油田の上での極貧生活をやめる

福音&主題メッセージ
スポンサーリンク

いったい初代教会のクリスチャンとどんな違いがあるというのでしょうか?

油田の上での極貧生活をやめる

油田の上での極貧生活をやめる

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
今日はペンテコステ。聖霊様が降ったことを記念する日。聖霊様は命と力をもたらすお方。弟子たちが聖霊様を求めて祈っていると、激しい風のような音が天から聞こえ、炎のような舌がわかれわかれに一同の上に臨んだ。弟子たちは聖霊のバプテスマを受けて異言を語り、神の偉大な業を語りだした。そして、ペトロが大胆に福音を告げ知らせると、一気に3千人がイエス・キリストを信じて救われた。こうしてペンテコステの日に教会が誕生した。ペンテコステはターニングポイントだ。人々の上に聖霊様が注がれるのはペンテコステの日のたった一度だけのイベントではない。その後、サマリアでも聖霊様は降ったし、ローマ人コルネリウスの上にも聖霊様が降ったし、エフェソではバプテスマのヨハネの弟子の上に聖霊様が降った。また、近現代でも、イギリスでも、アメリカでも、韓国でも、中国でも、インドネシアでも世界中様々な場所で聖霊様が激しく降り、不思議なわざやしるしがなされ、大勢の人々が救われたことが報告されている。ペンテコステを皮切りに聖霊様は世界中どこでもクリスチャンが望むならば激しく働かれるのだ。使徒2:37-39。この約束が今に至るまで世界中で実現している。そして、この約束の対象にはあなたも含まれる。

教会とクリスチャンに命と力を与えるのは聖霊様だ。みなさんは聖霊様の力を豊かにいただいて、生き生きとしたクリスチャンライフを送っているか?救いの確信に満ちあふれ、罪に打ち勝ち、喜びに満ちあふれ、大勢の人々の救いに用いられているか?もし力がないのであれば、その原因は何か?なぜ同じクリスチャンなのに、初代教会の人々やリバイバルに用いられた人々との間に差を感じるのか?一部のクリスチャンのもとにしか聖霊様がおられないからではない。聖霊様は教会とクリスチャンの間におられるが、当人たちはそのことがよくわかっていない。聖霊様は油に象徴される。聖霊様がおられるのに力がないクリスチャン、それはまるで、油田の上で貧乏な生活をしている人々のようなもの。私は昔テキサスに二年住んでいた。アメリカの南の真ん中に位置する。日本の二倍近くの面積の州。アメリカの南テキサスのカーンズ郡は18世紀にはじまるアメリカ最古の牧畜地帯。この牧畜地帯は「貧乏ライン」以下の低所得世帯が25%を占める、小規模牧場が多かった。そして、時々南テキサスでは大干ばつに見舞われることがある。特に1954から56年には三年間ほとんど雨が降らなかった。その際には大小の牧場が破産して、牧畜業は大打撃を受けた。多くの酪農家は極貧生活を強いられることになった。ところが、20世紀後半からその地域で石油の採掘がはじまった。牧場主は、自分の牧場で石油が出るか、自分の牧場を石油のパイプラインが通れば、その使用料をもらい続けることができる。それで、破産寸前だった牧場主たちに突然大金が舞い込んでくるようになったのだ。油田の採掘によってカーンズ州の牧場主の経済状態は一気に改善された。もう干ばつが来ても破産しない。しかし、牧場主たちが破産寸前の貧乏生活をしていたときも、油田はずっとあった!ただそれを活用できていなかっただけなのだ。これが、聖霊様がおられるのに力がないクリスチャンの状態だ。神様が天のあらゆる霊的な祝福で満たそうと聖霊様を与えてくださっているのに、ずっと霊的に破産状態にとどまり、敗北感を味わいながら生きている。

その原因は一人一人のクリスチャンの意思にある。人間は聖霊様を求める意思が欠如しているのだ。油田を採掘しようとしないのだ。採掘しよう。聖霊様の油を豊かに受けよう。そうすれば、力強いクリスチャンライフを歩むことが可能!そのためには何が必要か?

第一に、イエス・キリストを信じて救われていることが必要。聖霊様は神の子としての身分に基づいて父なる神様に求める。ルカ11:13。神の子となるには、イエス様を信じる必要がある。また、聖霊のバプテスマはイエス様が弟子たちにお授けになるもの。ルカ24:49。そうであれば、イエス様を信じて、イエス様に従う弟子でなければならない。
第二に、渇き求めることが必要。すべての人には渇きがあるが、多くの人は間違ったものに満たしを求めてしまうところがある。異性を通して、この世で多くのものを所有することを通して、名声を得ることによってといったことで満たされると思い込む。そういうものは海水のようなもので、渇きを満たすどころか、飲めば飲むほどますます渇いてしまう。サマリアの女は多く男性と交際したが、満たされるどころか心はからからにひからびてしまった。金持ちの青年はこの世の多くのものを所有していたが、何かが欠けていると知っていたのでイエス様に永遠の命を得る方法をたずねた。千人の妻を持ち、世界のあらゆる財宝を手に入れ、誰にもまさる名声を得たソロモンは「何という空しさ、何という空しさ、すべては空しい」と断言した。
健全な交際や必要なものを手に入れることは悪ではないが、そこには私たちを本質的に満たすものはなく、問題の解決はないことを覚えよう。私たちは神に造られたものであり、神を求めるように創造された。私の渇きは神にしか埋められない。ヨハネ7:37-39。聖霊様によってこそ、あなたは満たされる。それあなたを満たすだけでなく、あなたからあふれ出て多くの人々にも影響を与える。あなたの周りのクリスチャンにも火がつき、未信者は救われていく。聖霊様を渇き求めよう。

第三に、御言葉の知識が必要。ホセア4:6。新改訳では「わたしの民は知識がないので滅ぼされる」と訳されている。聖霊様について何も知らなければ、聖霊様による力を全然体験できない。使徒19:1-6。エフェソにいたバプテスマのヨハネの弟子たちが聖霊様の力を得られなかったのは、そもそも聖霊様がおられるということすら聞いたことがなかったからだ。何も知らなければ何も得られない。油田の上で生活していた人たちと同じだ。しかし、知れば、それがきっかけとなり、たちまち力を得ることができる。私たちは必要な知識をもっていないということについて言い訳するべきではない。私たちには聖霊様について詳しく知るための十分な資料がある。聖書だ。聖書を注意深く読むなら、イエス様も使徒たちも、その力の根源は聖霊様だったことがわかる。そして、聖霊様がどのようなお方かも聖書を読めばわかる。さらには、必要なら聖霊様についての教えも探せば得られる。その際に、ソースとするべき教えは、頭の良い神学者の教えではなく、聖霊様の力を豊かに体験した人の教えだ。

第四に、正しい動機を持つことが必要。感情的な体験をしたい、恍惚状態になりたいというのは不純な動機だ。それは聖霊様を危険な薬物と同じように扱ってしまっている。不思議なことを行えるようになりたいというのも不純な動機だ。元魔術師のシモンはそういう動機でお金で聖霊様の賜物を得ようとした。彼はペトロから何と言われたか?使徒8:20-23。「滅びてしまえ」というのは地獄に落ちろという意味。腹黒い動機で求めるならむしろ滅びの宣告を受けてしまう。救いの確信を得たいというのも動機としては不十分だ。では正しい動機とは何か。使徒1:8。伝道で実を結びたいと真剣に願っているならすばらしい動機だ。Ⅰコリント12:7。全体とは何か。教会のことだ。自分のためではなく、教会を建て上げるために賜物を使うのだ。そして、すべてのことに通じる動機ではあるが、主の栄光を現すということが根底に必要だ。Ⅰコリント10:31。

第五に、隠れた罪を告白し、清めていただくことが必要。イエス様が活動を始める前に、まず、バプテスマのヨハネが現れて、悔い改めさせ、人々に水のバプテスマを授けた。悔い改めて水のバプテスマを受けることは聖霊様の力を受けるための備えなのだ。そのことは使徒2:38でもわかる。水のバプテスマを受けた後でも、告白していない罪があれば、当然告白しなければならない。Ⅰヨハネ1:9。もちろん、告白するだけして、続けてその罪を犯そうとしているならそれは悔い改めたことにはならない。聖霊様の力を求めている人の中には、性的な不品行を悔い改めていない人やオカルトの罪を悔い改めていない人、赦せない人がいる人がいる。ただちにそれらの罪を告白した上で、完全に断ち切ることが必要だ。
第六に、神を信頼し、明け渡すことが必要。自分が聖霊様を豊かに得ようとするよりも、聖霊様に自分自身を所有していただこうとすることが大事。もしまだここはプライベートゾーンですとして、神様に明け渡していない領域があれば、全部明け渡すのだ。神様は信頼できる方だ。神様を信頼できない人の中には、神様を信頼してゆだねたらとんでもないことになってしまうと思っている人がいる。全財産を手放してアフリカに宣教に行ってマラリアにかかって死んでしまうと思っている人がいる。もしアフリカ宣教に重荷があるならそういう用いられ方もありうるが、神様は良いお方だ。自分の子供から楽しみをすべて奪って苦しめたいという父親はいるだろうか?ましてや愛に満ちた父なる神様は私たちから良い物を奪って人生を台無しにしてしまうことはない。もちろん、私たちの治さなければならない点を主は治療してくださるということは多々あるだろう。それはあくまでも私たちの幸せのためだ。主なる神様は私たちの幸せを願っておられる。その方を信頼して、すべてを明け渡そう。

第七に、信仰をもって受けることが必要。実際に聖霊様の力が得られたという実感やその力によって人々が救われていくのを待つまでもなく、求めた瞬間にもう得られたとして感謝するのだ。マルコ11:24。Ⅰヨハネ5:14-15。御心に適ったこととは何か?御言葉で命じられていることや約束されていることは明らかに御心に適ったことだ。大宣教命令に用いられたい、そのために聖霊様の力をくださいというのは御心に適っている。イエス様の証人として用いられたい、そのために聖霊様の力をくださいというのも御心に適っている。命令や約束がある。だから、聖霊様の力を求めたら、その瞬間に得られたと信じよう。そうすれば、その通りになるのだ。そして、信じた後も続けて感謝しつつ、聖霊様の力について祈り続けることをおすすめする。

すでに聖霊様は注がれている。無尽蔵の聖霊様の力がある。その御力を求めよう。その御力をいただくにあたって必要なことを満たしていく者となろう。このメッセージがきっかけであなたは大勢の人々の救いに用いられることができるようになると信じる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました