御言葉による癒し

福音&主題メッセージ
スポンサーリンク

主は御言葉を遣わして私たちを癒します。だから、希望があります。いつでもどこでも誰でも、この癒しを今、体験することができるということです。

御言葉による癒し


YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
御言葉にはあなたを癒す力がある。主は私たちを癒すにあたって、御言葉を用いるのだ。詩編107:17-22。ここで罪に屈従して、死にそうな人間に対して、主は、御言葉を遣わして癒しをなされた。このことは大きな希望を与える。私たちは癒しを受けるために、イエス様が生身の体で共にいる必要がない。福音書を読んだらイエス様がありとあらゆる病気や煩いを癒された。それを読んで「ああ、私もイエス様と同じ時代にいたらこの病気を癒してもらえるのに、そうじゃないから癒されない」と思わないでほしい。イエス様は目には見えなくてもあなたと共におられる。あなたの内におられ、ほかのクリスチャンのうちにおられる。そして、イエス様は神の御言葉なるお方。御言葉が語られるときにイエス様が働かれ、癒しを行ってくださる。御言葉が語られるとき、福音書でイエス様が人々のありとあらゆる病気を癒されたようなことが、あなたに対しても起こっている。そのことをイメージしよう。御言葉と共に、イエス様があなたの心や病巣に手を置いて癒しをなさる。

また、癒しについての証しを、YouTubeの動画や信仰関連の本で知ることがあるかもしれない。それを知って「ああ、私の周りにもこの癒しの伝道者のような人がいたら癒してもらえるのに、そういう人がいないから癒されない」と思わないでほしい。もし、癒しの賜物を持っている人が癒しに絶対に必要なら、緊急事態の時に間に合わないかもしれない。急病や交通事故の時、すぐに癒しが必要なのに、周りに賜物を持っている人がいない。そういう時にあきらめなければならなくなる。また、癒しの賜物を持っている人にも、都合がある。常につきっきりであなたをみていることができない。しかし、私たちには必要な時にすぐに手に届き、いつでもどんなときでも利用できる癒しの方法を持っている。申命記30:11-14。御言葉はゼロ距離で私たちと共にある。私たちはいつでも御言葉によって癒されることができる。聖書を持っているか?聖書の御言葉を読んでほしい。聖書の御言葉を思いめぐらしてほしい。神様は聖書の御言葉を遣わして、あなたを癒す。鬱になるとき、聖書の御言葉を思いめぐらすと回復する。罪の束縛にあるとき、聖書の御言葉を思いめぐらすと自由になる。絶望のどん底にあるとき、聖書の御言葉を思いめぐらすと希望にみちあふれ、喜びと平和が与えられる。

しかし、思うかもしれない。どのようにして御言葉から癒しを受け取ることができるのか?と。御言葉がどのようにあなたの上に働き、どうやってそれを体験するのか、三つのポイントでそのことをお伝えする。これらのポイントをおさえていれば、御言葉の受け取り方が変わり、信仰をもって受け取って、癒しを体験できるようになる。

第一に、御言葉は罪からあなたを癒す。最初に読んだ詩編107編の御言葉の通りに、罪があなたを苦しめ、束縛し、祝福を体験できなくしてしまう。御言葉の働きは罪からあなたを癒すことにある。あくまでもゴールは癒しであって、あなたを裁くことではないことを心得よう。聖書を読むと、幾千もの掟が書いてある。それらを破ることは罪である。また、神が罪人を裁くことについてもたくさんの記述がある。もし私たちが間違った観点でそれらの御言葉を読むなら、苦しくなるだろう。「ああ、私はこの罪もあの罪も犯している。私は神に裁かれて滅びるに違いない。」それは間違った読み方だ。じゃあどうやって読めば良いのか?御言葉を読むとき、御言葉はあなたに対して3つの作用を同時にするのだということを心得て読むことだ。その3つとは、罪を気づかせ、その罪の赦しを受け取らせ、その罪からの清めを与えることだ。
この3つの働きのことをよく表しているのがヘブライ4:12-13。御言葉の力が書いてある。ここでどんな両刃の剣よりも鋭いと書いてある。これは悪霊に対するものではなく、私たち自身に向けられたものだ。剣を突き付けられたら痛い。御言葉には痛いところをつくところがある。しかし、これはあくまでも癒しのためであると認識することが大事だ。ここで御言葉の剣は、私たちを滅ぼすように働いているのではなく、癒すためにメスとして働いている。外科手術をするときにはメスを使って病巣までたどりつき、それを取り除く。御言葉のメスはそれを私たちの全存在に対してもっと完璧な次元ですることができる。ただのメスは物体だが、御言葉のメスは生きて働く。私たちの霊、魂、肉体、心の思いや考えの領域に至るまで御言葉は及んで、私たちの内の罪の病巣を取り除く力を発揮するのだ。
外科手術の時、私たちはメスで体を切られても痛くない。麻酔をされるからだ。人間の医者すら配慮ができるなら、神はなおさらだ。アダムからあばら骨を取るとき、神はアダムを眠らせた。麻酔作用だ。そのように、御言葉のメスが罪の病巣に至るときの痛みは、イエス様による赦しの恵みによって完全になくなる。むしろ、この罪をもイエス様が赦してくださったのだという感謝と賛美がわきあがる。
そして、病巣は取り除かれる、つまりその罪から完全に清められる。Ⅰヨハネ1:9。清められるということは、もうその罪に縛られなくてよくなる、その罪から自由になるということ。罪はすべて、完全に克服できる。神は私たちにできないことを命じられない。御言葉で命じられていることはすべて、神ができるようにする力を聖霊様によって恵みで与えてくださる。敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさいと命じられているが、そこまで愛されるほどの恵みが与えられるという約束でもある。7の70倍までも赦しなさいと命じられているのは、それができる力が与えられるということ。その証拠にイエス様は倫理道徳的なことを命じられただけでなく、奇跡を行うようにも命じられた。マタイ10:8。これはただの人間の力では絶対にできない。イエス様がこう命じられたのは、弟子たちにこれができるようにする力も同時に与えられたからだ。すべての御言葉の命令はそれを行うことができるようにする力も恵みによって与えられることを約束している。
多くの人が進化論の眼鏡をかけている。それで世界を見ると、すべては偶然の産物で、神の奇跡は全部科学的に説明しようとするし、人生に目的も意味も価値もないので恐れと不安を押し殺してとにかくわが道を行くしかない。でも、それは眼鏡というのは人工物であって、眼鏡で見る世界というのはフィルターごしなので本物ではない。進化論眼鏡は世界を本来の姿から歪めて見えるようにする。では、クリスチャンはどのようにして世界を見るのか?恵みと信仰だ。クリスチャンは眼鏡をかけるのではなく肉の目以外にさらに霊的な目を開いて世界を見られる。聖書も恵みと信仰で見る。すると、どの御言葉からもイエス様の血潮による贖いの恵みを見出し感謝と賛美をささげさせ、信仰によって神の約束とその成就を見出すのだ。
この観点から御言葉を読むとき、私たちはどんどん癒しを受け取ることができる。「私はこの御言葉を守っておらず罪を犯している。この罪は、イエス様の十字架で流された血潮によって赦されている。この罪から清められて、私はこの御言葉を行うことができる」

第二に、御言葉はアイデンティティを確立してあなたを癒す。悪魔は私たちがそうするのを全力で邪魔をしようとする。イエス様に対してすら、悪魔は「神の子なら」と誘惑した。ワンチャン、神の子だということを疑わせられるのではないかと踏んでのことだ。それであれば、私たちにはなおさら、悪魔は神の子だということを全力で疑わせられる。神の子なら、もっと愛にあふれているはずだ、もっと清い生き方ができるはずだ、もっと有能なはずだ、もっと祝福されているはずだ。など、ああだこうだ言ってくる。全部嘘だ。しかし、この嘘を信じてしまえば、クリスチャンとしての祝福を全然体験できなくなる。主にある喜び、平和、自由が全くなくなる。否定的な自画像を持つようになる。いつも「私は駄目だ、私は罪人だ、私は呪われている」と自己憐憫に陥るしかなくなる。安心してください。悪魔の言うことは全部嘘だ。そのことがわかると癒される。
ローマ8:15。悪魔としては、奴隷にとどめておきたいので、ゆさぶりをかける。悪魔がやっていることを説明するエピソードがある。
南北戦争の後、アメリカで奴隷制度が廃止された。しかし、南部の奴隷の主たちの中のある者たちは考えた。「奴隷制度が廃止されたことを知らせなければ、あるいは、知ったとしても、それが自分たちには適用されないのだと吹き込めば、いつまでも彼らを奴隷にとどめておくことができるのではないか」
彼らの目論見はうまくいった。南北戦争終結後も、ずっと奴隷として生き続けた黒人たちがいた。彼らは自由の身分の者として生きる権利を持っていなかったのか?持っていた。しかし、それが自分には当てはまらないと信じてしまったがために、その恩恵にあずかることができなかった。これが悪魔の私たちに対する作戦だ。なんだかんだ理由をつけて、自分が御言葉の約束から除外されるのだと思い込ませようとする。決してそうではない。イエス・キリストの恵みはあなたにも効力を及ぼす。どうしてそう言えるのか?御言葉で約束されているからだ。
私たちは神の子だ。神の作品だ。聖なる者だ。輝かしい勝利者だ。天地創造の前から選ばれている者だ。義とされた者だ。罪に定められない者だ。聖霊が宿る神の神殿だ。キリストと一つの霊とされている者だ。新しく創造された者だ。すべてが可能だ。なぜなのか?神の御言葉がそうだと言っているからだ。神の御言葉がそうだと言っているのに、違うことはありえるか?ありえない。悪魔が何を言おうとも、神の御言葉を単純に信じればよい。悪魔の言葉や肉や自分なりの思いではなく神の御言葉を単純に信じる。
神は主にある私たちの身分について、信仰以外の何の条件も与えていない。ヨハネ1:12。全部恵みによって与えられている。アイデンティティとは、「存在や身分の証明」という意味がある。免許証は運転する権利を持つことを証明し、社員証はその会社に在籍していることを証明する。それらを見せれば召命は十分だ。どのくらい運転が上手か、どんな仕事ができるのか、詳細に説明するということはない。私たちが主にある身分を持つかどうか問われたとき、神の子かどうかゆさぶりをかけられたとき、どうすればよいのか?ただ聖書の御言葉を出せばよい。それで証明は十分であり、それ以上に何も要求されない。
主にあって自分が何者であるかを知れば、そういう者として生きることができる。自分が神の子だと御言葉を通して悟った人は神の子としての権威をもって歩むことができる。暗い自画像が払拭される。もう悪霊が住めなくなる。神から愛されているので、人からどう思われるか気にしなくてよくなる。精神病があとかたもなく癒される。絶対に倒れない打たれ強さが与えられる。喜びと平和が与えられる。神と親しい交わりを持つことができるようになる。

第三に、御言葉の思いめぐらし、書き記し、宣言することによって癒しを体験する。方法論だ。癒し以外にも適用される。思いめぐらす。ヨシュア1:8。詩編1:1-3。口ずさみと訳されているのは、思い巡らす、黙想するという意味のハガーというヘブライ語。
ヨシュアとダビデは、約束の地を征服したという点で共通している。御言葉の約束を思いめぐらした人が、約束を成就する。書き記す。ハバクク2:2。書き記すことはディボーションの時間にできる。宣言。マタイ12:37。私たちの言葉には力がある。フィリピ4:13。ローマ8:1。使徒1:8。イザヤ53:5。マルコ16:17-18。これらの御言葉を思いめぐらす。これらが自分にまさにあてはまることを書き記す。これらの御言葉が自分に適用され、実現することを宣言する。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました