他の教会、クリスチャンを批判することについて、聖書は何を教えているでしょうか?
疑惑について聞いたら、どのように判断すべきでしょうか?
大きな罪を犯したクリスチャンの教えは全否定して良いのでしょうか?
偽善者の教えであれば否定して良いでしょうか?
もし、批判をやめなかったら、どうなってしまうのでしょうか?
どうして批判してはならないのか?
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【ノート】
私たちは、他の教派、教会、教団、牧師、クリスチャンのことを無暗に批判してはならない。その人たちと神学的な違いはあろう。信仰のスタイルの違いはあろう。方法論の違いはあろう。強調点の違いはあろう。しかし、一致していることがあまりにも大きい。それは、同じ、イエス・キリストを信じているということだ。
私は、今まで国内外の何百という教会に足を運んだことがある。日本基督教団、長老派、インマヌエル教団、バプテスト、アングリカン、ホーリネス、アッセンブリー、カリスマなど。それらはいずれも神の教会だった。そこで語られる御言葉は全面的にアーメンではないこともあるが、心にとめた。そして、礼拝の後、牧師を捕まえて神学論争をしたり、信徒たちに教会の批判をしたりはしない。神学論争も時に有益だが、場をわきまえる。他の教会に出席しているクリスチャンと平和的な交流を持つことは可能だ。
もちろん、異端、カルト、自由主義神学など、悪影響を及ぼすものはその危険性を強調する。イエス様も「ファリサイ派の人々とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」と言われた。あきらかに有害な教えというものがある。Ⅰテモテ4:1。すべての教えについて何でも受け入れればよいという立場ではない。マナ教会では基礎の七つの教えにしっかりと立つことが大事だ。
その上で、無暗に批判してはならない。どうしてか?8のポイントで説明する。
第一に、イエス様は寛容だった。イエス様は方向性の違う人々をも御自分の味方とみなしておられました。マルコ9:38-40。血気盛んなボアネルゲスは、自分たちについてこないなら、御名を用いて悪霊を追い出すのをやめさせようとした。不寛容の態度をとった。イエス様の御名は我々の専売特許だ!勝手に使うな!ところが、イエス様はやめさせてはならないという。「逆らわない」と書いてあるのは、敵対しないという意味の言葉だ。イエス様に積極的に敵対しなければ、みんなイエス様の仲間だという。イエス様は寛容だ。イエス様は器が大きい。私たちも寛容になれる。御霊の実は寛容だ。ガラテヤ5:22-23。もし、私たちが聖霊様に満たされていれば、どんどんイエス様のように寛容になるはずだ。
第二に、疑惑だけで批判してはならない。批判は、多くの場合、確たる根拠もなしに、噂話によってなされてしまう。疑惑に過ぎないのに、断定的に批判してしまうことがある。しかし、御言葉はそのようなやり方を支持していない。人の最悪を想定することは罪だ。ローマ1:29-31には罪のリストがある。29節の「邪念にあふれ」は、カコエーセイアというギリシャ語が使われており、これは「他人についていつも悪を想像する心」という意味だ。もし、単に疑わしいだけで悪としてとらえるなら、この堕落した人間の性質であるカコエーセイアに該当することになってしまう。では、どうするべきか。私たちは愛するように命じられているが、愛は「すべてを信じ」る。(Ⅰコリント13:7)相手に対して最善を想定するのが、愛であり、私たちが目指すべきところなのだ。さらには、本人に確かめてからでなければ断定してはならないことが複数の聖句に記載されている。ヨハネ7:51。箴言18:17。これらの内容から疑惑だけで人を批判してはならないことがわかる。
第三に、すぐに悪霊の働きだと批判するのは危険だ。自分の目に異質に思えるクリスチャンについて、悪霊が働いているとか、異なる霊が働いていると批判することがある。
霊といえば、聖霊様か、光の天使か、悪霊か、そうでなければ人間の霊かということになる。どの霊がどういう時に働いているかは、どうやって見分けることができるのか?御霊の賜物の中に霊を見分ける力がある。しかし、賜物だけだと主観的だ。批判する人はみんな「自分には賜物がある」と思うだろう。賜物よりも優先されるのは聖書がどういう基準を設けているかだ。Ⅰヨハネ4:2-3。ここでは、イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものだと書いてある。ということは、クリスチャンが御言葉に基づいて何かを教えるなら、基本的に神から出た霊、つまり聖霊様によって語っているということがわかる。もし神から出た霊によって語っているのに、それを悪霊か、異なる霊と断言してしまったらどうなるか。大きな罪を犯すことになりえる。マルコ3:29。神を畏れなければならない。
それでは、疑惑や噂話や教えに関する疑義のレベルではなく、実際に罪を犯したことが明らかになった人の場合はどうか?性的な罪を犯した。お金を横領した。殺人を犯した。そういう場合はさすがに、その人を批判すべきであり、その人が教えたことは全部退けた良いか?一度大きな罪を犯したら、もうその人は失格であり、神様に用いられることはないのか。その人の教えはすべて放棄すべきなのか。そうではない。
第四に、罪を犯した信仰者であっても、全否定してはならない。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯した。もし罪を犯した信仰者の教えを全部退けるとするなら、私たちは聖書から詩編を除かなければならない。モーセは殺人犯だし、パウロもたくさんのクリスチャンを死に追いやった。ヨハネはサマリヤの村に火を降らせようとした。つまり、虐殺未遂犯だ。そうやって大きな罪を犯した人々が教えた内容を聖書から削っていくとどうなるだろうか。聖書はほとんど何も残らない。誰もそんなことに同意しないだろう。神様は大きな罪を犯した人々をも悔い改めさせて用いることができるし、その教えも有効であるということだ。ダビデは大犯罪者だったが、悔い改めたので、罪赦され、神の御心に適う者だった。使徒7:46。サムソンも、ペリシテ人の女性と結婚しようとしたり、娼婦と寝たりしているので、敬虔なクリスチャンから見ればとても模範になりそうにない人物だ。しかし、ヘブライ人への手紙を読むと、サムソンは名だたる信仰者の一人に数えられている。ヘブライ11:32。神様はサムソンのことを語りたくて仕方がないと思っておられることがわかる。神様はクリスチャンが罪を犯したからといってただちにその人を退けてはおられない。だから、悪く言うことは慎まなければならない。その人たちが教えたことも全部捨ててはならない。
第五に、他人の僕を裁いてはならないと書いてある。主に仕える人々は、主の僕だ。主の僕をどうするかは主がお決めになる。ほかの人々がとやかく言ってはならない。ローマ14:4。主の僕がどうなるかは、主がお決めになる。実際に主が裁くことを私は見たことがある。しかし、それは私たちがすることではない。特に主が指導者として立てた人々を裁くことは慎まなければならない。イスラエルの民がモーセとアロンを非難したとき、神様はモーセとアロンの肩を持った。アロンとミリアムがモーセを非難したとき、神様はモーセの肩を持った。神様は御自分が立てた人々を他の人が勝手に非難することを許してはおられない。主が立てた人に対する非難は主に対する非難だ。神に対する畏れを持って、慎む必要がある。
第六に、告発はサタンの役割である。私たちの役割ではない。本当に告発できる事柄があるとしても、告発するのは私たちの役割ではない。サタンの役割だ。ゼカリヤ3:1-4。
サタンが大祭司ヨシュアを訴えようとしていた。何か正当に訴えることがあったということだ。大祭司ヨシュアは汚れた衣を着ていた。何等かの罪を犯していたということだ。しかし、主はサタンを責め、ヨシュアについては罪を取り去ってくださった。これが主の御心だ。本当に訴えるべきことがあっても、赦し、清め、その人を用いる。執り成しの祈りは、この主の御心を心として、兄弟姉妹のために祈ることだ。告発は全部サタンに任せよう。私たちは執り成して祈ろう。
第七に、へりくだって学ぶ者になる。謙遜は、クリスチャンに第一に必要な性質だ。謙遜な人はあらゆるものから学ぶことができ、御言葉もそのことを奨励している。マタイ10:16。蛇とはサタンのことだ。サタンからすらもその賢さについて学ぶことがある。ルカ16:8。光の子はクリスチャン、世の子は未信者。未信者からすらその抜け目のなさを学ぶのだ。さらに、イエス様は、偽善者の教えすら、場合によっては守るように言われた。イエス様は偽預言者を警戒しなさいと言われた。だから、偽預言者を警戒し、避けるようにすることは適切なことだ。それでは、偽者であれば、その教えることも、すべて退けるように言われたのか。実はそうではなかった。マタイ23:2-3。ファリサイ派と律法学者といえば、イエス様からたびたび厳しく偽善者たちと言われた。偽者だと。しかし、偽善者が語ることであっても、御言葉に照らして正しいことであれば、「すべて行い、また守る」ようにイエス様は命じられた。偽善者からすら、教わることがあるということだ。
第八に、御体は一つだ。Ⅰコリント12:11-20。すべてのクリスチャンが一つの御体なる教会に集うように招かれている。だから、他のクリスチャンや教会を批判すると、御体に連なることができなくなる。カルト的な霊性となり、独善的になってしまう。カルトや異端に広く見られる特徴は何か?「自分たちだけが唯一の教会であり、他の教会は皆堕落してしまった」というものだ。モルモン教も、エホバの証人も、そううたっている。いろいろな個人や教会を批判することは、自分の方がその人たちよりも優れているという高慢な考えが根底にある。実は、その人たちを立てた神様に対する反逆でもある。それが悪霊に隙を与え、カルト化につながる。他のクリスチャンや教会を批判することを悔い改めないと、教会に属することができなくなる。
御霊の賜物も、決して教会を非難するためではなく、建て上げるため、全体の益となるために与えられている。たとえ、教え、方法論、文化に多少の差異があっても、互いに受け入れ合い、愛し合うことを主は私たちに命じておられる。
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