アムノンの恋愛とアブサロムの復讐[サムエル下13章]

サムエル記
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ダビデの罪の呪いが家族の中で連鎖していく恐ろしい有様を見ることができます。
私たちは家系の呪いをイエス様の血潮で断ち切っていきましょう。

アムノンの恋愛とアブサロムの復讐[サムエル下13章]


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【ノート】
この章は恋愛と復讐に関する章だ。1-5節。ダビデの長男、アムノンが恋の病にかかって寝込んでいた。世の中では、恋愛が美化され、最高に価値のあるもののようにもてはやされる。テレビドラマで扱われる主なテーマは恋愛だ。若者を中心に多くの人の関心事となっている。恋愛は正義、恋愛していないと価値がないかのようにみなされる恋愛至上主義の風潮がある。もちろん、恋愛は必ずしも悪いものではない。感情は神様が想像されたものであり、そこには恋愛も含まれる。聖書には雅歌という男女の恋愛をテーマにした書物もある。雅歌は花婿なるイエス・キリストと花嫁なる教会との愛の関係を歌ったものでもある。ということは、神の愛の中には、恋愛的な要素も含まれるということだ。だから、恋愛それ自体が悪ということはない。しかし、気をつけなければならないのは、恋愛を私たちの価値観の第1位には絶対に置いてはならないということだ。私たちはあくまでも神の国と神の義を第一に求めなければならない。恋愛感情の奴隷になってはならない。恋愛を第一に置く時、本来善いものである恋愛が毒になり、私たちは道を踏み外し、滅びに至らせる。そのことがこの章からよくわかる。どんな良いものでも、神様の位置にそれを置く時に私たちに害をなすようになるのだ。
アムノンは王位継承権第1位の人物だ。恋愛よりも、自分の身分をわきまえた責任のある生き方をすることが求められる。ましてや、相手は異母姉妹のタマルであり、律法によって結婚が禁止されていた。この時点で間違った恋愛感情を捨てて、王子としてふさわしい歩みをしなければならなかった。私たちにとっては、神の子にふさわしい歩みをするということだ。恋愛感情に振り回されることなく、神の子として決然とした歩みをする者となろう。
アムノンにとっての悲劇は、ある意味、アムノンがダビデ王の子供らしいふるまいをしたということにある。ダビデは11章で王でありながら、その身分と責任を忘れて殺人と姦淫の罪を犯した。そのダビデが蒔いた種が、アムノンにも実を結びつつあった。アムノンはそれに抵抗しなければならなかった。私たちは、自分の両親や先祖から悪い性質を引き継ぐということがある。自分には何の原因もないのに、家系から来る霊力に影響されて、怒りや恐れにとりつかれたり、病気になったりすることがある。私たちはその呪いをイエス様の血潮によって断ち切ることができる。イエス様は十字架にかけられて、私たちの身代わりに呪いになってくださった。イエス様がすべての呪いを引き受けてくださったので、もはや私たちは先祖からの呪いに影響される必要はない。宣言しよう。「イエス様の血潮は、すべての呪いから私を贖いました」アーメン。私たちは神の子であり、私たちの血管には、父なる神から血が、DNAが流れている。

アムノンの相談相手の友人として、ヨナダブという人がいた。誰かが破滅の道を行こうとしているとき、その人の友人はどうあるべきか?相手に嫌われてでもその道から救い出そうと努めるべきだろう。ヤコブ5:19-20。ヨナダブは逆に積極的に破滅の道に後押しする人だった。絶対にいて欲しくない友人だ。私たちはどういう人と親しい友人になるべきか分別を持って選ばなければならない。悪の道へと唆す人とは距離を置こう。ヨナダブの特徴は、頭は良いが倫理観が欠けている。善悪の区別ができない。アムノンの話を聞いたら、そんな考えは捨てなさい、と正気になるように説得しなければならないのに、むしろ悪知恵を植え付けてしまった。サタンに用いられてしまった。頭が良くても神を恐れない人は、サタンに用いられる。そして、世の中で脚光を浴びている人はそんな人が多い。誰か有名人がこう言っていたからと安直に従わないようにしよう。そうではなく、主がこう言われたからとして行動する者になろう。
6-7節。まず、ダビデはヨナダブが考えたアムノンの仮病を信じて、アムノンの言うなりになってしまった。病気で寝込んでいるなら間違いは起きないだろうと思ってのことだろう。アムノンが心の内に隠した悪意に気づかなかった。その結果、ダビデは子供たちの間に起こる悲劇を防ぐことができなかった。アムノンのここでの様子は、ダビデがヘト人ウリヤの前で、バト・シェバと姦淫の罪を犯しながら何食わぬ顔をしていたのに似ている。自分が人にしたことは、最悪の形で自分に返ってくる。私たちは誠実に生きる者になろう。

アムノンの許されざる恋愛の末路が8-19節。ひどい内容だが、まずは良い部分を見てみよう。タマルの「イスラエルでは許されないことです」ということから、イスラエルの民の間での高い倫理観を見ることができる。性犯罪はイスラエル全土のどこでも決して容認されないことだった。神の民の間では、性についても異邦人にはない高い倫理観があった。旧約でもそうだが、新約ではなおさらそうだ。清さは外面的な行動だけについて要求されることではない。清さは口についても要求される。エフェソ5:3。口にしてはならない。下ネタは禁止だ。それどころか、清さは心についても要求される。マタイ5:27-28。いったい完全にこの通りにすることを誰ができるのか?聖霊様で満たされ、御言葉を心に刻んだ人ができる。

続いてアムノンについてだが、清くない恋愛というものはこういうもの。美しいように思えて蓋をあけてみたら単なる情欲と大差ない。恋愛を第一にし、恋愛感情に振り回されてはならない。自分も他の人も不幸にする。神の国と神の義を第一にしよう。アーメン。アムノンはタマルと性的関係を持ったが、その途端、タマルのことを憎しみの対象とみるようになった。タマルとの性的関係は罪だったからだ。アムノンにとってタマルは自分の罪を想起させる存在となった。また、タマルが「イスラエルでは愚か者の一人になってしまう」と言った通り、タマルの存在はアムノンの築いてきた評判をどん底まで突き落とす者になってしまった。それで、アムノンは激しい憎しみをもってタマルを部屋から追い出してしまった。あれほどタマルのことを求めていたはずなのに、恋愛感情を抱いていたはずなのに。男性にはそういうところがある。女性をハンターのように、狩りの獲物のように執拗に狙うことがあるが、ひとたび女性が自分のものになると、途端に興味を失ってしまい、捨ててしまう。実際に、ノンクリスチャンの男性と交際したクリスチャンの女性の中には、相手から婚前交渉を迫られて断り切れずに関係をもってしまい、すぐに捨てられてしまったという人がいる。だからこそ、女性は簡単に男性に体を許してはならない。自分を大切にしなければならない。同じ信仰を持つ異性と関係を育み、結婚した上で結ばれるのでなければ、祝福された関係にならない。

アムノンに対するダビデとアブサロムの反応が20-22節。まず、ダビデは激しく怒った。しかし、それだけだ。アムノンに対して何の処罰も下していない。下そうにも下せない。処罰をしようとすると、かつて自分が犯した殺人と姦淫の罪が頭をよぎる。アムノンが有罪ならダビデも有罪のはずだ。それで、何もできない。父親なのに、タマルを慰めることすらできない。自分もアムノンと同じようなことをしたから、慰められない。もしダビデが然るべき対処をしていたらアブサロムの溜飲も下がって、あえて復讐しようとは思わなかったかもしれない。王なのに、無能なダビデを見ることができる。

人は立場が与えられれば指導できるのではないのだ。人は、自分がよくできていないことについては、立場があっても権威をもって指導することができない。それは人を育てる上でも、グループを導く上でも大きな障害となる。子供や自分のグループのメンバーに自分と同じ過ちを犯させてしまうことになる。罪をかなぐり捨てよう。信仰によってキリストの満ち溢れる豊かさに至るまで成長しよう。何でも権威をもって指導できる者になろう。
アブサロムはダビデとは逆に表面的には、自分の感情を隠して、密かにアムノン暗殺計画の準備をする。なんとその期間は2年だ。人々がアムノンの事件を忘れかけたころに作戦を結構する。

23-29節。アブサロムは自分の悪意を巧妙に隠している。まず2年という歳月の間何もしなかったという点で隠している。次に羊の毛を刈るというごく自然な年中行事の中に隠している。第三にアムノンだけでなく王子全員を招待するという点でカモフラージュをしている。第四にダビデ王も招待することによって暗殺計画を実行しようという意図を隠している。ダビデ王が来たら、目の前でアムノンを打つことはできなくなるだろう。しかし、アブサロムはダビデが断るのを見越して招待したのだ。賢い。まるでウリヤの前で何食わぬ顔をしていたダビデのようだ。回りまわって全部自分に戻ってくる。
アブサロムはタマルを辱められた復讐をやり遂げた。目的を達成できた。自分がしたいことができた。それでは、これによってアブサロムは幸せになるのか?いいや、逆にアブサロムは呪われることになった。自分の手で復讐をする者は、不幸になる。アブサロムも、ヨアブもそうだ。肉の欲に動かされて復讐に走れば、呪いを招くことになる。イエス様は「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」と言われた。復讐は全部神様におゆだねする。危害を加えてきた人に対してはひたすら赦し、愛し、祝福しよう。それが自分自身のためでもある。自分自身の祝福にもなる。

30-35節。王子が全員アブサロムに打ち殺されたという誤報が王のもとに届いた。ヨナダブがそれを訂正して、アムノン一人が殺されたに違いないと推理して自分の頭の良さをひけらかしている。そして、王子たちが戻ってくると「ほらごらん」として推理があたったのを喜んでいる。アムノン一人が殺されたことを喜んでいる。ヨナダブの助言を聞いたばかりに友人のアムノンがアブサロムに打ち殺されたというのに。頭が良いが悪質で冷酷なヨナダブのような人と親しくなってはならない。

36-39節。ダビデ家全体が涙を流し、家臣たちも泣いた。王子たちが無事だったという安堵の涙とアムノンの死とアブサロムの殺人で大きな衝撃を受けての涙がまじっていたことだろう。アブサロムは母親の実家であるゲシュルに亡命して再起のタイミングをうかがう。ダビデはアムノンを悼み、アブサロムに心を向けている。ダビデの罪が、どれだけ大きな悲しみ、痛み、葛藤をもたらしているかがよくわかる。罪はこのような不幸をもたらす。罪は呪いの連鎖をもたらす。罪を犯してはならない。御言葉の通りに生きることが祝福であり、幸せなことだ。

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