神と共に安らぐ時間

福音&主題メッセージ
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神だけが、私たちの存在の根源からの安らぎを与えてくださいます。
それは永遠の御国につながる安らぎです。

神と共に安らぐ時間


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【ノート】
私たちはどういうときに最も安らぎを感じるだろうか?どういうときに緊張がほぐれ、心が落ち着くだろうか?ストレスから解放されるだろうか?疲れが癒され、元気が出てくるだろうか?
コーヒーブレイクのとき?私はコーヒーが好きなので、聖書や信仰書籍を片手にコーヒーを飲みながら過ごす時間は格別だ。あるいは食事をしているとき?栄養補給すれば元気も出てくる。それか、眠るとき?一日精一杯働いてあったかい布団にごろんとなったらそれは心地よくなるだろう。そういうことは健康的に生きるために必要なことだ。

しかし、食べたり飲んだり寝たりしない人は誰もいない。そういうことを全部したとして、それでも癒され難い謎の疲れを感じることはないか?それは私たちの体というよりも、もっと存在の奥底、つまり霊が感じる霊的な疲れだ。その疲れはどんなに寝ても、栄養のあるものを食べても、人と話しても、趣味活動をしても癒されず、逆に増大していってしまう。その具体的な正体としては、神から離れていることによる喪失感、同じ毎日の繰り返しによる虚無感、未来への不安感、さらには何のために生きているかわからないことによる不安感、いたずらに年齢を重ねることによる焦燥感、なすべき義務が山のようにあることによる負担感、そして、悪いとわかっていることを繰り返すことによる罪悪感などだ。

疲労は、神を知らないことから来ている。箴言には主を知ることが知恵の初めだと書いてある。それでは主を知らない知恵のない者、つまり愚かな者はどうなってしまうのか?箴言30:1-4。アグルは神に対して疲れ果てたと告白している。アグルが疲れ切っていたのは、知恵がなかったからだ。アグルは聖なる方とその子の御名を知らなかった。私はその御名を知っているか?その御名はイエス・キリストだ。私たちは、神とイエス・キリストに対する信仰と知識を深めることによって霊的な疲れから解放されて存在の奥底からの深い安らぎで満たされることになる。

イエス様は、私たちがどういう状態にあるのか知り尽くしておられる。イエス様は人々が山ほどの重荷を背負って霊的に疲弊しきっているのをご覧になった。そこでこう言われた。マタイ11:28-30。疲れ切った。人生に疲れた。何のために生きれば良いかわからない。そういう人はイエス・キリストのもとに行こう。イエス・キリストは「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。イエス・キリストのもとに行ってこの方から学べば安らぎが得られる。イエス様は本来は私たちが自分で背負い続けなければならなかった重荷をすべて身代わりに背負って、十字架にかかって死んでくださった。イエス様は失われてしまった神との関係を回復させてくださる。イエス様は私たちの罪を赦し、罪から清めてくださる。イエス様は神様がどのようなお方かを教えてくださる。イエス様は永遠の御国に続く希望に満ちた未来を見せてくださる。イエス様は私たちに生きる目的と力を与えてくださる。イエス様は私たちを復活させてくださる。イエス様にこそ、安らぎがある。

それでは、具体的に、私たちはどのようにして、イエス様にあって安らぐのだろうか?大前提として、イエス様にあって安らぐためには、私たちは日々の忙しい活動をいったん脇に追いやる必要がある。コーヒーブレイクと言いながら、忙しくパソコンをカタカタやって仕事をしていたら休まるだろうか?全然休まらない。
イエス様にあって安らぐにはただ、イエス様に集中すべく、仕事や趣味活動やスマートフォンをいじることをやめなければならない。注意を逸らすすべての活動を停止するのだ。創世記2:2-3。安息にあたるshaw-bathというヘブライ語には停止するという意味がある。ほかの一切のことを脇に追いやって、ただ三位一体の神様のことに集中する。その方と祈りによって会話し、その方の御言葉を黙想し、その方の偉大さを賛美する。ただひたすらそうするのだ。ただ一つの特別な用途のためだけに何かを用いることを聖別するという。神のために聖別した時間を持つのだ。

これについては、誘惑がある。私たちは資本主義の社会に生きていて、生産性が求められる。そうすると、なんだか常に活動をしていた方が生産性が上がるように思える人もいるかもしれない。決してそうではない。もし私たちが主にあって安らぐことなく活動ばかりにかまけてしまうなら、私たちは疲れ果ててしまい、生産性がむしろ落ちる。コヘレト10:10。ずっと活動し続けるなら、私たちは鈍った斧のようになる。どれだけ力を入れても切れない。生産性は皆無だ。しかし、イエス様にあって安らぐ時間を持つならば、知恵と力を授けていただくなら、私たちは小さな力で大きな成果を出せる。

イエス様にあって安らぐことについて、3つのことを実践をしよう。

第一に、主日をイエス様と共に過ごす。日曜日を主の日として、仕事には行かず、イエス様にある安らぎを求めて教会の集会に出席するのだ。
それでは、日曜日を休めない仕事の人はどうすればいいのか?極力、日曜日を休める仕事に転職することをおすすめする。私たちは、仕事を選びさえしなければ、日曜日に働かないようにすることはいくらでもできる。イエス様は「誰も二人の主人に仕えることはできない。神と富とに仕えることはできない」と言われた。神が主人であれば、自分のお金の都合のために神を合わせようとしてはならない。むしろ、神に従って、お金のことは神にゆだねよう。神が良い仕事を与えてくださる。
私たちは安息日を守るのではなく、主日を守る。土曜日を特別な日とはもはや見ない。安息日は律法主義を象徴している。安息日には律法を守らなければ呪われてしまうという呪いの精神がそこにある。イエス様の時代には、安息日はもはや安息どころか人々に背負いきれない重荷を負わせるものとなっていた。私たちは律法の下ではなく恵みの福音の下に生きる。イエス・キリストの十字架の死によって、律法の要求はすべて満たされた。だから、私たちは呪われることを恐れて安息日を守るのではない。そうではなく、イエス様が日曜日に復活されたから、日曜日を主日として、イエス様の復活を喜び祝うのである。教会の初期のころから、ユダヤ教の安息日ではなく、イエス様にあって日曜日を主日として集会が行われていたことは聖書にも根拠があるし、使徒教父たちが書いた文書に残っている。私たちは一週間、世でもみくちゃにされ、いろいろな思い煩いを経験し、重荷を背負って、霊的に瀕死状態になったとしても、主日に集会に行って神を賛美するとき、霊的な復活を経験するのだ。主にある喜びが回復される。リフレッシュする。そうやって週の初めの日に力で満たされて、一週間を始めることができるのだ。
また、日曜日は他にどんな意味があるか?週の初めの日は光が創造された日だ。日曜日はイエス様の御顔にある神の栄光に照らされる日だ。たとえ、暗闇に属する否定的考え、消極的考え、悲観的考え、狭苦しい考えにとらわれてしまっていたとしても、日曜日に礼拝する中で神の栄光に照らされてそれらを払拭していただき、信仰に根差した新しい着想を得ることができる。世の光としての輝きを取り戻し、世の人々に証しとなる日だ。
日曜日は復活の日であり光の日、だから、力を失っているときほど集会に出席しよう。

第二に、日々、イエス様と安らぐ時間を持つ。週に一度だけ、イエス様のもとに行くのでは足りない。もし一週間に一度だけなら、私たちは平日の間に悪魔と世と肉とに攻撃されて、毎回霊的に瀕死な状態になり、かろうじて日曜日の集会で復活するというサイクルを繰り返さなければならなくなる。
ヨハネ15:4-5。イエス様につながっていなければ、私たちは何もできない、何の実も結べない。霊的な生産性が皆無になる。では、一週間に一度だけイエス様にあって安らぐだけでイエス様につながっていると言えるだろうか?それでは、不十分だろう。私たちは毎日、聖別された時間を持ち、イエス様と共に安らぐ時間を持ってこそ、イエス様にしっかりとつながることができる。
つまり、一週間のサイクルで行う主日を聖別してささげるサイクルを、一日の中でも行うということ。一日のある特定の時間を神のために聖別して神と共に安らぐ時間を持つ。それは朝が一番良いだろう。朝起きて、忙しく活動する前にいくらかの時間を持ち、祈りや御言葉の黙想、賛美をささげる時間にする。個人的なモーニングチャペルの時間を持つ。その時に語られるメッセンジャーは聖霊様だ。こうするなら、睡眠や食事によってはどうしても癒せない霊的な疲れを毎日すっきりさせられる。最高の一日のスタートを切れる。
では、イエス様に安らごうとしたときに、何か気がかりなことやするべきことを思い出したらどうすれば良いのか?それは誘惑のこともあれば、神からの示しの場合もある。聖霊様が新たな祈り課題を思い起こさせてくださったことかもしれない。それらをメモ帳やスマートフォンに書き記しておこう。そして、そのことが主にあってうまくいくように祈ろう。それからまたイエス様に集中しよう。

第三に、心をイエス様に聖別する。父なる神様の御心は、私たちが一瞬だけ主にあって安らぐようになることなのだろうか?そうではない。神様は私たちが毎瞬間、主にあって安らぐことを願っておられる。天地創造の記事を読むと、第7の日については、終わったと書いていないことがわかる。つまり、今の時代はいわば第7の日の時代であって、主にあって安らぐ時代が続いているのだ。父なる神様は、私たちがイエス様にあって、ずっと安らぎ続けることを願っておられる。しかし、だからといって、私たちは一週間ずっと祈り続けたり御言葉を読み続けたりするわけにはいかない。食事も必要だし睡眠も仕事も必要だ。ではどうやってずっと主にある安らぎを持ち続けるのかといえば、今度は時間ではなく心を聖別することだ。マタイ5:8。マタイ6:22-23。ヘブライ12:1-2。私たちが清い心を保つならば、イエス様に心の目を向け続けるならば、私たちは何をしていても、イエス様にあって安らぐ時間を過ごすことができる。人生全体が安息となる。心というのはさまよいやすいもの。すぐにいろいろなところに逸れていく。それらを必死に振り払ってイエス様に集中する。お金や心配事、いらだち、悪い欲望などを振り払う。そんなことできるのか?清い心で神だけを見るというのは、人間にできることではない。しかし、神にはできる。私たちが神を見ることを切に求めるならば、聖霊様が私たちに清い心を創造してくださる。

これらのことを実践することは、私たちが天国に入る準備にもなる。天国は、永遠に御父と御子を礼拝する場所だ。ウェストミンスター小教理問答の第一問は「人間の第一の目的は何ですか?」答えは「人間の第一の目的は神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」とある。私たちは週に一度主日ごとにイエス様にある安らぎを得て、さらには毎日、イエス様にある安らぎを得て、毎瞬間イエス様から目を離すことなく、御国に入る時に近づいていくのだ。イエス様にある永遠の安らぎの人生を送る者となろう。

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