉ですか。いいえ、祈りは心の状態です。祈りの霊は、絶えず罪人の救いを願い求め、切望する状態です。それは彼らの重荷となります。心理学的な観点だけからでいえば、それは人が世的なものを切望するのと同じです。この祈りの霊を持っているクリスチャンは、魂の救いを切望します。それは常に彼の考えの中心であり、心に重荷を抱えているように見えるようにし、行動を起こさせます。彼は魂の救いのことを昼には考え、夜には夢に見ます。魂の救いのことを絶えずきちんと祈ります。その人の祈りは、心の水が流れるように流れ出ます。「主よ、あなたの働きを生き返らせてください。」時にはこの感情は非常に深くなります。人はひれ伏して、立つことも座ることもできなくなります。私はこのような状態の人の名前を挙げることができます。彼らは堅固な精神を持ち、気高い品性の持ち主で、罪人の状態に悲しみに打ちひしがれています。彼らは子供のように無力になるまで、罪人のために実際に魂の苦しみを味わってきました。感情が常にこれほど深いものとなるとは限りませんが、そうなることの方が考えられているよりも多いものです。1826年の大規模なリバイバルでは、深い感情が生じることは普通でした。これは決して熱狂ではありません。それはちょうどパウロが「わたしが苦しんで産んだ子供たち」と言ったときに感じたものにあたります。罪人のために祈ったニューヨーク州の人が、ついにそのような心の状態になり、祈りなしでは生きていけなくなったという話を聞きました。誰かが祈っていない限り、彼女は昼も夜も休むことができませんでした。誰かが祈れば、彼女は安心しました。しかし、彼らが祈りをやめた場合、彼女は再び祈りが始まるまで苦しみながら叫びました。そして、これは彼女が祈りの中で勝利を得て、魂に安息を得るまで2日間続きました。この魂の苦しみは深いものであり、その人は神からの祝福を受け取ったと感じるときまで、神を手放すことはありません。このような大きな苦しみが祈りの霊にとって不可欠だというつもりはありません。しかし、罪人の救いに対する深くて、継続的で、真剣な願望は、リバイバルのための祈りの霊を生じさせるものです。この祈りの霊が広がれば、リバイバルが始まります。
この感情が教会に存在するとき、御霊が罪によって悲しまれない限り、クリスチャンのリバイバルは間違いなく起こり、罪人の神への回心がそれに伴います。この切望と苦しみの感情は、リバイバルが始まるまで増大します。ある牧師が、教会の熱心で献身的な女性から始まった彼の教会のリバイバルについて私に話してくれました。彼女は罪人のことを憐れみ、彼らのために祈りに行きました。彼女は祈りましたが、その苦しみは増し加わりました。それで、ついに彼女は牧師のところに来て彼と話し、伝道集会を開くように彼に頼みました。彼女がその必要を感じたからです。牧師はその必要性を全く感じなかったため、彼女の依頼を断りました。翌週、彼女は再び来て、伝道集会を開くように牧師に依頼しました。彼女は、誰かが来ることを知っていました。神が御霊を注ぎ出そうとしているように感じたのです。彼は再び断りました。最後に、彼女は彼に言いました。「あなたが伝道集会を開かなければ、私は死んでしまいます。確かにリバイバルが起こるからです。」次の聖日の集会で、牧師は、魂の救いについて彼と話したい人がいたら、夜に来てくださいと伝えました。彼は来そうな人について心当たりがありませんでしたが、その場所に行くと、驚いたことに多くの救いを求める人々が集まっていました。さて、女性はリバイバルが起こることを知っていたと思いませんか。それを新しい啓示とでも、あるいは古い啓示とでも、その他、何でもあなたが好きな呼び方で呼んでください。祈っていた女性にリバイバルが起こることを教えたのは神の御霊です。「主の奥義」は彼女に共にあったので、彼女はそれを知りました。神は彼女の心の中におられ、抑えることができなくなるほど彼女を満たしました。
時として、牧師たちが会衆に対してこの苦しみを持っているので、リバイバルを見ることができなければ生きていけないと感じます。時として、長老や執事、あるいは教会の一般信徒が、男性か女性かを問わず、信仰のリバイバルのための祈りの霊を持っていることがあります。彼らは、神が御霊を注ぎ出すまで、神をつかんで離さず、勝利を得ようとします。1825年の秋にオナイダ郡の教会に真夜中に突如訪れた最初の光は、病弱な女性からのものでした。彼女は、それまで強力なリバイバルを体験したことがなかったでしょう。彼女は罪人のことを思って心をすり減らしました。彼女はその地のために苦しみました。彼女は何が自分をそれほど苦しめているのか分かりませんでしたが、苦しみによって体が壊れてしまうと思うほど、熱心に祈り続けました。ついに、彼女は喜びに満ちて叫びました。「神が来られました!神が来られました!間違いはなく、救いの御業が始まり、全地に広がっています。」そして確かに、救いの御業が始まり、彼女の家族はほとんど全員回心し、御業はその地方の全域に広がっていきました。さて、女性は悪魔にだまされたと思いますか。いいえ、違います。彼女は祈りの中で神と共に勝利したことを知っていました。彼女は魂のために産みの苦しみをしていたことを知っていました。その地域で私が知っている証しは、これだけではありません。
たいていの場合、神と共に勝利を得るこの祈りの霊について何かを知っている信徒はほとんどいません。リバイバルについて、何の原因もなしに突然起こったかのようにたびたび公表される記事を見て、私は驚きます。会衆が聖日に集会や祈祷会で、神がそこにおられることを体験するまで、だれもリバイバルについて何も知らなかったということがあります。そして彼らは、人間の働きとは関係なしにリバイバルをもたらすその神秘的な主権に驚かされたのです。私は時々、そのような場合に調査をしました。さて、注意して聞いてください。教会の何人かの会員に尋ねてみると、必ず誰かがリバイバルのために祈っていて、それを期待していたことがわかります。何人かの男性か女性が罪人の救いのために、祝福を得るまで苦しんで祈っていたのです。牧師や教会大半はぐっすり眠っていたのでしょう。そして彼らは突然目を覚まし、まるで目をこすり、物を倒しながら部屋を走り回る人のように、いったいこの高揚はどこから来たのだろうと疑問に思います。それを知っている人はほとんどいませんが、誰かが見張り台にいて祝福が来るまで祈り続けていたことは確かです。たいていの場合、祈りの霊を持っている人が多ければ多いほど、リバイバルは広範囲になります。しかし、この講演では後で再び祈りを主題に取り上げるので、今はこれ以上詳しくは説明しません。
4.リバイバルが期待することができるもう一つのしるしは、牧師の関心が特に罪人の回心に向けられ、説教やその他の働きが特に罪人の回心に向けられているときです。ほとんどの場合、牧師の働きはその他の目的に向けられているように思われます。牧師たちは、即座に罪人の回心をもたらすことを意図した説教をせずに、働いているようです。彼らの説教の下で、リバイバルが起こることを期待することはできません。誰かが罪人の回心という目的のために特別に努力をしなければ、リバイバルは決して起こりません。しかし、牧師の注意が会衆の家庭の状態に向けられ、彼がリバイバルの必要性を感じる心で満ちていて、彼がこの目的のために適切な努力をするとき、リバイバルを期待して良いでしょう。前回説明したように、リバイバルのための手段を正しく用いれば、リバイバルが起こることは、穀物を育てるための手段を正しく用いれば、麦の収穫することができるのと同じくらい確実なことです。実際には、リバイバルの方がより確実であり、失敗することは少ないと私は信じます。結果は確実に表れます。霊的な事柄の重要な性質について考えてみれば、そのことがわかります。聖書、自然の事柄、教会の歴史をすべてひっくるめて考えてみましょう。そうすれば、農業やその他の世の中のビジネスよりも、リバイバルのために適切な手段を用いる方が失敗することが少ないことがわかります。世のビジネスでは、何らかの妨げが原因で人間の働きがすべて駄目になってしまう場合があります。たとえば、穀物を育てる際には、干ばつ、冷害、害虫など、人間の手に負えないケースがあります。もちろん、リバイバルを促進するために努力する際にも、それを妨げる何かが起こるかもしれません。信仰から人々の目をそらすために何かが起きて、すべての努力を台無しにしてしまうかもしれません。しかし、私は、霊的世界では自然界よりもそのようなケースは少ないと信じます。神の御言葉によって示されているように、リバイバルを推進する手段を用いて真剣に取り組んだ人が失敗するのを、めったに見たことがありません。私は、人が成功を期待して世の仕事に取り組むことができるのと同じように、合理的に成功を期待して、リバイバルを促進する仕事に取り組むことができると信じます。農夫が穀物を蒔くとき、収穫を期待するのと同じようにリバイバルを期待するのです。私は時に、リバイバルを期待するのが最も難しい状況下で働いて、成功するのを見ることがあります。
ロチェスターでの大いなるリバイバルは、想像できる限り最も不利な状況下で始まりました。サタンがリバイバルを妨げるべく、可能な限りのあらゆる障害を設けたようでした。3つの教会が対立していました。1つの教会には牧師がいませんでした。もう1つの教会は分裂し、牧師を追放しようとしていました。3番目の長老派教会の長老は、第1の教会の牧師に対してクリスチャンにあるまじき行為を告発したので、長老会で裁判を行う予定でした。私が奉仕を始めて最初に起こったのは、大きな石造りの教会が崩れて、パニックが起きたことでした。それから、奉仕していた期間のちょうど半ばに、教会の1つが牧師を追放しました。別の教会がほぼ崩壊しました。他にも多くの悪いことが起こったので、悪魔が人々の関心を信仰的な事柄からそらすことに決意したようでした。しかし、祈りの霊によって、神がそこで働いておられることを保証する出来事が何度かあったため、私たちは奉仕を続けました。サタンが反対するほど、主の御霊の働きはますます強くなりました。最終的に、救いの大波がその場所を覆いつくしました。
5.クリスチャンが自分の罪を互いに告白し始めると、信仰のリバイバルが期待できます。他の時には、彼らは半分真剣ではなく、ごく普通の態度で罪を告白します。彼らは雄弁に罪の告白をするかもしれませんが、それは何の意味もありません。しかし、素直に打ち砕かれ、心を注ぎだして罪の告白をするなら、水門はすぐに破れて、救いがその場所に流れこみます。
6.クリスチャンがリバイバルのために必要な犠牲を払うことをいとわないときはいつでも、リバイバルを期待できます。彼らはリバイバルのための奉仕をするのを助けるために、感情、ビジネス、時間を犠牲にすることをいといません。牧師たちは、喜んで力を尽くし、自分の健康と命を危険にさらすことをいとわないでしょう。彼らは頑なな者に対して、はっきりとした忠実な態度で責めることを恐れてはならず、奉仕をしようとしない多くの教会のメンバーを責めなければなりません。彼らはリバイバルで断固とした立場をとり、果たすべき重要な役割を担わなければなりません。彼らは、すべての頑なな人々と教会のすべての信仰が冷たい人々からの愛情を失ったとしても、奉仕を続ける覚悟をしなければなりません。牧師は、それが神の御心なら、その場所から追放される覚悟をしなければなりません。まっすぐ進み、すべての出来事を神に委ねることを決意しなければなりません。
私は、リバイバルで一人の若者と一緒に働いていた牧師を知っています。若者は非常にはっきりとした説教をしました。それで、邪悪な人は彼を好きではありませんでした。彼らは言いました。「私たちは牧師が好きです。牧師に説教をしてもらいたいです。」彼らは何度も言ったので、牧師はとうとう若者にこう言いました。「私をたくさんサポートしてくれている某氏は、こう言いました。A氏もこう言い、B氏もこう言います。彼らはあなたが説教を続ければ教会が崩壊すると考えているので、これ以上説教しない方がいいと思います。」 若者は教会を去りましたが、神の御霊はすぐにその場所から出ていき、リバイバルは止まってしまいました。牧師は、邪悪な者たちの邪悪な欲望に屈することによって、彼を追い出してしまいました。牧師は悪魔が自分を教会から追い出してしまうのではないかと恐れ、悪魔を満足させることを請け負ったことによって、彼は神を怒らせました。そして、神の命令によっていろいろな出来事が起こり、結局、牧師はその後すぐで教会を去らなければならなくなりました。牧師は悪魔と神の間を行き来して働いたので、神は彼を解雇しました。
人々はまた、どんなに犠牲を払おうとも、喜んでリバイバルを求めなければなりません。人々は「私たちは多くの集会に出席していますが、これ以上多くは出席することはできません」と言ってはなりません。または、「ビジネスをするのを妨げたり、金儲けを妨げたりしない限り、リバイバルを歓迎します」とも言ってはなりません。はっきり言っておきます。そのような人々は、神が彼らに示されている義務を喜んで果たし、何かを犠牲にするまで、決してリバイバルを体験することはありません。クリスチャンの商人は、もしリバイバルを続けるために必要なら、喜んで6か月間店を閉めようという気概を持っていなければなりません。私は、そういうことが神から命じられているとか、そうすることが義務であると言うつもりはありません。しかし、そういうことが神から命じられていると彼らが感じる状態であれば、それは彼らの義務であり、彼らは喜んでそれをするべきです。神が命じたら彼らは喜んでそれをするべきです。そうでなければ、神は彼らの店を簡単に焼き払うことができます。実際に、ニューヨークでこのようなリバイバルが見られたことはすばらしいことです。ニューヨークのすべての商人が春まで店を閉め、「もう十分に商品を売った」と言って、春までの期間はすべて罪人をキリストに導くために献げました。
7.牧師や信徒が、神が御自分の望まれる方法でリバイバルを促されることを喜んで求めるとき、リバイバルを期待できます。時として、牧師は、リバイバルを自分で管理することができるか、彼らの働きがリバイバルを促進する上で目立たない限り、リバイバルを望みません。彼らは、神が何を導き、祝福し、どの人を用いるかを、神に指示したいと望んでいます。彼らは新しい方法をとりません。彼らは、この新しい啓示の光による説教をしたり、多くの福音伝道者たちがするように国に対する説教をしたりすることはできません。彼らは、神が主権者であること、そして神が御自身の方法と時にリバイバルをもたらすことについて多くのことを語ります。それでいて、神は彼らの好む方法でリバイバルをもたらすことを選ばなければならないと考え、そうしないなら彼らはリバイバルと何の関わりも持とうとしないのです。そのような人々は、神が御自分の方法で働かれることを受け入れない限り、リバイバルを体験できず、裁きのラッパによって目覚めるまで霊的に眠り続けます。もし、彼らがどのような物や人がリバイバルに用いられても喜んで受け入れるなら、すばらしい結果をもたらすでしょう。
8.厳密に言えば、上記の条件が満たされたとき、期待通りのリバイバルが起こってきたと言わなければなりません。実際、リバイバルが必要なときはいつでもリバイバルを期待できます。私たちがリバイブする必要がある場合、リバイブすることが私たちの義務です。義務であるなら、それは可能であり、私たちは自分自身をリバイブさせることに着手すべきです。すべての民を弟子にするためにいつも私たちと共にいるというキリストの約束に依り頼んで、成功を確信してクリスチャンをリバイブさせ、罪人を回心させるために努力すべきです。だから、教会がリバイブする必要があるときはいつでも、リバイブするべきであり、リバイバルによって、罪人がキリストに回心するのを見ることが期待できます。上記のリバイバルが期待できる条件にあてはまる状況があれば、クリスチャンと牧師たちを励まし、良い働きがすでに始まっていることを知らせましょう。徹底して取り組みましょう。
備考
1.兄弟、今回の主題から、あなたがこの場所で、この教会で、そしてこの都市で、リバイバルが必要かどうかを知ることができます。そして、あなたがリバイバルを体験できるかどうかもわかります。あなたが教会の長老、男性、女性のいずれであろうと—あなたは何と答えますか。
この場所でリバイバルは必要ですか。
あなたはリバイバルを体験することを期待しますか。
リバイバルを期待する理由はありますか。
難しく考える必要はありません。リバイバルを期待できる理由があるかによって、リバイバルが起こるかを知ることができます。
2.リバイバルが起こらない理由は明らかです。それは、あなたがリバイバルを望まないからです。あなたがリバイバルを祈り求めていないからです。リバイバルを切望せず、努力もしません。私はあなたの良心に訴えます。あなたは今、リバイバルを促進するために努力していますか。兄弟、あなたはその答えを知っています。あなたは立ち上がって、「リバイバルのために努力したけども、失望した」と言いますか。神に「再びわたしたちに命を得させてくださらないのですか」と叫んでも神はリバイバルを起こしてくださいませんか。
3.あなたはリバイバルを願っていますか。リバイバルを体験しますか。もし神がこの瞬間、天からあなたに聞こえる声で「あなたはリバイバルを望みますか」と尋ねられたら、あなたは「はい」と答えますか。「あなたは犠牲を払う覚悟がありますか」と尋ねられたら、「はい」と答えますか。「いつリバイバルを始めますか」と尋ねられたら、あなたは「いま始めましょう。ここから始めましょう。今すぐ私の心の中で始めましょう」と答えますか。今、神の声を聞いたら、神にそう答えていただけませんか。
コメント