100%の従順以外は不従順です。
反逆は占いの罪、高慢は偶像崇拝[サムエル上15章]
【ノート】
サウルは13章で主に背いて、預言者サムエルから「王権は続かない」と宣告されていた。その後もしばらく王としてイスラエルを守るための戦いに従事していた。イスラエルの民が期待した通り、あらゆる敵と戦って勝っていた。民としては頼もしい王として映っていただろう。しかし、この15章で再度サウルの致命的な問題点が露呈する。主は到底サウルに及第点を与えることはできなかった。
1節。ここで、預言者サムエルを通して、主からサウル王に対する命令がなされている。サウルはイスラエルの王ではあったが、サウルの上には常にサウルを王に立てた主がおられて、その御言葉に聞き従わなければならない。サウルを立てたのは、サムエルでも、イスラエルの長老たちでも、兵士たちでもなく、あくまで主である。サウルはただ主に対してのみ、責任を負っていた。
ローマの百人隊長は、イエス様にしもべを癒していただくとき、「私も権威のもとにある者ですが」と言った。私たちもそうだ。どれだけ偉くなったとしても、私たちは権威のもとにある者だ。私の上には常に主がおられる。その主に従っている限りにおいて、私はほかの人に対して権威を持つが、主に従わなくなれば、その権威を失ってしまう。あなたは御言葉に聞き従っているか?御言葉にどのくらい聞き従っているか?0%?50%?80%?100%?人それぞれ、度合は違うだろう。それでは、主は、私たちにどのくらい聞き従うことを要求しておられるか?この章を通して、私たちは、主の御言葉にどのくらい従わなければならないのかということを知ることができる。
2-3節。ここで命じられているのはアマレクという民族を滅ぼし尽くすことだ。新改訳聖書では、聖絶という言葉が使われている。神を知らない人がこれを読むと「残酷だ。ひどい」と思うだろう。それはごく自然な反応だ。もしこれが単に人間から出たことであれば、民族虐殺であり、あってはならないことだ。しかし、これは神から出たことだ。神は人間を創造し、命をお与えになった方だ。すべての人は神によって生かされている。命をお与えになる神は命を奪うこともある。命と死を左右するのは神固有の権威だ。すべての人はやがて神の御前に立って裁かれ、永遠の命か永遠の死かに分けられることになる。人を裁くのは神固有の権威だ。神は時に、御自分の義を表したり、御自分の民を守ったりする目的で、その裁きを最後の審判の時まで先送りせずに、裁きを行うことがある。それがノアの洪水であり、ソドムとゴモラであり、カナンの地の征服であり、バビロン捕囚だ。それらの裁きがなされたのは、罪があまりにも蔓延し、罪人をそれ以上裁かずに放っておくことができない、放っておけば、神の民や他の人々にまで害を及ぼす状況だったからだ。このときのアマレク人を滅ぼし尽くす命令も同じ理由からだ。私たちは神の神たる主権を受け入れよう。裁きを下す神を含めて信じてこそ、神を信じたことになる。
サウルは今までもずっと敵と戦っていたが、今まではイスラエルに攻めてくる敵を迎え撃つ自衛のための戦いだった。どう戦いを進めるかはある程度サウルの裁量にまかされていた。今回は違う。アマレクがイスラエルに攻めてきたわけではない。主がアマレクを撃つように命じられたので、イスラエルの方がアマレクに攻撃をしかける戦いだ。この御言葉を受けたとき、サウルは、いつもの戦いとは違う、自分の思う通りにすれば良いというものではない、主の御言葉に忠実に従わなければならないということを良く心にとめるべきだった。
アマレク人とは、私たちにとって何を表しているのか?それは肉だ。肉とは私たちの古い性質、罪を犯す性質のことだ。肉は聖霊様による思いに反する。肉はどうする必要があるのか?私たちは肉と共存しようとしてはならない。肉を放置してはならない。そんなことをしたらはびこる。肉を良いものに変えようとしてはならない。そんなことをしても無駄だ。私たちは肉を十字架につけなければならない。滅ぼし尽くさなければならない。ガラテヤ5:24。
4節。ペリシテ人と戦うときは全然集まらなかったことを考えると20万人は多い。主は御言葉をお与えになるとき、それを成し遂げるためのリソースを十分に提供してくださる。
5-6節。カイン人というのは、ミディアンにいたモーセの奥さんの一族。イスラエルがカナンの地に移住すると同時に移り住んでいた。
ここでサウルはイスラエルの歴史をしっかりと把握して、行動していることがわかる。今回の戦いは何百年も前の出エジプトの時にイスラエルがアマレク人に攻撃をされたことが背景にあるが、サウルはその意義、その歴史的背景をよくわかっている。そして出エジプトしたときに親切にしてくれたカイン人を区別して巻き添えにならないように配慮している。この世界の歴史、教会の歴史、自分の国の歴史について、理解していると物事の意義や背景がよくわかるようになる。創造から新天新地に至るまで、理解しているものとなろう。
ここまでは良かった。7-9節。サウルは主が命じられたことの大部分は果たした。人についてはただ王のアガグだけを生かし、ほかの人々は滅ぼした。家畜については最上のものだけを生かし、ほかのものは滅ぼした。割合でいえば、90%以上命令を果たしたと言える。それでは、主の答えはどうか?10-11節。主ははっきりと「私に背を向け、私の命令を果たさない」と言っておられる。たとえ90%命令を果たしても、10%背いているなら、命令違反だ。しかもサウルが主の命令に従わなかったのは、人間も家畜も最上のものについてだ。私たちはどうか?「私はほとんどの命令に従います。でも、この人間関係だけは、あなたの目に悪とされることはわかっていますが、大目に見てください。この悪習慣だけは続けさせてください。この献金、この献身だけは求めないでください。」そこにこそ、私たちの問題がある。私たちの目に価値あるもの、最も手放したくないと思っているものについてこそ、主の命令に従わなければならない。そうでなければ、結局はそれが偶像になってしまっているのだ。
主は、サウルを王に立てたことを「悔やむ」と書いてある。神は未来をすべて知っておられ、完全に正しい決断をなさるお方なので、本来何が起こっても過去に御自分がなさったことを悔やむことはないお方だ。実際、この悔やむの原語のヘブライ語ではナーハムという言葉が使われているが、この同じ章の29節では、主について、気が変わらないという意味でナーハムの否定が2回も登場する。主は気が変わらない。ここで悔やむと書いてあるのは、永遠で完全な神の思いを表す適切な言葉が存在しないからだ。あえて、悔やむと書いてあるのは、それだけ深く心を痛められたことを指している。何が起こるか知っていても、父なる神様は心を痛められる。イエス様は涙を流されるし、聖霊様は悲しまれる。サムエルは主の御心を心として、主と同じように深く心を痛めた。夜通し、主に叫び祈った。私たちはサムエルのように主の御心に敏感になろう。主の御心を心としよう。そうすれば、あえて主の御心を深く痛めるようなことができなくなるだろう。
12節。戦勝碑は勝利を与えてくださった主をたたえるためではなく、自分をたたえるためだった。高慢の極みだ。サムエルがエベンエゼルを記念にしたのと全然違う。私たちは自分を賛美するための戦勝碑など何一つ立てないように気をつけよう。自分の発する言葉や書く文章が自分をたたえるためということにならないようにしよう。すべての栄光は主にあれ!ハレルヤ!戦勝碑、トロフィー、立派な肩書、輝かしい業績などをアピールしなくても、主の目にあなたは価高く貴い。
13-21節。サウルは自分が主の命令を果たしたと思い込んでいた。とぼけていたのではない。サウルは、主がそこまで徹底的に滅ぼし尽くすことを求めておられるとは思っていなかった。そして、サウルには言い訳があった。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。」兵士がやった。私ではない。しかもその目的は主への供え物にするためだ。滅ぼし尽くすことも、戦利品として主に生け贄にささげることも大きな違いはないではないか。主も、それを理解してくれるだろう。そうやって自分が背いたことを認めない。勝手に「これくらいは問題ないんじゃないか?主は大目に見てくださるんじゃないか?主はこだわっていないんじゃないか?」というのは大間違いだ。
勝手に御言葉をうすめてはならない。主が何かを命じられるとき、主はそれを徹底的に守ることを求めておられる。
過ちを悟ろうとしないサウルに対してサムエルが指摘するのは、サウルがイスラエルの諸部族の頭であるという事実だ。つまり、最も大きな権威と責任が与えられているということ。サウルは兵士を恐れて従うのではなく、与えられている権威を兵士に対して用いて責任を果たし、主の命令に聞き従わなければならなかった。サウルは人を恐れるあまり、主に背いてしまった。しかもサムエルに指摘されても全然背いたことを認めない。主への畏れがない。主を畏れないと人を恐れるようになる。もし主を畏れるなら人を恐れなくなる。
サムエルの宣告から真に恐るべきは主であることがわかる。22-23節。主に対して、聞き従う代わりに何かをするということはできない。生け贄?献金?神には必要のないものだ。地獄の沙汰も金次第というのは嘘だ。神をお金で買収することは不可能だ。主が聞き従うように求めるとき、私たちは聞き従う以外に良い応答をする方法はない。
サウルが犯した罪はどの程度のものだったか?占いは悪魔と契約を結ぶ罪であり、偶像崇拝は神を捨て去ることだ。サウルは「私は主の命令を果たしました!」と思っていたが、とんでもない罪を犯していたのだ。私たちは罪とは何か理解しているか?罪は道徳を守らないことではなく、神に背くことだ。ああ、私たちはご命令に対して勘違いの従順、自己満足の従順、中途半端な従順、偽りの従順ではなく、主がお求めになることをすべて果たす徹底的な従順をしよう。
24-31節。御言葉の大原則は、悔い改めれば、罪を赦していただくことができるということだ。しかし、ここでは、サウルが罪を告白しても、赦しが与えられていないように見える。サウルは悔い改めたのか?悔い改めとは、大きく二つ、罪を認めて告白することと思いを変えて神に方向転換することから構成される。サウルの罪は、神よりも人間を恐れたことにある。それについて、サウルは率直に告白している。それでは、思いを変えて神に方向転換したか?全くしていない。サウルはサムエルと一緒に帰りたいと願った動機として、30節で、「民の長老の手前、イスラエルの手前、どか私を立てて、私と一緒に帰ってください」と言っている。この期に及んで、神ではなく人間を恐れている。サウルは主を礼拝したが、それは何のための礼拝か?人に見せるためのパフォーマンスとしての礼拝ではないか?悔い改めずに、見せかけの礼拝をして主に受け入れられるだろうか?
27節でサウルがサムエルの上着の裾をつかむと裾は裂けた。この裂けるという言葉は原語のヘブライ語では28節の「イスラエルの王国をあなたから取り上げ」の「取り上げ」と同じカーラーという言葉。預言者の上着が裂けたのは、イスラエルが取り上げられることを預言的に象徴することだった。
32-35節。サムエルはアガグを切り殺した。その後はサウルを支えることをやめて、主の御心を心としてサウルのことを嘆いた。ほとんどのイスラエル人にとって、サウルは依然として頼もしい王だった。サムエルのほかに誰も気にする人はおらず、異変に気付かなかった。しかし、私たちは預言者サムエルと同じ心を持とう。クリスチャンであるはずの人が神から求められていることに背くとき、塩気を失ってしまっているとき、平気ではいられない。ほかの誰も気にも留めなかったとしても心を痛める者となろう。それがクリスチャンとして正常な感覚だ。
サウルはアマレク人を滅ぼし尽くそうとしなかった。その結果はサウルに返ってくる。サウルは最後、アマレク人にとどめをさされて死ぬことになる。アマレク人は肉を象徴する。もし私たちが肉を十字架につけて滅ぼさないなら、肉が私たちを滅ぼすことになる。主を畏れ、主のご命令に全面的に、徹底的に従う者となろう。アーメン。
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