自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい[ルカ9:18-27]

ルカによる福音書
スポンサーリンク

人生が自分のためではないというのは本当にすばらしいことです。
私だけのためのたった一つの十字架があります。
さあ、それを背負ってイエス様についていきましょう!

自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい[ルカ9:18-27]

自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい[ルカ9:18-27]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
18節。イエス様は祈りの中で、そろそろ良い頃合いであるということを悟った。弟子たちの準備ができているか確認する頃合いだ。
イエス様はそれまで十二人の弟子を御自分のそばに置いて訓練した。イエス様が弟子たちに求めておられた最大のことは、イエス様の教えに精通することでも、病人の癒しや悪霊の追い出しのプロフェッショナルになることでもなかった。イエス様が弟子たちに求めておられたのは、御自分が何者であるかを発見することだった。イエス様は私たちに対して御自分が何者なのかを発見することを求めておられる。それは、誰かから与えられた答えであってはならない。模範解答がこうだと言われたからこうだというのではいけない。だから、イエス様もあえて御自分が何者か正解を語らない。すべての人にとってイエス様を知ることはごく個人的なことであって、牧師であろうと親であろうと誰も代わりになることはできない。たとえ今まで何十億という人がイエス様が何者であるか発見してきたとしても、あなたは全くの新発見であるかのように発見しなければならないのだ。

まずイエス様は、群衆が何と言っているか弟子たちに聞いた。イエス様についていろいろな人がいろいろな解釈をしているということを再確認させるためだ。19節。ここでいう群衆というのは、イエス様が湖の反対側に行かれたときには戻ってくるまで待ち続けた人々であり、イエス様一向が休暇のためにベトサイダに行ったときには人里離れたところなのでついてきた人々だ。この人々は十二弟子ほどではないにしても、イエス様の話を聞き、奇跡を見る機会に恵まれていた。群衆の意見はわかれていたが、共通しているのは、イエス様が神から遣わされて人であり、昔存在した誰かとイエス様を重ね合わせているということだ。つまり、群衆のイエス様評は好意的なものだったが、イエス様を昔の人物の焼き増しのようなものとしてとらえていたのだ。群衆は別の人物の名前をあげるばかりで、イエス様を発見することができていなかった。

次にイエス様は弟子たちに聞く。ほかの人々が何と言っているかはそこまで重要ではない。今でもイエス様が何者かについて、教会の外から愚にもつかないことをいろいろ言う人たちは山ほどいる。弟子たちはそういう意見に左右されてはならない。弟子たちは群衆よりもずっとイエス様と過ごす時間が長かったので、イエス様のことをより正確に知っている。イエス様と共に嵐の湖を通り、イエス様がレギオンを追い出すのを見て、イエス様が裂いたパンと魚を5千人に配ることを体験した。同じように、聖霊様に導かれて、日々祈りと御言葉の生活をし、イエス様と共に歩むクリスチャンは、教会の外の評論家が何を言おうと、「ほかの人の意見は関係ない。私はイエス様を知っている」と告白する。20節。弟子たちを代表してペトロが正解を答えた。イエス様のことを旧約聖書で預言されている特別な使命を帯びて神から遣わされる油注がれた者だと答えた。王であり祭司であり預言者であるその人物だと答えた。マタイによる福音書ではこれは天の父なる神様がペトロに啓示したことだとイエス様が言われている。私たちがイエス様がメシアであると確信するとき、そこには天の父なる神様による啓示があるのだ。

まず、イエス様は弟子たちの証しを制限した。21節。イエス様がメシアであると語ることは過激な人々にとっては暴力革命を意味し、反対する人々にとっては冒瀆を意味する。それは刺激の強すぎる言葉なのだ。しかも、正しい答えをした弟子たちもイエス様がメシアであるということの意味をよくわかっていなかった。自由に証しをして良いようになるのは、聖霊降臨以後だ。聖霊様がイエス様がメシアであるということの正しい意味を教えてくれる。罪について、義について、裁きについて世の誤りを明らかにし、メシアの栄光が十字架にあることを教えてくれる。
そこで、イエス様は御自分がどういうメシアであるのかをあらかじめ説明される。22節。イエス様の受難と死だ。つまり福音だ。イエス様はここで十字架の死と復活の福音を初めて語られた。

それでは今までは宣教でどんな福音を語ってこられたのか?イエス様の神の国の福音だ。イエス様の王国がどんなに豊かなのかを説かれたのだ。神の永遠のご計画の一部だけが明かされていた。今でこそ、十字架の死と復活の福音はストレートに伝道者の口から開口一番に語られる内容だが、実は、最初は十字架の死と復活は一部の弟子たちにしか明かされなかった奥義だったのだ。どうしてメシアがユダヤ人の指導者たちに排斥されて、最悪の囚人のように十字架にかけられてみじめな死を遂げるのか?メシアが三日目に復活するとはどういうことか?そんなことは霊的過ぎて実際にそのことが起こり、聖霊様がそのことを確信させてくださない限りわかるわけがない。弟子たちはイエス様から打ち明けられても理解しなかった。しかし、イエス様は弟子たちの記憶に残り、後で聖霊様によって思い出せるようにと、このあとも十字架の死と復活の福音を三度に渡って語られる。聖書のメッセージを聞いても毎回ほとんど意味がわからないという方は、いらっしゃるか?飽きずに聞き続けてほしい。今はわからなくても、後で学んだことが思い出され、その意味が鮮明にわかるようになる。その学びは一つも無駄にはならない。

さて、イエス様がどんなメシアであるかは、私たちがどんな弟子になるべきかを決める。イエス様は正しいメシア像に沿う正しい弟子像を描かれた。これは、ほかならぬ私たちの王が命じておられることだ。23節。イエス様は「わたしについて来たい者は」と言われた。この命令に従わなければ、イエス様についていく者ではないということ。私たちはイエス様から、「本当に私についていく覚悟ができているか?」と問われているのだ。
弟子たちは、今までもイエス様にどこまでもついていった。しかし、弟子たちはイエス様に従いつつも、今まではイエス様の中に自分の夢や出世や野望の実現を見ていたところがある。イエス様をどことなく自分の都合の良い存在にしてしまっていたのだ。それは結局のところイエス様を偶像化していた。ところが、イエス様は今や御自分に従うということは、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負うことだと言われた。「そんなことは聞いていない!」と内心思ったかもしれない。イエス様は「私の道は十字架の死と復活に続いている。私について行く者もやはり十字架を覚悟しなければならない。それでも、私に抱いてきた幻想を捨てて、私について来る覚悟はあるか?」と問いただしている。
その覚悟を決めるために、イエス様が命じられた内容を理解しよう。覚悟がいるのは、二つのことだ。第一に、自分を捨てることだ。自分を捨てるとはどういうことだろう?自己否定だ。ペトロはイエス様のことを三度「知らない」と告白した。そのように、自分のことをいつも「知らない」とするのが自分を捨てること。それは実は全然つらいことではなく、非常に楽になることであり、神の平和を体験する近道でもある。怒り、ねたみ、高ぶり、貪欲、怠惰などの悪いものは、すべて「自分」ということに根差している。自分を知らない人はそのような悪感情に悩まされることはない。つらさや苦しさや痛みを感じるのも、すべて「自分」ということに根差している。自分を捨てている人は苦痛にも悩まされにくい。無敵なのだ。いわゆる良い人は「自分」の中にある「良い人タンク」のメーターがゼロになるまではがんばる。しかし、「自分」の良い人はすぐに限界に達してしまい、疲れ切ってしまい、苦痛に襲われる。「自分」を捨てている人は、良い人になれない自分ではなく、まことの義人であられるイエス様の恵みで御言葉を実践するので、疲れにくい。自分を捨てることは、解放であり、自由であり、神のリソースに頼ることだということを覚えよう。

第二に、日々、自分の十字架を背負うことだ。自分の十字架を背負うとはどういうことか?神からの召命に応えて献身することだ。それは、人生のある一つの場面で一度だけ行うことではなく、「日々」、生活の中でし続けることだ。イエス様のメシアとしての働きの結末には十字架があったが、その十字架に至るまでも、ずっと神と人とのための献身の日々だった。そして、「自分の十字架」とある。すばらしいことに、私たちには神様が私だけのためにデザインしてくださったオンリーワンのオーダーメイド十字架がある。

人それぞれ与えられている賜物も召命も違うので、二つとない私だけの十字架を背負うことができる。では具体的に十字架を背負うということは何をすることなのか?常に二つのことを考えよう。直接的、間接的、問わず様々な方法で神と人を愛すること、大宣教命令の成就に用いられることだ。その結果、誰かが神の愛を感じるため、永遠の命を受けるため、神があなたを用いたいと願っておられるのだ。なんとすばらしいことだろう。それは時に、イエス様が十字架で経験したように、人々から最大級の苦しみを受けることをも覚悟しなければならないし、イエス様が命を捨てたように、すべてを捨てることを覚悟しなければならない。そこまでの犠牲を厭わないほどの献身が要求されているということは本当にすばらしいことだ。自分が自分のためだったら人生は空しい。しかし、人生は自分のためではない!生きるということが、主にあって自分をささげ尽くし、与え尽くすためのものだというのは幸いだ。

だから、十字架を負うときは、それを人々にアピールすることはやめよう。主とあなたの2人だけの秘密にしよう。アピールするなら、それはたちまち俗っぽいもの安っぽいものとなり、神聖さを失ってしまうだろう。また、十字架を負うときは不平を言わずに喜んでそうしよう。十字架を背負うことは、主と同じ道をたどるという光栄による喜びをもたらす

24-25節。さて、十字架がもたらすものは死だ。あえて死に向かって進むというのは、生き物の命についての自然の摂理に反するように思われる。ところが、自然の摂理を超える超自然の摂理によってくつがえされる。ここでは二種類の命が扱われている。自然の肉体の命とイエス様との関係にある永遠の命だ。そこにははっきりと優劣があり、肉体的な命よりもイエス様との関係にある永遠の命の方がずっとまさっている。それは永遠だからだ。つまり、自分の肉体的な命を救おうとして十字架を拒んでイエス様に背を向けるなら、イエス様と何の関わりもない者となり、永遠の命を失うということ。しかし、イエス様との関係のために肉体的な命を失うほどの確固たる信仰者には、永遠の命が保証されているということ。すべてのことは命あってこそのことだ。肉体的な命すら、全世界よりも貴い。ましてや、私たちがイエス様との関係の中で得るのは、尽きることのない永遠の命だ。当然、イエス様との関係にある永遠の命は全世界よりもまさるものだ。悪魔が全世界と引き換えに取引しようとしたとしても、絶対に応じてはならない。イエス様との関係にある永遠の命は肉体の命にまさり、全世界にまさる。つまり、すべてにまさる!アーメン。

イエス様との関係を何よりも大事にする人が、再臨を備えるにあたってすべきことは何か。26節。主と主の御言葉を恥じないこと。これが十字架を背負うということの第一歩だろう。生活の現場で、自分がクリスチャンであることをオープンにしよう。さらに、ふさわしい時に、覚えている御言葉を語ってみよう。励ましの御言葉をかけてみよう。信仰なしには励ましということはできない。せいぜい気休めや同情の言葉を繰り返すくらいのものだ。だから、世の中の人は励ましを求めていても、自分も周りの人々も信仰がないので、得られない。私たちは信仰によって人々に御言葉を語ろう。「すべてが可能である。」「主がお受けになった傷によって、私たちは癒された。」「走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」主は再臨のとき、私たちを誇らしげに見てくださるだろう。

27節。誰のことか?使徒ヨハネのことだ。パトモス島で神の国が力強く訪れるのを幻の中でみた。しかし、イエス様は誰が見るとも、どういう形で見るともおっしゃっていない。だから、弟子たちは全員イエス様のこの御言葉を聞いて、「もしかしたら自分が生きている間に主が再臨されるかもしれない」と期待感を持ったことだろう。それが主の狙いだ。私たちも期待しよう。「自分が生きている間に主が再臨されるかもしれない」と。悪い僕は遅いと思うが、良い僕はいつも目を覚まして備えている。主の再臨を自分の身に起こり得る生き生きとした希望としよう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました