求める、受け取る、保持する

福音&主題メッセージ
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3つのステップをすべて踏むとき、制限のない祝福が注がれるようになります。

求める、受け取る、保持する


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【ノート】
神様は私たちを祝福したくて仕方ない。神様は私たちを御自分の子どもとして愛しておられ、良い物を豊かに与えて満たしたいと願っておられる。いや、実際にはすでに、私たちを祝福してくださり、良い物で満たしてくださっている。私たちにはすでに永遠の命を得ていて、最高の地位につき、絶大な力を持ち、無限の財産を得た者とされている。アーメン。全部御言葉で約束されている。でも、もしかしたら、あまりピンと来ていない人もいるかもしれない。それほどまでのものが与えられている実感がわかないという人がいるかもしれない。どうして実感がわかないのか?それは、私たちがいただいている祝福が、天の霊的な祝福だからだ。エフェソ1:3。天のあらゆる霊的な祝福で確かに満たされている。ただ、それが天の領域のことであって地の領域のことではないから、霊的なことであって物質的なことではないから、私たちにはあまり実感がわかない。それでは、天国に行かないと私たちはその祝福を味わうことができないのだろうか?決してそうではない。イエス様は私たちに「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように言われた。それは天の霊的な祝福を地上でも体験しなさいということだ。それでは、地上で祝福を豊かに体験するにはどうすればいいのか?それは、他のすべて良いものを味わう上で必要なことと同じだ。3つのステップで祝福を体験できる。第一に求めること、第二に受け取ること、第三に保持することだ。どれ一つとして欠けてはならない。すべてのステップにおいて共通していることがある。それは御言葉に対する信仰が必要だということだ。義人は信仰によって生きる。

第一に、求める。人が祝福されずに欲求不満に陥る原因のすべてをヤコブ4:2-3は教えてくれている。祝福されないのは、祝福を求めないから、あるいはしょうもない動機で求めているかのどちらかだ。そういう人は、しまいには人殺しまですると書いてある。良い動機で求めさすればよいのに!神様はじれったく思っている!クリスチャンにはいつでも良い物を豊かに惜しまず与えてくださる父なる神様がついている。しかし、なぜか親に捨てられた孤児であるかのような生き方をしている人がいる。ある人は罪の問題で葛藤し、ある人は病気で苦しみ、ある人は悪霊に引っ掻き回され、ある人は人間関係で悩み、ある人は信仰の問題でスランプになっている。もがき苦しみ、歯を食いしばって耐え忍び、やがて耐えきれずに絶望のどん底に突き落とされそうになっている。その人の隣で、その人のための遣わされている天使が嘆く。「なんでこんな状態になっても祈らないのだ。助けを求めないのだ。神様に求めれば助けてあげられるのに!すべての問題が解決されていくのに!」これは天使たちの間でのミステリーだろう。日本は、控え目であることが美徳と思われているところがある。静かに耐え忍ぶことが強いことだと思われているところがある。しかし、クリスチャンの生活はやせ我慢でできるような甘いものではない。神様が私たちに命じることは、私たちの力ではどうにもできないことばかりだ。聖書に書いてあることはすべて神様からのあふれんばかりの恵みを我々が信仰をもって受け取ることを前提としている。もし私たちが全然神様に頼ろうとしないなら、メッセージを聞くたびに、聖書を読むたびに、いつもフラストレーションがたまり続けることになる。「ああ、私はあれもできないこれもできない失格者だ!」と。イエス様は言われる。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」神様は与えたくて仕方ない。ヤベツの祈りが聞かれたことがどうしてわざわざ歴代誌上4:9-10にポツンと書いてあるのか?大胆に祝福を求めて祈る人のことを神様は喜ばれるということと、あまりにもそう祈る人が少ないということを意味する。本気で求める人がいなさすぎたのだ。
それではどんなふうに求めたら良いか?御言葉に基づいて求める。Ⅰヨハネ5:14-15。御心は私たちの心にあることよりも常に優れている。御心の中に最善がある。御心に適ったことなら絶対にこたえられる。そして、御言葉は神様の御心を表しているので、御言葉に基づいて祈るなら確実にこたえられる。
どんな約束の御言葉があるかいくつか見てみよう。自分の救いについては、ヨハネ3:16。家族の救いについては、使徒16:31。未信者の救いについては、Ⅰテモテ2:4。霊的成長については、エフェソ4:13。聖霊様の賜物については、Ⅰコリント14:1。配偶者については、箴言19:14。癒しについては、イザヤ53:5。経済については、マタイ6:33。これらの約束の御言葉を思いめぐらして信仰を深めよう。どのくらい深めるか?少しも疑わずに求められるくらい深める。ヤコブ1:5。「祈りって聞かれますか?」とよく質問される。聞かれると確信したら聞かれるし、本当に聞かれるのかなと疑っていたら聞かれない。聞かれるに決まっているし、聞かれないとおかしいというスタンスで祈ろう。祈り求めることについて、多くの学びを得られるのはルカ18:1-8。このやもめは「相手を裁いてわたしを守ってください」とひっきりなしに訴えて聞き入れられた。この人のように、熱心に祈ろう。心の中で祈るのではなく、声に出して祈ろう。昼も夜もひっきりなしに祈ろう。祈りの熱量が私たちの氷のような不信仰を溶かして、確信に満ちた信仰に昇華させる。また、忍耐強く祈ろう。イエス様は気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるべくこの話をされた。すぐに聞かれなくても、聞かれるまでいくらでも祈り続けよう。最後に、今すぐ与えられるように求める。イエス様は「神は速やかに裁いてくださる」と言われた。つまり、今すぐにでも聞かれると信じて祈りなさいということ。今すぐにでも聞かれると信じつつ何年でも忍耐強く祈るようにするのだ。

第二に、受け取る。求めっぱなしで、受け取るというこのステップを忘れているので、いつまでたっても求め続けてしまう人がいる。どういうことか。私たちは受け取る時にも、信仰を発揮しなければならないのだ。受け取るには、与えられていることを確認することが必要だ。ヘブライ11:1。もし祈りっぱなしで、その祈りの結果を確認しようとしなければ、いつまで祈っても、受け取れない。そもそも結果を確認しようともしない祈りというのは、信仰がゼロだ、期待はゼロだ。祈りが聞かれると信じている人は、その結果がどうなるかを必ず確認しようとする。祈った通りの変化が起こったかどうか、チェックしよう。

さらには、受け取る上で、既に得られたと信じることが大きな鍵となる。マルコ11:24。「既に得られたと信じなさい」と書いてある。得られたと信じて受け取ったらどうすればよいか?感謝しよう。イエス様は、まだラザロが墓の中で腐っていて臭う状態だったのに、祈りが聞かれることを確信して感謝の祈りをささげた。イエス様が感謝したのは生き返るという現象が起こった後ではなく現象が起こる前のことだ。受け取ったら受け取った者として生きよう。ハンナは子供を求めて神殿で嘆いて祈った。エリの言葉を聞いて確信が与えられた。それからはもう嘆くことはなくなった。子供を与えられた者として生きた。そして、実際に子供は後から与えられた。ハンナが子供を与えられた者として生きるようになったのは、子供を身ごもる出産するという現象が起こった後のことではなく、現象が起こる前のことだ。
既に得られたと信じて受け取る際、特別な体験は何もいらない。イエス様を信じて受け入れる祈りをささげた後、どうすればよいのか。救われたことを感謝して、クリスチャンとして生きればよい。特別な体験があろうがなかろうが関係ない。
「既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」なので、救われたと信じた人がクリスチャンになり、罪の赦しや救いの喜びを体験できる。Ⅰヨハネ5:13。救いとは、救われていることを悟らなければならないもの。聖霊のバプテスマと異言を求めた後、どうすればよいのか。すでに与えられたと信じて異言で祈り始めればよい。特別な体験があろうがなかろうが関係ない。ルカ11:13。求めたのだから、もう与えられたということだ。「既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」と書いてある。異言の力を体験するようになる。癒しを求めた後、どうすればよいのか。すでに癒されたと信じて感謝すればよい。症状があろうがなかろうが、癒されたと信じる。「既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」と書いてある。癒されたと信じていると症状もなくなる。実は癒しははるか昔に起こっている。イザヤ53:5。御言葉と症状、どちらが真理だろうか?御言葉だ。その御言葉を信じる信仰によって、癒しを適用することができる。もう受け取ったものとして生きる。そうすれば、その通りに癒される。

第三に、保持する。保持する上でも御言葉に対する信仰が必要だ。なぜなら、必ずといって良いほど、試みやサタンによる誘惑があるからだ。時々、疑いが頭をもたげてくることがある。救いであれば、一時的に救いの喜びが感じられなくなることがある。異言であれば、「こんなの意味があるのか」に思えてくることがある。配偶者であれば、主が定めた人ではないのではないかと思えてくる。癒しであれば、症状のようなものがわずかながら戻ってくることがある。それは悪魔のゆさぶりだ。悪魔は「実は受け取っていないのではないか」と疑いの心を起こさせて私たちを無力にさせたいのだ。エフェソ6:16。もしその疑いを受け入れてしまうと、実際に与えられたものを失ってしまいかねない。だから、受け取る前の状態が頭をもたげてきたら、私はすでに受け取ったと宣言する。そうやってピシャリとサタンをだまらせる。そうすれば、おさまる。また、保持するためには、他の人に対してもことあるごとに、「私はすでに受け取った」と宣言する。証しをするのだ。「私はイエス様を信じて救われた」「イエス様が私を癒してくださった」「イエス様が賜物を与えてくださった」そう証しする。
また、保持する上で大きな障害となるのは罪だ。求めて良いものをいただいても、罪を犯してばかりいたら、前よりももっと悪い状態になる。ヨハネ5:14。Ⅱペトロ2:20-21。もし、求めたものをいただいたのに、悔い改めていない罪があるのであれば、ただちに告白してその罪を断ち切ろう。
最後に、保持するためには現状維持でなく開発していかねばならない。神様は、私たちに何か良い物を与えるとき、私たちに良き管理者としてそれを有効利用することを願っておられる。Ⅰペトロ4:10-11。もしいただくだけで満足してしまい、それを用いていこうとしなかったら、失われてしまう。タラントンのたとえはそういう内容だ。マタイ25:29。人間の成長には前進か後退かしかなくとどまるということは基本的にできない。しっかりと保持しようとしたら、増し加えることが必要なのだ。救いについては、罪の赦しを受けた人は、次に清められて栄光から栄光へと主に似た者に変えられていく聖化の過程をたどるという形で救いを深めていく。さらには、福音を宣べ伝えて救いが横にも広がるようにする。聖霊の賜物をいただいたら、機会のあるたびに活用していく。異言を語り、病人に手を置き、奇跡を祈り求めるようにする。配偶者が与えられたらその愛の関係を深めていく。財産が与えられたら豊かに献げる。
御言葉に基づいて熱心に求めよう、既に得られたと信じて感謝しよう、保持すべく発展させていこう。

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