恵みによる救いと成長

福音&主題メッセージ
スポンサーリンク

イエス様を通しての恵みを知ることが、神様を知る最初の一歩です。

恵みによる救いと成長

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
神様は恵みによって人を罪から救われる。すべての罪が赦され、天国に行けるようになる。エフェソ2:8-9。恵みとはいったい何なのか?①それを受け取る資格がないにもかかわらず、②神様の一方的な愛のご好意により与えられ、③自分では決して造り出せないもののことだ。
1.恵みはそれを受け取る資格がないにもかかわらず与えられるもの。つまり、頑張らなくても与えられる。あなたが正しい行いをしなくても恵みは与えられる。奉仕活動をしなくても恵みは与えられるし、40日断食をしなくても恵みは与えられる。また、人からほめられるすばらしい才能がなくても恵みは与えられる。テストで100点をとらなくても、名門大学の出身でなくても恵みは与えられる。あなたが美人コンテストで優勝できなくても、フォロワーが何万人もいなくても恵みは与えられる。さらに、何も持っていなくても恵みは与えあれる。年収が高くなくても、貯金がたくさんなくても、マイホームマイカーを持っていなくても、配偶者がいなくても、恵みは与えられる。恵みには何の差別もない。あなたが何歳だろうが、何人だろうが、肌の色が何色だろうが、男性だろうが女性だろうが恵みは与えられる。あなたが逆に大きな罪を犯したことがあっても恵みは与えられる。あなたが人から馬鹿にされていたり、嫌われたり、無視されていたりしていても恵みは与えられる。病気であっても、死に瀕していても恵みは与えられる。
エフェソ2:8-9はパウロ書簡だが、イエス様のことを考えれば恵みによる救いがよくわかる。イエス様がこの世に来てくださったのは、誰かが頑張ったからとか、正しい人がいたからではない。誰も正しい人がいなかったにもかかわらず、イエス様は来てくださった。イエス様はありとあらゆる病気を癒し、悪霊を追い出した。イエス様は無料でそれをしてくださった。それでは、イエス様が癒した病人たちはみんな罪のない正しい人々だったのか?そうではない。それぞれいろいろな問題を抱えていたにもかかわらずイエス様は癒してくださった。イエス様は癒すにあたって交換条件を持ちかけただろうか?何も持ちかけなかった。弟子たちに対しても町々に宣教に遣わすにあたって、ただで受けたのだからただで与えなさいと言われた。全部ただなのだ。イエス様は救われた人々として、悔い改めた徴税人、売春婦、強盗をあげられた。彼らはすばらしいことをしたから救われたのか?ひどいことをたくさんしたにもかかわらず、良いことを全然しなかったにもかかわらず救われたのだ。特にイエス様と共に十字架につけられた強盗は、救われた後、聖書研究をしたわけでもない、礼拝に出席したわけでもない、献金をしたわけでもない、奉仕をしたわけでもない、たくさんの人を伝道したわけでもない。にもかかわらず、パラダイスを約束された。イエス様はペトロが一度もイエス様を否定しないからペトロを愛されて、ペトロの足を洗ったのか?そうではない、ペトロがイエス様を否定することを知っていたにもかかわらず、恵みによりペトロの足を洗った。そして、私たちについても、クリスチャンになってからもいろいろな過ちを犯すということを知っていながら、私たちをお選びになった。イエス様は恵みに満ちた方だ。イエス様による救いは徹頭徹尾受ける資格がこれっぽっちもない者にすら与えられる。私にも与えられる。

2.恵みは神様の一方的な愛のご好意により与えられるもの。あなたは神様からありのままに愛されているということ。あなたが良いときも悪いときも、成功したときも失敗したときも、熱心に活動していても何もしていなくても、あなたは神様から愛されている。
神様の愛は一方的だ。あなたが神様を知らなかったときも、むしろ、神様を無視したり、反逆したりしていたときも、神様はあなたを愛しておられた。だから、神様の愛を勝ち取るために何かをするということは必要ない。神様は天地万物を創造されたお方だ。必要なものは何もない。すべてを持っておられる。神様はただ、あなたが恵みを感謝して受け取って、御自分と交わりを持つようになることを望んでおられる。神様が望んでおられるのはあなたとの愛の交わりだ。あなたとの交わりが、神様にとってこの世のどんな宝よりも貴いのだ。
恵みを受けると、それに続いて平和が与えられる。パウロ書簡には、あちこちに主イエス・キリストの恵みと平和があなたがたにあるように、と書いてある。なぜ、恵みと平和という順番なのか?恵みによって罪の赦しを体験した人がそれに続いて神様との関係において平和を体験するからだ。恵みを受ける前は、神様というと、怒って自分の罪を一つ残らず指摘して責め立てて、永遠の苦しみの地獄に突き落とす恐ろしいお方というイメージしかない。それで、罪人の心には平安がない。みんな薄々、自分が裁かれなければならないということを知っているのだ。罪悪感とは、地獄を予感する感情だ。しかし、恵みを受けた人は、もう神様から裁かれてしまうのではないかと怖がらない。もう罪が赦されているから、むしろ神様からありのままを愛されて、受け入れられているから。いつも、どんなときでも変わらずに愛して、受け入れてくださる存在がずっと共にいれば、状況や環境に左右されない平安が与えられる。これが人知を超える神の平和だ。
イエス様がアッバ父よと言われたように、愛に満ちたお父さんとして、神様が大好きになる。愛に満ちたお父さんがいたら、子供はどういうふうに接するだろうか?お父さんの胸に飛び込む。お父さんにいろいろなことをお話する。子供は失敗してもお父さんが変わらずに愛してくれることを知っているので、思いっきり何でも挑戦する。お父さんが厳しく戒めるとき、子供はお父さんを信頼していて、お父さんが自分に厳しくしているのだと知っているので、素直に聞き従う。子供はお父さんのことを信頼しているので、お父さんの腕の中でぐっすり眠ることができる。子供はお父さんを信頼しているので、自分ができないことでもお父さんが何でも解決してくれることを知っているので、何があってもあわてない。そして、たっぷり愛を注がれた子供は健全に成長することができる。これが天のお父様とクリスチャンの間の恵みによる関係でもある。あなたはありのままに愛されている。

3.恵みは自分では決して造り出せないもの。救いが恵みだということは、人間が自力で罪から救われることは不可能だということだ。もし私たちがイエス・キリストによる恵みなしで、罪から救われようとするなら、一生涯、自力で、罪を一つも犯さないように生きなければならない。罪が一つでもあったら天国に行けるか?行けない。律法書を読むと、一度でも神社参拝をしたらアウト。神でないものを拝んだ罪。一度でも嘘をついたらアウト。偽証罪。一度でも隣人の物を欲しがったらアウト。貪欲の罪。山上の説教を読むとどれだけ厳密に正しく生きなければならないかがわかる。一度でも心の中で兄弟に腹を立てたら、アウト、殺人罪。一度でもみだらな目で他人の妻をみたらアウト。姦淫の罪。つまり、行動や言葉だけでなく、心でも罪を犯さず、100%正しく生きなければならない。実際少しでもやってみたら、不可能だとわかる。ユダヤ人たちは旧約聖書の律法を徹底的に守ろうとしたが、駄目だった。使徒言行録では律法を守って救われようとすることを「負いきれない軛」と表現している。だから、恵みによる救いだけが唯一の救いの方法なのだ。
恵みを受け取る上で邪魔するのはプライドだ。神に頼るのをかっこわるい、何でも自分でやらねばならないというプライドだ。でも、生か死かという状況で、そんなに意地を張ってはいけない。人は一方的に救っていただかなければ救われないのだから、観念しよう。太平洋の真ん中で溺れそうになっている人は、救助船に救ってもらわないといけない。陸地まで泳ごうとすれば無謀すぎる。どれだけかっこわるかろうが、無力に思えようが、助けを求めなければならない。罪の問題はそれよりももっと深刻だ。自分の力では救われようがないことを認めて、プライドを捨てて、神様の恵みを受け取ろう。
そして、恵みが自分では決して造り出せないということは、それだけ貴いということだ。手に入らないから希少価値が高い。石ころというのは普通1円でも売れない。洗礼者ヨハネは「神はこんな石ころからでもアブラハムの子孫を造れる」として、石を無価値なものの代名詞とした。しかし、同じ石ころでもものすごく価値のあるものがある。それは月の石だ。月から来た隕石や月から持ち帰った石について、過去に取引された金額は約5000万円から2.7億円。なんでそんなに高いのか?別に宝石のように輝いているわけではない。高いのは、単に地球ではとれないから、珍しいから、手に入らないからだ。地球で簡単に手に入らないなら石ころすら高値になる。ところで、恵みはどこから来るのかというと、なんとこの宇宙ですらない。神から、第三の天から来る。全くの別世界から来る。ただでさえすばらしい救いの恵みは、宇宙の外から来たという点で無限大の価値がある。でも、恵みは無料ではないか?確かに、無料のものというだけであれば、無価値なものも多く含まれる。たとえば、商品のサンプル、スーパーの試食、路上で配られているチラシやティッシュというものは無料だが、そこまでの価値はない。どうしても必要だというものではない。しかし、そういうものはいずれも、人間がなんとかすれば造り出せるものだ。恵みは自分では造り出せない。それはあまりにも高価だからただなのだ。価値があるからこそただのものがある。たとえば、私たちの命は、ある意味ただで手に入る。命は自分では造り出せない。母親がおなかを痛めるということは経験するが、本人については、自分で体をデザインしたとか、たくさんのお金を払ったから、あるいはすばらしい行いをしたから、生まれてくることができたという人は誰もいない。そして、命はあまりにも貴いので、命に値段をつけてしまうなら、たちまち命は軽んじられてしまう。何億円という値段がついたとしても、それで命を手放すことはできない。命はそれよりももっと高価なはずだからだ。イエス様は命を全世界よりも高価だと言われた。値段がつけられない。イエス様を信じることによって与えられる救いは、なおさらそうだ。救いは、私たちに永遠の命をもたらす。あまりに高価だからこそ、ただなのだ。また、恵みの背後には貴い犠牲がなされている。イエス・キリストが私たちを愛して、私たちの罪を背負って十字架で血を流して死なれ、三日目に復活された。救いには無限大の価値がある。そして、自分がしたことではなく、神様が与えてくださったことだからこそ、救いを確信できる。イエス様は十字架上で「成し遂げられた」と言って息をひきとられた。もし不完全な過ちを犯しやすい私たちが罪からの救いについて少しでも、1%でも果たすべき分があるとすれば、救いはたちまち確信できなくなる。「私が救いを駄目にしてしまっていないか…」いつもそういう思いが離れず、平安が得られない。しかし、100%イエス様が救いを成し遂げてくださったのだから、救いは確信できる。

恵みによる救いを受けた人は、自慢できない。ただただ神様を賛美し、神様の栄光にするしかない。それは正しいこと。人生の目的は神様の栄光を現すことだ。
クリスチャンの成長も恵みによる。恵みによってあらゆる活動もできるようになる。Ⅰコリント15:10。パウロの活動は、恵みにできたこと。恵みで必要な賜物が与えられたり、導きが与えられたりしてできた。
恵みはどういうふうにクリスチャンの成長に作用するか?恵みを受けると、信仰が成長する。あらゆることについて、神様を信頼できるようになる。恵みを受けると、神様を愛し、隣人をも愛するようになる。恵みを受けた者は恵み深い人間関係を築ける。自分が神様から資格がないにもかかわらず一方的に愛されて救われたのだから、自分も周りの人にそうする。無条件で愛し、裁かない。ありのままを愛する。惜しみなく与える。どこまでもへりくだって仕える。忍耐強い。愛をもって罪を指摘することはあるが、そこには一切の裁きがない。神の恵みを受け取ろう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました