いつも主に聞いたダビデ[サムエル上23章]

サムエル記
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ダビデは一貫して主に聞く姿勢を崩しませんでした。
それによって戦いに勝利し、危険を避け、正しい判断を常にすることができました。

いつも主に聞いたダビデ[サムエル上23章]

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【ノート】
ダビデは流浪生活の身でありながら、400人の戦士が仲間に加わっていた。元千人隊長のダビデが率いるのだから、もうそれはちょっとした軍隊であり、局地的な戦いであれば十分にできる能力があった。アドラムの洞窟にいたころのダビデの心境を歌った詩編としては詩篇57編と142編がある。それらを読んで、ダビデがどうしてそれらを歌ったのかを考えてみることをおすすめする。1-2節。ケイラとは、ユダ族の町だ。ケイラのユダ族の人々は、ペリシテ人の略奪をサウル王ではなく、同じ部族のダビデに知らせている。ダビデの方が頼りになると思ったのだ。

ダビデは、自分の頭で考えて結論を出そうとするのではなく、主に託宣を求めた。ここで、ダビデが初めて、主に託宣を求めたことが出てくる。主に託宣を求めたとあるのは、主に聞いたということ。どうやって聞いたのか?祈って、心に語られる主の預言の言葉を聞いたのだろう。使徒言行録には「ダビデは預言者だった」と書いてある。預言を聞くことができた。ほかにも神は夢や幻を通して語ることもある。また、是非を判断するためにくじを引くこともある。では、現代では、私たちはどうやって主の御心を知るのか?主がイエスと言われているかノーと言われているかどうすればわかるのか?聖書の御言葉だ。何か主の御心を知りたいことがあれば、主に祈り、聖書を開いて、御心を求める。聖書を読み続けていくと主の御心を示す箇所にぶつかる。その箇所を通して主は答えを教えてくださる。そして、預言、夢、幻は現代でもやはり重要だ。ただし、人間は自分の願望を主の御心だ誤認してしまうことがある。そうならないように、精度を上げるには、第三者を含めて、複数人からの示しがあることが望ましい。ダビデとサウルでは主に託宣を求めることについての態度が全然違った。

サウルはもともと、主に託宣を求めることはほとんどなかった。ペリシテ人の戦闘でヨナタンの功績によって大勝利が得られたとき、ペリシテ人の追撃するかどうかを決める際に、祭司から「神の御前に出ましょう」と進言されて、初めて託宣を求めてみたけども、そのときには答えが得られなかった。それだけだ。そのあとは、サウルは主の祭司を虐殺してしまったことで、主からの託宣を受ける機会を自ら断ってしまった。後になってサウルはペリシテ人との決戦を前に、主の託宣を何が何でも得ようとするが、決して得ることはできない。私たちは、主からの御言葉を取り次いでくれる人のことを大事にしなければならない。都合が悪くなると御言葉を取り次ぐ人を無視したり、教会をころころ変えたりしてはならない。そんなことをしたら本当に困って導きを得たいときにも決して得ることはできないのだ。

ダビデが主の託宣を求めることについては、一貫性がある。ダビデは、事あるごとに主の託宣を求めた。それは、ダビデが王となってからも変わらなかった。ダビデの戦略は、主に聞き従うことだったのだ。これ以上確実でスマートな戦略はない。主がお命じになったのは、行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え」だ。主は御自分の民が悪いものから救われることを願っておられる。そのために聖霊様の油注ぎを受け、賜物を持っている人は献身しなければならない。

3-4節。ダビデは兵士たちに反対された。兵士たちはダビデの信仰はダビデ個人のものであって、戦いの勝敗や自分たちの状況とは無関係だと思った。ダビデの信仰の言葉があっても、サウルに追われている身なのにペリシテ人とも戦うというのは無謀な選択に思われた。ダビデのリーダーシップが問われる場面だ。ダビデは兵士たちの言いなりにはならなかった。しかし、兵士たちの意見を考慮して、もう一度主に託宣を求めたのだ。何度か念押しで御心を確認することは悪いことではない。主は二度目も答えてくださった。もちろん、主は御心を変えるお方ではない。やはり、「ケイラに行け」という。しかし、今度は勝利の約束までいただいた。
「ペリシテ人をあなたの手に渡す」と。そして、ダビデはもう一度託宣の結果を伝えて兵士たちを奮い立たせて戦った。5節。これがダビデの軍隊の初陣と勝利だ。
ダビデの軍隊はサウル王に代わってペリシテ人から人々を救える力が十分にあることが明らかになった。このことを通して、兵士たちは主に聞き従って勝利を得るというダビデの信仰の在り方を実地で学ぶことになった。

6節。エフォドとは、大祭司の服で、前面には裁きの胸当てがあり、その中にはウリムとトンミムが入っていた。ウリムとトンミムというのは二つの石で、ある質問についての主からの答えがイエスなのかノーなのかを知ることができたのではないかと考えられている。

7-8節。ここでサウルも、「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ」と言っている。ダビデは主に託宣を求めた結果、ペリシテ人からケイラを救ったのに。サウルはここで主に託宣を求めて語っているのではない。また、そもそもサウルは主がダビデと共におられることを知っていたのではないか。なぜ「神がダビデをわたしの手に渡されたのだ」などと言ったのか。ただ、自分にとって都合の良いことがあったので、神の御名をそこにつけ足しているだけだ。つまり、神の御名をみだりに唱えて罪を犯しているのだ。

9-13節。ダビデはここでエフォドを使って主に託宣を求めている。エフォドは本来、祭司だけが用いて良いものだ。ダビデはここで祭司であるかのようにエフォドを使って託宣を求めている。一見すると越権行為、アウトのように思われる。しかし、主からのお咎めはない。なぜか?それは、ダビデが自分の思いつきでエフォドを使ったのではなく、預言者として主にエフォドを使うように啓示されたがゆえに使ったからだ。ダビデはある意味、王、祭司、預言者という油注ぎを受ける三役すべてのことを行っている。ダビデはイエス様の型だからだ。イエス様こそが王の王であり、新しい契約の大祭司であり、モーセのような預言者だ。ダビデはそれを小さいスケールで実現している。ここでダビデは、まずサウルがケイラに降ってきてダビデを町もろとも滅ぼそうとして降ってくることを知った。ダビデを倒すためならどんな犠牲を厭わないという執念を知って衝撃を受けた。さらに、せっかくリスクを犯してケイラの町を守ったのに、ケイラの人々はダビデを裏切ってサウル王に引き渡そうとするということを知った。二重の衝撃だ。どちらもダビデにとって全然望ましくない。そういう望ましくないことをもはっきりと示してくださるということによって、ダビデが受け取ったのは、確かに主からのメッセージであるということがわかる。ダビデは預言によって、未来の危機を回避できるようになったのだ。私たちも重要な決断をするときには、ダビデのように、主に聞くということを実践しよう。「ダビデとその兵およそ六百人」と書いてある。ダビデの兵はこの時点でアドラムの洞窟で最初に集まった400人よりも増えて600人にまで成長していることがわかる。

14節。ケイラを去っても、サウルはダビデを狙い続けた。ダビデの陣営は常に切迫した状況に置かれ続けた。しかし、神はサウルからダビデを守り続けられた。一歩間違えれば破滅という状況が続いたとしても、神が守ってくださるときはずっと大丈夫なのだ。

危機的な状況には励ましが必要だ。さらに、神はダビデのもとにヨナタンを送って、信仰を励ます。15-18節。サウルは決してダビデのもとにたどりつけないが、味方のヨナタンはすぐにたどりつける。ヨナタンの言葉は月並みの同情の言葉などではない。「大変だねー、がんばって」ではない。確信に満ちた預言だ。ヨナタンは、ダビデの安全を保証した。そればかりでなく、ここで初めてはっきり、ダビデこそがイスラエルの王になると預言している。ヨナタンはそのことを確信するに至ったのだ。それは自分が王になることはできないということだ。
ヨナタンはそれを主の御心として素直に受け入れて、自分はダビデを右腕として支えたいと伝えている。なんとも麗しい友情だ。王位に関するごたごたした争いも二人の友情を引き裂くことはできない。二人は新しく与えられたダビデがイスラエルの王になるという啓示をもとに三度目の契約を主の御前で結んだ。ダビデはヨナタンによってイスラエルの王に召されているのだという召命を改めて認識することができた。危機的な状況にあって、互いに味方となって、信仰の言葉によって励まし合うことのできる友人を大事にしよう。

19-21節。サウルは「ダビデを引き渡します」という報告に対して、「主の祝福があるように」と言っている。人を捕らえて滅ぼそうとすることにどうして主の祝福があるのか?これはただ口をついて出た宗教的な言葉だ。罪深いことに宗教的な言葉を使って主の御名をけがしてはならない。「私に向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない」と言われたのはこういうことのためだ。

22-25節。サウルはいつもダビデにすんでのところで逃げられていたので、確実に捕らえるために正確な情報を入手して、着実に追跡した。それで、サウルはダビデのすぐそこまで迫ることができた。

26-28節。ダビデもサウルも互いに分かれの岩にさえぎられていたので、お互いどれだけ迫っていたのかは当事者にはわからなかっただろう。上空からの主の目だけがそれをとらえていただろう。主はぎりぎりのところで、ペリシテ人侵入のニュースによってダビデを守った。それは本来いつもバッドニュースのはずだったが、神は万事を益とされる。ダビデにとっては命が助かるグッドニュースとなった。ダビデはサウル軍が去っていく後ろ姿を見て、サウルに捕まる寸前だったことを知った。ダビデは分かれの岩で難を逃れた。分かれの岩は、神によるダビデの保護の完全さを表している。敵がどれだけ接近しても、神による分かれの岩があって、ダビデに害を加えることができないのだ。ハレルヤ!
ダビデは後に詩編23編を歌っている。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯をあふれさせてくださる。」敵は目の前にいても、神は分かれの岩をもってへだてて守ってくださるので、私たちは何の害も受けない!むしろ、主からの恵みを喜び、楽しむことができるのだ。

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