神は遠く離れてはおられない

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どうすればいつも神様と近しくあることができるのでしょうか?

神は遠く離れてはおられない

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【ノート】
私たちはあるとき、神をものすごく近しく感じることがある。きっかけはいろいろだ。ある集会でのメッセージがものすごく深く心に刺さったから。祈りが聞かれる体験をしたから。自分で決めた献身のプランを達成できたから。聖書を何ページ読むとか、毎日ディボーションするとか、何人伝道するとか。
しかし、いつしか、神が全然感じられなくなってしまうこともある。神から遠く離れてしまったように思われ、荒れ野の霊的な状態にあるように思える。あの時味わっていた神と共にある幸せは一体どこに行ってしまったのだろうか?神との親密な交わりを取り戻すべく、いろいろやってみたけど、うまくいかない。
そういう状態にいままさに陥っている。いや、そもそもずっと荒れ野の状態で、一度も神を近くに感じたことがないという人もいるだろう。
それでは、神はどこにおられるのだろうか?どこか遠く離れておられるのだろうか?それともものすごく近くにおられるのだろうか?使徒パウロは、アテネにいるギリシア人に言った。使徒17:26-27。アテネにいるキリストを知らず、神がどのようなお方か知らないギリシャ人に対してすら、神は遠く離れてはおられない。神はすべての人に対して御自分を示そうとしておられる。後は、私たち一人一人がどう応答するかにかかっている。求めるなら、神を見出すことができる!荒れ野の状態から抜け出して、神との近しい交わりに入れる。

では、どう求めたらいいのか?神をいつも近くに感じ、いつも神と親密であるためにはどうすればいいのか?5つのポイントをお伝えする。
第一に、ただキリストによってのみ神と正しい関係を築ける。ただ、キリストの十字架によってのみ、私たちは神との正しい関係を築くことができる。キリストの十字架が救いの土台だ。毎日聖書を読む。祈る。ディボーションをする。毎週欠かさず教会に通う。奉仕をする。たくさんの人を伝道する。こういったことは何もかもすばらしいことだ。しかし、私たちはこれらすべてのことを完全に行ったとしても、キリストの十字架なしに神との正しい関係を築くことはできない。神との関係を隔てるのは、罪だ。罪を避けて正しいことばかりすれば神と正しい関係を築くことができるだろうか?それを実践しようとしたのがファリサイ派の人々だった。ファリサイ派の人々は律法を徹底的に守ることで神に認められようとした。彼らはイエス様から「正しい者だ」としてほめられただろうか?いや、むしろ偽善者、高ぶる者と呼ばれた。呪われた者、義とされない例、避けなければならない教えを説く者とされた。なぜなら、ファリサイ派の人々ですら、律法を守り切れていなかったからだ。神は心の清さまでも要求する。もし完全な人生を歩もうとすれば、私たちは嘘をついてはならないし、姦淫や殺意や嫉妬など、何らかの悪い心を一切持ってはならないし、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝し、愛で満たされ、なすべき善をすべて行い続ける者、持っているものすべてを神の栄光のためだけに使う者でなければならない。そういう状態をどのくらい継続できるだろうか?また、正しいことをしたところで、過去に犯した罪を帳消しにしたり、将来犯すであろう過ちまで全部カバーできるのか?罪滅ぼしなんていう言葉がある。それは可能なのか?ローマ6:23。罪が支払う報酬は死だ。罪滅ぼしという言葉があるが、罪は罰によってしか解消されない。つまり神との永遠の断絶と燃え盛る地獄によってのみだ。ただキリストだけが神への道だ。ヨハネ14:6。イエス様は私たちの罪の身代わりに十字架で死んでくださった。イエス様が罪の罰を受けてくださったお陰で私たちは罪の罰から救われた。神との永遠の断絶と地獄から救われた。このイエス様による罪の赦しによって、神との関係を回復し、神に近づくことができる。
神の御前に自分が今まで犯した罪を告白しよう。それらの罪一つ一つのためにキリストは死んでくださった。そのことを覚えよう。そして、キリストへの信仰をもって大胆に神に近づく。エフェソ3:12。キリストへの信仰によって大胆に神に近づこう。

第二に、御言葉によって、神がいつも共におられることを知る。感情ではなくだ。感情は定まらないものだ。神が共におられても、私たちの感情は最悪の状態になることがありうる。たとえば、砂糖を取り過ぎると鬱になりやすくなる。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究によれば、「糖分摂取量が多い男性は、気分障害になる可能性が高い」そうだ。この研究では、研究チームが7000人以上の被験者の摂食データを最長で22年間にわたって調査した。うつ病や不安障害などの気分障害の発症との関係を分析した。この結果、糖質の多い食べ物や飲み物から毎日65グラム以上の糖分を摂取した男性は、糖分摂取量39.5グラム以下の男性に比べて、何らかの精神疾患を発症する可能性が23%高かった。では、砂糖を取り過ぎて鬱になったら、神が共におられないということになるのか?いや、あくまでも砂糖を取り過ぎているということになる。変なものを食べると気分が悪くなることもある。応援しているスポーツチームが負けるとがっかりする。人から悪口を言われると落ち込む。感情が最悪な状態のとき、自分を愛してやまない神が共におられるとは思えなくなることもある。しかし、神が共におられるかどうかは感情によっては決まらない。それは自分を愛して支えてくれる人がいても、感情が落ちることはあるのと同じことだ。感情によっては何も決まらない。最高の恵みを受けていても、自分が最もみじめな者かのように感じることはある。感情が上下するのは当たり前のこと、ある意味仕方ないこと、想定内、大騒ぎしなくても大丈夫だ。驚くにはあたらない。良からぬ感情が出てきたら、またか、と冷静に見つめよう。感情にふりまわされないようにしよう。私たちはあくまでも感情ではなく、聖書の御言葉に基づいて、神が共におられるかどうかを判断しよう。御言葉は何と言っているか?ヨハネ14:16-17。これは、イエス・キリストを信じる者に対する約束だ。イエス・キリストを信じる者の内には、聖霊様が宿られる。聖霊様が永遠に私たちと共に住まわれる。では、聖霊様が共におられると感じなかったら?感じなくても御言葉をもとに信じることだ。感情や感覚というのは事実とは限らないが、御言葉は事実だ。聖霊様がいつも共におられることを信じよう。

第三に、神との時間を持つ。ヤコブ4:8。私たちが神に近づくなら、神も私たちに近づいてくださる。私たちが神に近づくなら、神も必ず、私たちに近づいてくださる。なぜでしょうか?それは、神はいつも私たちに近づく準備ができていて、御手を差し伸べてくださっていて、後は私たち次第だということ。関係というのは、片方だけで成立するものではない。神はいつも積極的に私たちと親しく交わりたいと願ってくださっている。天地万物をお造りになった方が私たちと関係を深めたいのだ。この方を無視してはならない。神に近づく具体的な方法としては、祈り、集会、ディボーション、聖書通読などだ。そして、何をするでもなく、目や口や耳を使うのでもなくても、神の臨在を意識することだ。
ある時、私は車に乗っていた。その時、私は人間としては一人だったが、はっきりと神が共におられるということがわかっていた。そう信じていたし、神の臨在を意識しながら車を走らせていたので、神が共におられるということがありありとわかった。そういうことは特別ではない。そういう毎日を過ごすようにするのだ。人と親しくなるには、相手と話す時間が必要だ。神ともそうで、神と共に過ごす時間なしに、急に親密になるということはない。神との時間を毎日豊かに持つ者となろう。
第四に、人は蒔くものを刈り取ることを注意する。ガラテヤ6:7-8。私たちの目や耳に入るものに注意しなければならない。何気なくテレビやスマートフォンから目や耳に情報を入れていないだろうか?目や耳にテレビやスマートフォンからの情報を蒔くなら、やがて心にテレビやスマートフォンの情報が実を結ぶようになる。いったいどんな実が結ばれているだろうか?それらが茨やあざみとなり、良い実が結ばれる邪魔になっていないか?それらの情報が、神の御声を聞く邪魔になってはいないか?神の臨在を覆い隠すことになっていないか?テレビを観ながら人と会話したり、スマートフォンをいじりながら人と話したりして、良いコミュニケーションが取れるだろうか?とれない。目や耳から神との交わりの妨げとなる情報が入ってこないように、気をつける者となろう。

第五に、罪をかなぐり捨てる。イエス・キリストの十字架によってすべての罪が赦された。神との関係が回復した。その後でまた罪を犯すとどうなるか?神との交わりが破壊される。せっかく神を近しく感じられるようになっても、罪を犯すことで、臨在が去っていくことがある。ダビデがそれを経験した。詩編51:12-14。これはダビデが姦淫と殺人の罪を犯した後の内容だ。罪が主にある喜びと平和を奪い去ってしまう。そうならないためには、真剣に罪を捨てようと取り組まなければならない。真剣にだ。多くの人は十分にこのことに取り組んでいない。ヘブライ12:4。何でわかるのか?血を流すまで抵抗すれば、罪を捨てられるからだ。キリストの血潮で清められた者が罪から離れられないわけがない。ただ真剣さが欠けているのだ。犠牲をいとわずに取り組むことができていないのだ。どこまでの犠牲が必要か?マタイ5:30。文字通りに腕を切り落としてはならない。ここでの要点は、罪から離れるためならどんな犠牲でも払う覚悟を持つということだ。罪の習慣をばっさり切り落とす。罪の誘惑が少しでも頭をもたげたら、神の武具で武装する。主が共におられること、復活の力によって勝利を得られることを確信する。聖霊のバプテスマを受けることは罪に打ち勝つ上で大きな助けとなる。人が罪に行ってしまうのは、罪にはたいてい蜜のような甘さがあるからだ。しかし、聖霊様が味わわせてくださる神の国よりも慕わしいものはない。それを知れば、わざわざ有害な罪に行かなくて良くなる。もし、自分一人でできないなら、牧師やほかの兄弟姉妹の協力を要請する。もし、罪の誘惑となっている人間関係があれば解消することも必要だ。罪から離れれば離れるほど、ますます神と親密になっていくことができるだろう。

神は私たち一人一人から遠く離れてはおられない。1.神と親密な交わりを持つ者となろう。ただキリストの十字架によって神との正しい関係を築き、2.御言葉に基づいて神が共におられることを知り、3.神との時間を持ち、4.蒔くものに注意し、5.罪をかなぐり捨てよう。私たちが皆神をいつも近く見出すことができるように祝福して祈る。

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