快楽と愚行の空しさ[コヘレトの言葉2章]

コヘレトの言葉
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「知恵がダメだったので、今度は愚かなことをしてみよう!」そう決意して、コヘレトは必死に努力して愚かなことをします( ´⚰︎` )
※インターネット礼拝のメッセージの切り抜きです。

快楽と愚行の空しさ[コヘレトの言葉2章]

快楽と愚行の空しさ[コヘレトの言葉2章]

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聖書箇所:コヘレトの言葉2:1-26

コヘレトの言葉2:1-26
1 わたしはこうつぶやいた。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」見よ、それすらも空しかった。
2 笑いに対しては、狂気だと言い/快楽に対しては、何になろうと言った。
3 わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
4 大規模にことを起こし/多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。
5 庭園や果樹園を数々造らせ/さまざまの果樹を植えさせた。
6 池を幾つも掘らせ、木の茂る林に水を引かせた。
7 買い入れた男女の奴隷に加えて/わたしの家で生まれる奴隷もあり/かつてエルサレムに住んだ者のだれよりも多く/牛や羊と共に財産として所有した。
8 金銀を蓄え/国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。男女の歌い手をそろえ/人の子らの喜びとする多くの側女を置いた。
9 かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって/わたしは大いなるものとなり、栄えたが/なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
10 目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ/どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。
11 しかし、わたしは顧みた/この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく/風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。
12 また、わたしは顧みて/知恵を、狂気と愚かさを見極めようとした。王の後を継いだ人が/既になされた事を繰り返すのみなら何になろうか。
13 わたしの見たところでは/光が闇にまさるように、知恵は愚かさにまさる。
14 賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている/両者に同じことが起こるのだということを。
15 わたしはこうつぶやいた。「愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。」これまた空しい、とわたしは思った。
16 賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか。
17 わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ。
18 太陽の下でしたこの労苦の結果を、わたしはすべていとう。後を継ぐ者に残すだけなのだから。
19 その者が賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい。
20 太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。
21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。
24 人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。
25 自分で食べて、自分で味わえ。
26 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる。だが悪人には、ひたすら集め積むことを彼の務めとし、それを善人と認めた人に与えられる。これまた空しく、風を追うようなことだ。

【ノート】
1章の後半で知恵と知識を追い求めた結果、悩みが深まり、痛みが増した。世の哲学を追求していくと確かにそうなる。だから、世の哲学については、かじるくらいならいいが、のめりこむことはおすすめしない。哲学書なんていうのは難しくてただでさえ頭が痛くなる、そういう意味で痛みは増す。しかも読んだら悩みがますのだ。世の哲学者は悩みの多い人生を送っている。ルソーは暗殺される恐怖におびえて錯乱状態になったし、ニーチェは気がくるって精神病院に入院した。その哲学に傾倒すればもれなく悩みと痛みの多い人になってしまう。神を否定する世の知恵は苦痛しかもたらさない。コレヘトは知恵によって世の知恵がだめだと結論づけた。そしてコヘレトは世の知恵による苦痛の反動から知恵とは反対方向に行こうとした!知恵がだめなら愚かなことしてみよう!

2章はそういうコヘレトのつぶやきで始まる。1節。コヘレトの言葉ではこのようなつぶやきがほかにも4回出てくる。これはコヘレトの心の中での言葉だ。心の中の言葉というのは、誰にも聞こえない。だから、そこには本音があらわれる。人に面と向かって言うことは難しいことも、心の中では正直に話すことができるのだ。私たちが心の中で話すことというのは、いつも明確な言葉になっているわけではない。私たちは何となく、漠然と思いを巡らせることが多いのではないか。明確な言葉になった心の中の言葉というのは、そこにはっきりとした意思を見ることができる。人間が心の中ではっきりと言葉にすることは何だろうか?それは罪深いことが多い。イエス様は「なぜ、そんな考えを心に抱くのか」とよくとがめられた。コヘレトの心の言葉も口にするのも恥ずかしいこと。箴言なんかには絶対に載せられないものだった。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」神が心の中にいない人は、はっきりとした意思をもって心で罪を犯すことを決意してしまう。
私たちが何かを心で話すときは、私たちの心の中におられるイエス・キリストに対して話そう。「イエス様はどう思いますか?イエス様はどう感じますか?」

コヘレトはすべての自制心を取っ払って、愚かだとわかっていながら自分の欲望に従ってみて、快楽と愉悦をとことん追求し、浸ってみた。その結果は空しかった。それはⅠヨハネ2:15-17に書いてある通りだ。コヘレトは、クリスチャンが世のものとして避けなければならない三つのものを熱心に追求してみたのだ。そして、やっぱり空しかった!世も世にある欲も過ぎ去っていくからだ!

2節。笑いは健康に良いと良く言われる。笑うことで病気が治る効能があるとかも。しかし、神がいない人生を直視していながら、心から笑うことができるとすれば、それは狂気である。神がいない人生には絶望しかない。泣きながら生まれてきて、意味もわからずに生き、確実に迫る死に向かって行進する。その先は実は永遠の破滅だ。笑いが起きるような要素は何もない。頭がおかしくならなければ、にっこり笑うことなんてできない。世の笑いというのは、世の酒に酔っ払い、罪をごまかし、現実逃避し、頭がおかしくなって出てくる狂気の笑い。
御国の笑いは不妊の女性のサラから生まれたイサクのように、主の約束によって生まれてくる。御国では笑いは絶えない。御国ではパーティーがなされている。主の約束を覚えて笑顔で生きていこう。

3-11節は快楽について実際にしてみた愚かさの実験の内容だ。3節。コヘレトは愚かなことを思いっきりするためにも、「知恵」に聞いて行ったという。それは知恵に絶望した結果、自暴自棄になってしたことではなく、知恵に基づいて、計画的にした愚かなことだと。酒を飲んだが酔っ払ってない!知恵に聞いている!ちょっと苦しいけどそう主張している。そうでないと、何が人間にとって良いものなのか、幸福なのかを求めるための調査にはならない。コヘレトは何事も必死に努力して追求したのだ。
短い一生とある。原語の意味では数えられる期間だ。人生は数えられるほどの日数しかないのだ。調査にあたって、愚かなことだからといって躊躇していてはならない。はっきりと見極められたと確信できるまで、コヘレトは酒と愚行を試してみることを固く決意した。ここでの酒というのは人生で経験できる快楽のシンボルだ。続く10節までが快楽と愚行の内容。

4-6節はコヘレトであるソロモンが行った公共事業について。ソロモンが王宮以外の多くの屋敷、つまり別荘を所有していたのは明らかだ。歴代誌下8:11。ソロモンは一人の妻のためにポンと宮殿を建てた。そしてソロモンには1000人の妻がいた。あちこちに屋敷がある!別荘がある!エルサレムに水が引かれた王の庭園があったことはネヘミヤ3:15からもわかる。ソロモンは神様から与えられた創造性、芸術的なセンスの賜物を自分のためだけにフル回転して、人の虚栄心をくすぐる建物や公園を次々作ったのだ。想像してみてほしい。街を歩けばそこに自分が命令して建てた自分のビルや公園がある。東京でいえばスカイツリーや都庁や代々木公園が自分のもの。ほかの人とは違った特別な存在になったと思うことができるだろう。

7節は、ソロモンが誰よりも多くの奴隷や食糧となる家畜を抱えていたか。具体的な人数は書いていないが、一日にどのくらいの食料を消費したのか、列王上5:2。牛だけで30頭。牛1頭には食べられるビーフが400kgくらい。一人200g食べるとしても2000人分!30頭なら6万人分!その他にもラム肉や鹿肉もいっぱい食べられた。それだけでどのくらいの人がソロモンの直下に仕えていたかがわかる。想像してみてほしい。その云万人という人が全員あなたを見るたびに深々と頭を下げ、あなたの命令にすぐに答えられるようにスタンバイしている。

8節は、ソロモンの財宝、芸人、妻たち。ソロモンは貿易や他国のからの貢ぎ物で大儲けしていた。海外からあらゆる物珍しいもの、貴重なもの、宝石、木材、象牙、香料、動物などを輸入していた。ソロモン時代には銀の値打ちがなくなるくらい金がふんだんに使われていた。金の歳入は666キカル。これは約22トン。延べ金の大盾が200。延べ金の小盾が300。金で覆った象牙の王座。宮殿のすべての器は純金でできていた。
男女の歌い手はソロモン専属の芸人。ソロモンに娯楽を提供するためだけに劇団や楽団が存在しているようなもの。
そしてソロモンのハーレムには先にあげたように700人の王妃と300人の側室がいた。そんなにいたら名前を覚えるのも難しいだろう。この実験の代償は大きい。ソロモンは主なる神への信仰をなくしてしまう。私たちはソロモンの実験結果を知って満足すべきだ。同じ過ちを繰り返してはならない。

9節でソロモンはエルサレムに住んだ者の誰にも勝って大いなるものとなり、栄えたというのは大袈裟な表現ではない。納得できる。現代の大富豪だってこれと同じ経験をする人はいまい。
10節。ソロモンはほしいものをなんでも手に入れた。私たちは、ウィンドーショッピングをする。あの宝石が、あの家が、あの車がほしい。あれがあったらハッピーになれるのになー。でもそれはあったらなーというだけで実際に手に入れることができるのはその中のほんの一部だ。ソロモンの場合は店ごと、会社ごと全部買ってしまう。

ソロモンは快楽によって幸せになろうと最大限努力した。さぞかし幸せになったと思いきや11節。空しい!無駄だ!風を追うようなこと!風を手に入れようとしても、つかみどころがない。永遠にゲットすることはできない。そして、風は思いのままに吹くので、風を追いかければもてあそばれてしまう。そのように何もつかむことができず、もてあそばれるだけだった。人はいくら欲しい物を手に入れても幸せになることはできない。上には上がいるからだ。「いや、でもソロモンの上なんてないのでは?」
いや、ある。ソロモンの王国よりもイエス・キリストの王国、天国の方がはるかに豊かだ。天国では道路すら純金!都全体が神の栄光に輝く宝石!門は巨大な真珠!天国の公園には命の木が生え、命の川が流れる。ソロモンくらいの金持ちになっても天国には全然勝ち目はない!この世で最高に栄華を極めても常に天国よりもずっとみすぼらしいのだ!私たちは天国にこそ望みをかけて、富を積むようにしよう!ソロモンは自分のために全部の賜物を使ったあげく空しい思いをしたが、賜物を本来の目的にそって主なる神のためにささげよう!世の酒に酔うのではなく、新しい酒である聖霊様に満たされ、酔いしれよう!聖霊様こそが世が与えることのできない義と平和と喜びを私たちに与えてくださる!ハレルヤ!

12-17節は知恵と愚かさの比較。どちらも空しかったが、比較したらどうなるのか。知恵と愚かさの比較はソロモン王と王の後継者に通じるものがある。まずコヘレトは、13節で知恵と愚かさを比べるなら、知恵がまさる。それは自明の理である。知恵は光のように真理を見えるようにし、愚かさは闇のように見えず、悟らないようにするもの。知恵をよしとする古典的な人はこれを見てほっと胸をなでおろす。ところが、両者には共通項がある。15節。知恵は愚かさと比べれば確かにまさるが、それは相対的なものだ。結局は賢者も愚者も死んで忘れられるではないか。ここで初めて、コヘレトは死という問題に直接触れる。何もかもを空しくしてしまうのは死なのだ。死に打ち勝つことができなければ何もかも空しくなる。これが世の知恵の限界。17節。これは、この世の人がうらやみそうなものをすべてのものをもっているはずの人の言葉。生きていたくない。死に打ち勝たない限り、人は物質的に満たされていても生きる気力すら失ってしまう。何となく死にたいと思う人がいる。急に魔がさしたように自殺してしまう人がいる。物質的に恵まれた環境がないからではない。人よりも比較的恵まれた環境かもしれない。でも、死を打ち破るイエス・キリストを知らなかったら、人は生きていくことができない。生きていたくないと思っている人が周りにいたらイエス・キリストを伝えよう。

18-23節。賢者の相続人の問題。コヘレトは後継者に財産を残すことが空しいと言っている。自分の子供に何かを残すことは空しいことか?それは親としては一つの喜びではないか。コヘレトはなんて自己中心なんだ!神から遠く離れてしまった人は自分の子供すら愛することができない。子供といっても所詮他人でしかないということになる。父なる神は喜んで私たちに豊かな財産を与えてくださる。私たちが労苦した以上に豊かに与えてくださる。その父なる神の愛の豊かさを知るなら、同じように血を分けた子供や信仰によって育てた霊の子供に何かを残すことは喜びとなるだろう。

しかし、ここでもう一つ問題になっているのは、19節。賢者は良いものを受け、愚者は悪いものを受けるというのが、当時の人々の中では広く一般的な考え方だった。しかし、賢者であるソロモンが築いた財産を受け取ることになる後継者については、彼が賢者か愚者かというのはギャンブルだ。実際に王になってみなければ、統治者としての能力があるかわからない。賢者が労苦した財産を、愚者が獲得してしまうかもしれない。しかも台無しにしてしまうかもしれない。こんな理不尽なことはない!知力を尽くし、労苦したのに愚者の手にわたってしまうかもしれないとはなんて空しいことか!これはソロモンの杞憂ではない。ソロモンの子、レハブアムは愚者だった。レハブアムは愚かだったので、王になった最初の年にソロモンが築いた偉大な王国を分裂させてしまった。後継者がすべてを台無しにするということは起こるのだ。それを防ぐためには、主に従わなければならない。主は十戒の約束しておられる。「私を愛し、私の戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える」これが空しくならない祝福を受ける秘訣である。ソロモンがそうしなかったので、王国は分裂したのだ。自分のために富を積んでも神の前には豊かにならない。

24-26節。一つの空しい結論。ここでは非常に素朴な生き方、単純な生き方が最も良いこととして賞賛されている。知恵を追求しても、愚かさを追求しても何もなかったが、ありふれた日常の中にこそ幸せはある。平凡な生活に満足がある。食べることに幸せを感じ、働くことに喜びを見出すべきだ。なぜなら、それらは神が恵みとしてお与えになったものだからだ。神がすべてを支配しておられるので、善人であるか、悪人であるかについても意味がないわけではない。26節。コヘレトはここで人生の中で肯定できるものをとりあげた。神の恵みを受ける素朴な生き方はすばらしい。神は確かに支配しておられる。にもかかわらず、「これまた空しく、風を追うようなことだ」という。そして、この結論に満足しない。到底、満足することはできない。コヘレトは思う。私は知恵を尽くして幸福を見極めようと努力したのに、こんな落ちでは納得できない。神の恵みに感謝して生きる素朴な生き方をする人なら、イスラエルにはたくさんいた。そういう幸せは知恵を尽くして調べるまでもなく、子供でも知っているだろう。それは確かに良いものだ。しかし、人生はそれだけなのか?それだけしかないのか?だとしたら空しいと言わざるを得ない。それでコヘレトは探究を続ける。探究の先にはイエス・キリストがおられる。人生をイエス・キリストと共に歩むなら彩りが与えられる。そして、イエス・キリストは素朴な生き方に満足できない人には冒険に満ちた人生を与えてくださる。「すべてを捨てて私に従いなさい。全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を伝えなさい。」そのように、命をかけて取り組むべきミッションを与え、私たちの心を燃え上がらせる。ハレルヤ!イエス・キリストと共にあるすばらしい人生を生きていきましょう!

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