王を呪うな[コヘレトの言葉10:2-20]

コヘレトの言葉
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われらが王を呪うなんてもってのほかですよね!\(^o^)/

王を呪うな[コヘレトの言葉10:2-20]

王を呪うな[コヘレトの言葉10:2-20]

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聖書箇所:コヘレトの言葉10:2-20

2 賢者の心は右へ、愚者の心は左へ。
3 愚者は道行くときすら愚かで/だれにでも自分は愚者だと言いふらす。
4 主人の気持があなたに対してたかぶっても/その場を離れるな。落ち着けば、大きな過ちも見逃してもらえる。
5 太陽の下に、災難なことがあるのを見た。君主の誤りで
6 愚者が甚だしく高められるかと思えば/金持ちが身を低くして座す。
7 奴隷が馬に乗って行くかと思えば/君侯が奴隷のように徒歩で行く。
8 落とし穴を掘る者は自らそこに落ち/石垣を破る者は蛇にかまれる。
9 石を切り出す者は石に傷つき/木を割る者は木の難に遭う。
10 なまった斧を研いでおけば力が要らない。知恵を備えておけば利益がある。
11 呪文も唱えぬ先に蛇がかみつけば/呪術師には何の利益もない。
12 賢者の口の言葉は恵み。愚者の唇は彼自身を呑み込む。
13 愚者はたわ言をもって口を開き/うわ言をもって口を閉ざす。
14 愚者は口数が多い。未来のことはだれにも分からない。死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
15 愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。都に行く道さえ知らないのだから。
16 いかに不幸なことか/王が召し使いのようで/役人らが朝から食い散らしている国よ。
17 いかに幸いなことか/王が高貴な生まれで/役人らがしかるべきときに食事をし/決して酔わず、力に満ちている国よ。
18 両手が垂れていれば家は漏り/両腕が怠惰なら梁は落ちる。
19 食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため。銀はすべてにこたえてくれる。
20 親友に向かってすら王を呪うな。寝室ですら金持ちを呪うな。空の鳥がその声を伝え/翼あるものがその言葉を告げる。

【ノート】
9章でコヘレトはすべての人に同じように臨む死の前に人間は完全に無力であり、能力も時に役立たず、知恵も正当な評価を受けないことが多々あることを鋭く論じて明らかにした。キリストの出現なしには、これらの人間の無力さ、絶望的な宿命に対して対処する薬はない。しかし、それでもまだすべてを調べたと言い切ることができなかったのだろう。コヘレトの探究はもうしばらく続く。

2-7節は知恵と社会秩序の混乱について。まずコヘレトは知恵の優れた点を持ち上げている。2節。聖書で心というのは、感情の座ではなく、思考や知性の座。右に左に行くというのは、保守かリベラルかという政治的な志向のことではない。右は幸運を表している。左は不運。知恵を持つ賢者は愚者よりも幸運をつかみやすいということ。

3節は愚者がどのように不運をつかむのか。愚者は自分の愚かさに苦しむ。愚者はいつも愚かなことをするだけでない。愚者は公の場で愚かなことをするので、すべての人に愚者だと知られてしまう。4節は賢者がどのように幸運をつかむのか私たちに対する勧めとして書かれている。賢者の幸運は、愚者と違って危険を回避する能力をもっていることによって描かれている。主人が、私たちにとっては上司とか先輩にあたる人が、私たちの過ちについて怒っているとき。愚者であれば逃げようとして火に油を注ぐだろう。賢者は逃げずに落ち着いて対処するので、大きな過ちを犯してもゆるしてもらえる。こうして賢者は人生で起こる数々の試練に適切に対処することができるので、幸運をつかめるのだ。しかし、この節にも賢者の不完全さを見ることができる。賢者も大きな過ちを犯すことがあるのだ。人間は知恵のある人ですら、大きな過ちを犯しうる。その過ちの内容によっては、社会全体の秩序の混乱が引き起こされる可能性がある。

5-7節はその悪い事例だ。社会のトップに君臨する王が、過ちを犯すことがある。すると、社会の秩序は逆転し、自分の愚かさを宣伝しながら歩き不運な道をたどるはずの愚者が、本来は最も賢い部類の人々に与えられるべき最高の身分を獲得し、知恵によって金持ちになった人が転落する。社会の最底辺の奴隷が、主人であるかのように馬に乗るかと思えば、最高の身分にあった人々が徒歩でいく。
知恵は確かに愚かさにまさる。賢者は主人の前で落ち着いてふるまることで、過ちを見逃してもらえる。しかし、社会全体に影響を与える王が大きな過ちを犯したら、その結果、社会の秩序が混乱し、すべてが逆転してしまいかねない!賢者が不運に陥り、愚者が幸運に預かるということが起きてしまう。そういう場合、知恵は何の役にも立たない。

この箇所でコヘレトは社会的身分が逆転することを災難とみなしている。当然、混乱、無秩序は良くないことだ。それは知恵と愚かさについて逆転現象がゆるしてしまうからだ。しかし、混乱や無秩序を伴わず、しかも神の知恵に基づく信仰よって身分が逆転するということは起こる。偉大なるコヘレトであるイエス・キリストの出現がそれを可能とした。マタイ19:30。イエス・キリストも使徒たちも、世の支配者たちに従うことを説いた。クリスチャンは混乱と無秩序を願わず、秩序が保たれることを願う。それでいて、教会の中では、身分の逆転が起こった。十二人の使徒のほとんどは学問のない人々で、大半が漁師だった。彼らが教会の柱となった。教会では社会的には奴隷の者が長老として尊ばれ、社会的にはもっとずっと身分の高い者を指導することが多々あった。神の国での身分と世での身分はイコールではない。世で最も低い者が信仰によって神の国で最高の身分を得ることがありうる。しかもそれは無秩序ではなく神による適切な評価によってなされる。この逆転は大きな希望を与える。たとえ私たちが世でとるに足りないものとされ、悪いレッテルをいっぱい張られたとしても、信仰によって逆転することができる。

実際にイエス・キリストへの信仰によって、麻薬中毒者やホームレスが大きく変えられ、神様の僕として貴く用いられるようになる事例が数多くある。世の国においては常に知恵に見合わない身分の人はいる、賢者が低くされ、愚者が高くされることはあるものだが、御国においてはすべての人が信仰に見合った者となることができる。

8-11節は利益を生むものによって、逆に損害を被ることについて。ここに出てくるのは、善悪を問わず、あることに熟達している人々。8節は人を陥れようとして自滅する例。落とし穴という罠をはったり、石垣を破って敷地に侵入したりすることによって、人を倒そうとはかる。彼は犯罪者で、人から奪い取ることを生業にしているのかもしれない。彼は人を攻撃するにあたって工夫をこらしている点でこの手のことに熟練しているに違いない。ところが、相手の反撃によってではなく、自分のしかけた罠にかかったり、思いがけず蛇にかまれたりすることによって自滅することがある。9節は労働に関すること。石を切り出したり、木を割ったりすることで生計をたてている人であれば、その作業に非常に熟練しているであろう。ところが、そういう熟練した石工や木工であっても、作業ミスによって傷を負ってしまうことはある。ヒューマンエラーをゼロにしたいところだが、起きるときは起きてしまう。10節は知恵を備えることを鈍った斧を研ぐことにたとえている。鈍った斧はろくに切ることができない。鈍った斧は刃を研ぐことで、少ない力で切ることができる。同じように、知恵というのは何をするにしても省力化することができ、利益をもたらす。これだけを見ると知恵が非常に優れているように見える。しかし、利益をもたらす知恵についての10節の前後は利益をもたらすはずのものが時に損害をもたらすという内容だ。11節。呪術師は蛇を使って利益を得ている。そして、当然、呪術師は蛇の扱いには長けている。しかし、何らかのアクシデントによって蛇を操る呪文を唱える前に蛇にかみつかれてしまったら、パフォーマンスによって見物客からお金を得ることができない。それどころか、命を落としてしまいかねない。
犯罪者も石工も木工も呪術師も自分が熟達していて能力を行使して利益を得ようとして、逆に損害を被っているのだ。損害は命を落とすような損害だ。彼らは斧の刃を研ぐように、知恵を使ってそれぞれの能力を行使し、利益を得ようとした。その結果、損害を被った。知恵を使った結果損害を被ることがありうる!知恵は確かにより大きな利益を生み出すことができるようにするという点で価値があるが、時として損害を被ることがある。知恵の行使には常にギャンブル的な要素が含まれる。その点で知恵は無価値だ。

人間の知恵が無価値であるというのは真理だ。Ⅰコリント3:18-20。悪賢くてむなしいと書いてある。8-11節で、世の知恵は世的な利益を得ることが目標だ。うまくいけばいいという発想。現代で横行している成功哲学もたいていそういうものだ。成功哲学は成功について誇大広告をするが、実際にはギャンブル的要素があるので、成功は保証されていない。神からの知恵は、世での成功を保証するものではない。神からの知恵は救いに導くものだ。Ⅱテモテ3:15。また、神からの知恵は神を深く知るためのものだ。エフェソ1:17-18。この知恵を行使することによって損害を被ることはありえない。世での成功は真の成功ではない。世で成功しても罪から救われず、神を知らず、地獄に落ちてしまうのであれば、大失敗だ。そういう意味の真の成功哲学は聖書の中にしか見出すことはできない。神からの知恵が与えられた人が神に従順した結果、祝福され、世で成功することもあるだろう。そうであればハレルヤだが、それは神からの知恵の副産物に過ぎない。常に世の成功にまさる神を知る恵みこそが私たちの真の成功であり宝だ。

12-15節は多弁と寡黙。この箇所は箴言にありそう。コヘレトの言葉ならではの特徴としては、圧倒的に否定的な内容が多いこと。賢者の口の言葉は恵みと、賢者のことは一度だけ触れ、愚者のことは四度も触れている。
賢者は恵みの言葉を語るが、愚者の言葉は自滅。愚者はたわ言やうわ言を口にする。愚者はよくしゃべる。このことからあまりたくさんのことを話さない方が良いことがわかる。あまり多く話さない方がよい理由が箴言とは違う。それは言葉によって過ちを犯さないようにするためではない。未来のことは誰にもわからず、死んだらどうなるのかも誰も教えてくれないからだ。賢者もわからず、教えてくれないのだ。愚者に至っては都への道もわからない。恵みの言葉を語るという賢者も、失言で自滅する愚者も、等しく無知だ。未来のことも死んだ後のことも何もわからない。そうであれば、一生懸命に多くのことを語っても空しい!知らないことを語っているに過ぎない!賢者が賢者たるのは、単に自分の無知を知って自重しているがために過ぎない。

この箇所と似た教えをエフェソ4:29。ヤコブ1:19。ただし、クリスチャンの場合、恵みの言葉以外のことを語るのを控えるのは、死んだ後のことを知らないからではない。クリスチャンの場合、へりくだるため、罪を避けるために言葉数を少なくするのだ。しかし、ある事柄については、私たちはよくしゃべることが要求されている。それは、永遠の未来のこと、死んだ後のことを教えることだ。つまり福音を宣べ伝えることにおいては、私たちは黙っていてはならない。コヘレトがここで死んだ後どうなるかわからないことを嘆いているように、世の中は知ることを求めている。そして、神は私たちが語るようにと命じておられる。使徒18:9。黙っていてはならない!死から救ってくださり、永遠の都に迎え入れてくださるイエス・キリストを宣べ伝えるために私たちは口を動かし続けなければならない!あまりにも少ししかイエス・キリストのことを人々に語っていないのではないだろうか?その点についてだけは、愚者のように思われても、それこそパウロのように気が狂っているように思われても、恐れずに語り続ける私たちになろう!アーメン!

16-20節は呪いの言葉について。コヘレトは沈黙すべき例を一つ提示する。それは王にまつわることだ。16節は不幸な国。召し使いというのは、子供とも訳すことができる言葉。どちらにせよ、この王には統治能力がない。それで、役人たちが朝から宴を開き食べたり飲んだりしている。朝酒を飲んだり、たくさん食べたりしたら、仕事になるだろうか?仕事どころではなくなってしまう。その日一日ぼーとして眠くなり何も手がつかない。凋落の兆しのある国の姿を見ることができる。17節は対照的で幸いな国。王は生まれも人格も高貴な人で、役人たちに対して指導力を発揮することができる。2-7節でも扱ったように統治者の能力によって国が大きく左右されるのだ。

18-19節。これは一個人に対する怠惰を戒める警告であると同時に、国についても描いている。怠惰であれば家は没落してしまうが、お金を稼げば人生の楽しみである食事とお酒を得ることができる。しかし、王と役人たちは怠惰であるにもかかわらずお金がある。そのお金で朝から不健全な宴会を開いて楽しんでいる。それは一生懸命働いている一個人からすれば、非常に不愉快なこと。そこで、思わず、信頼できる人に対して王の悪口を言いたくなる。あるいは誰もいない寝室で独り言として、王への不満を口にしたくなる。20節はそれを禁止する。王と役人が優れていてもいなくても、呪いの言葉を口にしてはならない理由は、意図せず王の耳に入ってしまうからだ。いったいどうやって?もし親友が、本当に口が堅い人で、一切口外しなかったとしても、あるいは、本当に誰もいないところで独り言を言っただけだったとしても、告げ口をする存在がある。空の鳥、翼ある者だ。空の鳥が告げ口するだろうか?決してしない。もし空の鳥が告げ口をするとしたら思いもよらないことだ。そのような、思いもよらない方法で、王を呪ったという事実が伝わってしまう可能性がある。壁に耳あり障子に目ありということだ。もし伝わってしまったら、その人は王の前に引き出されて首をはねられてしまうかもしれない。それは呪いの言葉を口にしなければふせげたことだ。だから、リスクを犯してまで王や役人に不満があっても、一切口にしない方がよい。

クリスチャンも、国の指導者を呪ってはならないのは同じことだ。しかし、それは密告を恐れてではない。もしそうだったら少なくとも現代の日本は全然あてはまらない。この国では誰であれ国の指導者の悪口を言ったからといって逮捕されることはない。かといって、クリスチャンは国の指導者の決定すべてを無条件で支持しなければならないというのでもない。クリスチャンがすべきことは国の指導者に対して敬意を払うことと執り成して祈ることだ。敬意を払うこと。Ⅰペトロ2:17。とりなすこと。Ⅰテモテ2:1-3。

この世の国はどれも不完全なものだ。私たちはこの世の国の善し悪しによって一喜一憂するのではなく、神の国の完全さに希望を置こう。そこでは最も高貴な生まれと人格をお持ちのイエス・キリストが王として統治し、天の万軍が仕えている。私たちは地上において、御国を来たらせたまえと、神の国が力強く地に臨むように祈るのだ。私たちは神の国の王を呪うことがないようにすることにも、注意を払わなければならない。主の名をみだりに唱えてはならないと命じられている。神の国の王を呪うなら神御自身が聞かれ、翼ある者、すなわち天使や先に召された聖徒たちもそれを聞くだろう。裁きの日に、そのことについて責任を問われる。マタイ12:36-37。もっとも、私たちが聖霊様に満たされ、導かれていれば、そういう心配は全くない。そういうことを口にすることはありえないからだ。Ⅰコリント12:3。神を知らない人は、世の不完全な指導者たちを呪うのを我慢するのが難しい。しかし、私たちの主はすばらしいお方だ。呪うのを我慢するどころか、呪うことは不可能であって、イエス・キリストは主であると告白して賛美せずにはいられないのだ。私たちはこの口を用いて呪いの言葉を語るのではなく、聖霊様に満たされて、恵みの言葉、執り成しの言葉、賛美の言葉、そして福音を語る者となろう。アーメン。

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