イエス様の仲裁を受けられる私たちは幸いです。
罪の赦しの恵みと赦す恵みが与えられています。
ダビデとアブサロムの和解の芝居[サムエル下14章]
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【ノート】
1-3節。ダビデはアブサロムに対して愛憎入り混じる複雑な思いを抱いていた。アブサロムはアムノンのかたきであり、それと同時に自分の愛する息子でもある。新改訳第三版では「王がアブサロムに敵意をいだいている」と訳されている。新共同訳と真逆な内容だ。それだけダビデの心は複雑だった。アブサロムを息子として愛しており、できればすぐにでも迎え入れたいが、アブサロムの犯した罪が邪魔して、どうにもならない状況だった。これはまさに主なる神様が、悔い改めていない罪人をご覧になるときの複雑な心境にもあてはまる。主なる神様は罪人を愛していて御国に受け入れたいが、罪が邪魔していてそのまま受け入れることができない。それはただ、イエス様の仲裁によってのみ、解決される。イエス様は仲裁のために私たちの罪の代価として、身代わりに十字架で血を流して死んでくださった。父なる神様はイエス様を信じて罪の赦しを受けた者を誰でも、ご自分の愛する子供として受け入れる。
ダビデとアブサロムの間では、ヨアブが仲裁を買ってでた。仲裁をするというのは立派なことだ。それはクリスチャンとして積極的にすべきことだ。マタイ5:9には「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と書いてある。仲裁の働きはまさにイエス様が父なる神様と罪人の間に入ってなされたことだからだ。ただひたすら神と人に対する愛から出た仲裁であればすばらしいことだ。あなたの周りに、仲裁を必要としている人はいないか?人につまずいている兄弟姉妹がいたら放っておいてはならない。仲裁を買ってでよう。そうするためには、多くの人々とのつながりを大事にするということが必要だ。教会に来ている人々と連絡先を交換し、何かあったときには間に入って仲裁できるようにしよう。それが教会のあるべき姿だ。Ⅰコリント6:6。教会は裁判の必要のない場所でなければならない。仲裁のできる知恵ある者となろう。神の教会の交わりを守ろう。
でもどうしてヨアブが仲裁を?ヨアブはダビデに対して並々ならぬ忠誠心は持っていたが、ここでは単純な忠誠心から出た行動というより、どちらかという保身に走っているといえる。ヨアブは、アブネル暗殺の件で、ダビデの信頼を損ねていることを知っていた。いまはまだ司令官としての実力によって地位を保っているが、何かを機に失脚しかねない。挽回すべく、ヨアブは将来の王位継承者となりそうな人物に恩を売っておこうというわけだ。ヨアブの目にアブサロムはそう見えた。しかし、実際にはサムエル下12章によるとナタンの預言で明らかになったのは、主が愛しておられるのはソロモンだということだ。ということは、王位継承もソロモンがするのが御心に適いそうだ。ヨアブがそのことを知らなかったわけがないのに、アブサロムにつこうという考えは肉的だ。御言葉ではなく、見た目で判断している。これは完全に判断ミスであり、ヨアブはこの代償を払うことになる。しかも、二回も払うことになり、二回目は命を失っている。人は見た目に騙され、判断を誤りやすい。預言者サムエルすら、ベツレヘムのエッサイで誰に油を注ぐのか、見た目で判断して判断を誤った。見た目にだまされないようにしよう。その代償は高くつく。私たちは、御言葉で判断する者になろう。主は何と言っておられるか、主は何と言っておられるか、それだけを判断基準としよう。
4-11節。ヨアブは知恵のある女に芝居を打たせている。これはナタンのやり方をまねているのだろう。第三者のことのように見せかけて判断を下させ、実はダビデのことだという種明かしだ。
親族たちが血の復讐をすることに熱心になり、兄弟殺しをした者の命を断とうとした。どうしてそうしようとしたのか?義憤からか?いやそう見せかけて跡継ぎがいなくなるようにして、嗣業の地を奪い取るためだ。正義を装って、実は弱い者から奪い取ろうとする悪ものどもだということ。正義は、本当に正義でなければ、正義の仮面をつけたとんでもない偽善になってしまう。イエス様がお叱りになった偽善者たちはこういう者どもだった。私たちは、義を強調するとき、果たしてそれは純粋なものだろうか。「この御言葉に従わなければならない」と語調を強めるとき、そこにあるのは純粋な正義から来るものなのか、それとも密かに相手に対してマウントをとりたい、相手を屈服させたい、相手を支配したい、相手を束縛したいといった邪な願望が混じっていないだろうか。私たちの正義がイエス様のように純粋なものとなるように。
8節で、ダビデはすぐに女に応じて「命令を出そう」と応じる。しかし、これでははっきりとした言質をとれない。まだ種明かしをするには早い。そこで女はさらに二度ダビデ王にその真意を確認するための言葉をかけ、最終的に「主は生きておられる。お前の息子の髪の毛一本たりとも地に落ちることはない」という誓いの言葉を引き出すことができた。これがそのままアブサロムにも適用されることになる。
12-17節。女の話の要点は何か。まず、ダビデが公平な扱いをしないことは責めにあたる。13節で、「追放された方を連れ戻そうとなさいません」とあるが、これはやもめの息子とアブサロムの処遇の違いに対する抗議だ。次に、14節で「わたしたちは皆、死ぬべきもの」として人生の短さ、それゆえの貴さを説く。短い人生では毎日毎瞬間が大事だ。追放されたままにしたら、もう一度会うことなく、どちらかが死んでしまうかもしれない。それは神の御心ではない。神の御心は失われた者が回復することだ。最後に、王には善と悪を聞き分ける賢さがあるから、やもめの息子に適切な命令を出したように、アブサロムの追放を解く命令も出してくれるだろうという期待だ。
18-23節。王は一介のやもめの言葉を忍耐強く聞いた。そして、ヨアブの指図のもとで行われたことだと見破った。その上で、態度を柔らかくして、アブサロムを連れ戻すように命令を出した。人の話に真剣に耳を傾けることができる柔軟性がある。これがダビデの優れた点だ。ヤコブ1:19に「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と書いてある。
女は、ダビデ王が誰かに対して恵みの言葉をかけたのをそのままアブサロムに適用した。それはうまくいった。ダビデは態度を軟化して、願い通りにした。それであれば、公平無私であられ、善と悪の区別を定めておられる主なる神様は、なおさらそうしてくださる。私たちは女のしたやり方を祈りで応用できる。聖書で、誰かに対して何かの約束の御言葉を語られるのを読んだらどうすればよいか?私たちはそれをとらえて、そのまま自分に適用されるように信じて祈ればよい。あるいは、自分が執り成している兄弟姉妹や未信者に適用されるように祈ればよい。主はまさに善悪を分ける方であり、御自分の御言葉に対して真実な方であり、公平無私な方なので、その適用を認めてくださる。
24節。アブサロムを連れ戻すことは即和解とならなかった。ダビデの赦しの不徹底ぶりを見ることができる。ダビデ自身、殺人と姦淫の大罪を赦されたのではないか。それであれば、アブサロムを同じように赦してやるべきだ。イエス様がなさった1万タラントン借金を帳消しにされた男が100デナリオンの借金を赦さなかったたとえ話に似ている。赦さなかった男はどうなるか?ひどい目に遭う。
ダビデも、アブサロムを心から赦さなかったことで、ひどい目に遭うことになる。赦しは、主からの大きな恵みであり、特権だ。赦しによって、私たちは解放されることになる。私たちは、ただ主の恵みで赦せる。
25-27節。アブサロムはプロフィールだ。美しさは、そのままに民の人気につながる。立派な子供たちがいるということは、王位継承の心配もいない。王位を得る者として申し分ないということがわかる。
28-33節。アブサロムはダビデ王との和解を望むが、ヨアブが応じない。ヨアブは、最初こそダビデとアブサロムの仲裁を買って出たが、王の心が予想外に頑なな様子を見て、あてがはずれ、これ以上は関与しない方が良いと見たようだ。ところが、アブサロムはどうして王に会いたいので、ヨアブの畑に火をつけるという暴力的な方法に走る。暴力に頼ってうまくいった経験のある者は、二度目、三度目に簡単に走るようになる。アムノンを殺害するという暴挙に出たことのあるアブサロムにとって、畑に火を放つということは何の抵抗もないことだった。罪は、次の罪を容易にしてしまう。真心の悔い改めと、イエス様の血潮による赦しと清めへの信仰によって、罪を容易に犯せない、強い抵抗感を持つ者となろう。
ヨアブは、仕方なく王に報告した。しかし、ヨアブはこの時、畑を燃やされてアブサロムを恨んだ。ヨアブという男は個人的な恨みを晴らすまでは、決しておさまらない人物だ。それがヨアブの滅びを招くことになる。イエス様による赦しの恵みと赦す恵みにあずかる者は幸いだ。
最終的に、ダビデはアブサロムに口づけした。形だけでも和解が成立した。外向きには口づけの挨拶をして、一件落着。しかし、それはただの芝居だった。当事者の中ではまだおさまらないものがあった。ダビデは仕方なく応じたが心から赦していないし、アブサロムも心から赦されていないことを感じていた。14章はテコアの女の芝居に始まっているが、ダビデとアブサロムの間の和解の芝居で終わっている。この亀裂は悲劇へとつながっていく。二人の間には、私利私欲にまみれたヨアブの仲裁ではなくて、恵みに満ちたイエス様の仲裁が必要だった。イエス様による赦しの恵みと赦す恵みにあずかる者は幸いだ。
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