神はこの国の祈りにこたえられた[サムエル下21章]

サムエル記
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三年間飢饉が起こるというように、長期間実を結ばないのは異常事態です。神様の祝福を妨げているものが何なのかを突き止めて、取り除く必要があります。

神はこの国の祈りにこたえられた[サムエル下21章]


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【ノート】
20章でシェバの反乱の鎮圧によってダビデの体制が堅固なものにされた。21-24章は20章までと時系列になっていない。どうしても書き残さなければならない内容が、補われたものだ。この21章にも、神様がどうしても私たちに伝えなければならない内容が豊かに含まれている。

1-14節。まず、ダビデは三年間続く飢饉の原因を知るべく、主に託宣を求めた。三年間も飢饉が続くというのは、明らかにおかしいからだ。イスラエルの民は祝福されているのだから、三年間どころか、一年であれ、ほんの短い期間であれ、飢饉があるというのはおかしいことだ。その原因を究明しなければならない。イスラエルにもまして、神様はクリスチャンを祝福してくださっている。キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださっている。私たちが御言葉を聞いて悟るならば、30倍、60倍、100倍実を結ぶことが約束されている。だから、私たちは祝福されていること、リバイバルされていくことが標準なのであって、長期間実を結ばない時期が続くというのは、明らかにおかしいことがわかる。実を結ばないのが当たり前と思ってはならない。実を結ばないのは異常だと認識しよう。何か、祝福を妨げてしまっているものがあるのだ。もし実を結ばない時期が続いたら、三年続くのを待つまでもなく、主にその原因を尋ねよう。聖書を開こう。もしないがしろにしてしまっている御言葉がそこに見出されたら、悔い改めて、その御言葉を信じて悟り、真剣に取り組もう。そうすれば、必ず収穫の時代がやってくる。

ダビデに与えられた答えは意外なものだった。ギブオン人を殺害し、その血を流したサウルとその家に責任があるという。でも、もうこの時にはダビデの治世だ。ダビデはサウルの死後、ヘブロンでユダの王に立てられた7年後に、イスラエル全体の王となっている。ということは、少なくともサウルが死んでから7年以上経っているので、この事件は少なくとも7年前、場合によっては数十年前の出来事だ。どうして今更そのことが原因で飢饉が起こるのか、飢饉が起こるなら、サウルの治世の時に起こればいいのに、そう思うだろうか?確かにこのタイムラグは解せないところがあるが、霊的な世界の現実として、こういうことが確かにある。昔の人々が原因で今の人々が苦しむということが確かにある。その最たる例はアダムの原罪の結果を人類全体が被っているということだ。これは経済の分野でも、政治の分野でもいえることだ。過去の世代の負の遺産は、それがどれだけ理不尽に思えても、今の世代が負わなければならなくなる。また、今の世代が築くものを次の世代が受け取ることになる。幸い、イエス様がすべての呪いを引き受けてくださったので、私たちは血潮によって過去からの負の遺産を断ち切ることができるようにされている。もし、何の前触れもなく突然の苦しみに遭うことがあれば、先祖からの呪いかもしれない。主に訪ねて、原因を特定し、イエス様の血潮を注いで呪いを取り除こう。サウルは次の世代に呪いを遺した。あなたは次の世代に何を遺すか?祝福か、呪いか?私たちは次の世代に祝福の霊的遺産をたくさん遺すものになろう。主の御心は、私たちが主に従うことを通して、幾千代にもおよぶ主の慈しみをもたらすことだ。

サウルのギブオン人殺害について、長い年月が経った後、ダビデの世で飢饉をもたらした。このことからわかるもう一つのことは、罪が自然消滅することは絶対にないということだ。罪は取り除かれない限り、いつまでも残り続ける。
同様に、苦しみを受けた人々の怨念も、赦すということがなされない限り、いつまでも残り続ける。時間が勝手に解決するということはない。罪には償いと赦しがなされなければならない。ここで償いとして要求されたのはサウルの血を引く人物7人の処刑だった。これはギブオン人が要求したことではあるが、6節で「主の御前に彼らをさらし者にします」と言っている。これは、ギブオン人が主を意識して要求したことであり、その通りにした結果飢饉が終わっているので、御心に適った要求だったということがわかる。罪の償いには、命を支払うことが要求されている。もし私が罪を犯したら、その罪の償いには命が必要だ。私は処刑されなければならない。この7人のように処刑されなければならない。しかし、それでは誰が無事でいられるだろうか?正しい者は一人もいないのだから、本来はすべての人が罪の償いのために処刑されなければならない。それでは、誰が救われるのだろうか?ただ、イエス様を信じる者だけが救われる。なぜなら、イエス様が私たちの罪の償いのために、御自分の命をささげてくださったからだ。ただ、このイエス様にあって私たちは罪の贖いを受け、罪の赦しを受けることができる。罪は自然消滅しない。罪は私たちが命を償いとして差し出すか、そうでなければただイエス様の十字架の贖いによってのみ取り除かれる。赦される。イエス様を信じた瞬間に、私たちはすべての罪について赦しを受ける。それは、罪を告白することによって適用される。もしまだ告白していない罪があれば、神様の御前で告白しよう。罪の赦しが適用され、あらゆる不義から清められる。この赦しと清めを妨げるのは、怨念だ。赦せない心だ。もうイエス様がすべての人のために罪の償いをなさった。それであれば、ギブオン人がサウルの家の者7人を処刑して満足したように、私たちも満足しなければならない。イエス様がその人のためにも死んでくださったから満足するのだ。もしそのことを否定して、「いや、私は赦したくない」とするならば、それはイエス様の十字架の贖いを否定することであり、私たち自身の罪の赦しと清めまでも妨げてしまうことになる。マタイ6:14-15。赦そう。赦しを宣言しよう。

ギブオン人はイスラエルの民ではなかったが、ギブオン人を殺害したことがイスラエルに飢饉を招いた。それは、イスラエルの民とギブオン人の間には、主にかけて誓った命を保障する協定があったからだ。それは、ヨシュアら指導者が、ギブオン人にだまされて、主に託宣を求めずにギブオン人に乞われるがままに結んだ協定だった。にもかかわらず、主なる神様はそれを重んじられた。神様は約束を重んじられるお方だ。それゆえ、約束は守らなければならない。サウルは主の御心を勘違いして、「ギブオン人はイスラエルの民ではないから排除すべきだ」として、約束を破ってギブオン人を討とうとした。しかし、主は約束違反を罪として、サウルの家の者たちの責任を問うた。どんな理由であれ、主を介して結ばれた約束を破ることは罪なのだ。それでサウルの家は、これでほとんど滅亡してしまう。神様は約束を重んじてくださる。だから、私たちも約束を守ろう。神様は本来神の民でないはずだったギブオン人との約束すら重んじられた。ましてや、天地創造の前からキリストによって選ばれている私たちとの間に結ばれた新しい契約のことはなおのことを重んじてくださっている。徹底的に守ってくださる。そのことに感謝して、私たちも約束をよく守る者になろう。

ここで犠牲になっている七人の母親は、リツパともう一人は新共同訳ではミカルとなっているが、実際には明らかにメラブだ。この二人は可哀想だ。しかし、この二人にはその結婚に関して御心ではない部分があった。リツパはサウルの側女でありながら、アブネルと関係を持ってしまった。
アブネルを通して自分の立場を強くしたかったかもしれない。メラブは本来ダビデと結婚するはずだったのに、アドリエルと結婚した。理由は定かではないが、もともと羊飼いに過ぎず、名門の出でない貧しいダビデを軽蔑したのかもしれない。信仰者でありながら結婚に肉的な思いを入れると、その結婚はとんでもないことになってしまう一例と言えよう。

サウル、リツパ、メラブ、それぞれ非があったであろう。しかし、ダビデは彼らが断罪されていくことについて、喜んだり嘲ったりしなかった。むしろ、リツパの行為について聞いて心を痛め、誠意を尽くして死者の骨を墓に葬った。これは御心に適うことだ。罪人の死を神様は喜んではおらず、御心を痛めておられるからだ。ダビデがここまで従った結果、14節で「神はこの国のお祈りにこたえられた」となった。神様は私たちが悔い改めて御心を行うと祈りに答えてくださる。妨げが取り除かれ、祝福がとめどなくあふれてくるようになる。

15-22節。ダビデは先頭に立って戦おうとする。指導者はいつだって模範を示す。率先して戦いに身を投じて、背中で人々を従わせる。それが神の国の原則だ。しかし、ダビデは疲れていた。そんなダビデを敵は討とうとする。
そこで、兵士たちはダビデが戦いに出ることをやめさせた。ダビデはイスラエルの灯だからだ。つまり、ダビデが死んだらイスラエルの灯も消えて、イスラエルは滅びてしまうということだ。敵は指導者を倒そうとする。指導者を倒せば、大勢の者たちを一気に倒せるからだ。羊飼いを打てば羊が散るとイエス様が言われた通りだ。大きな教会の指導者たちが罪を犯して倒れたのは偶然のことではない。大きな教会であればあるほど、指導者が倒れれば多くの羊たちを同時に倒せるので、悪魔が集中的に誘惑したのだ。それであれば、このダビデの家臣たちがそうだったように、教会は指導者が守る必要がある。指導者のために祈り、戦う必要がある。何でもかんでもいつまでも一人の指導者まかせにするのではなく、その指導者が疲れ切ってしまわないように、休ませ、代わりに敵と戦うべく立ち上がる勇者が必要である。そういう人々によって教会が保たれる。指導者が疲れ切ってしまい、敵に倒されてしまわないように、指導者を守る教会になろう。

それでは、どうすればそういう教会になっていくことができるのか?ダビデの勇士たちを見ればわかる。ダビデの勇士たちはゴリアトの親族たちに勝利した。ゴリアトといえば、サウルもサウルが率いるイスラエルの民も、全員恐れおののいてしまい、戦うことができなかった巨人だ。誰も一騎打ちに挑戦できなかった。どうしてダビデの家臣たちは巨大で力も強い敵に立ち向かい、勝利できたのか?それは、ダビデの勝利を見ていたからだ。ダビデは羊飼いの少年でありながら、信仰による勇気を持ってゴリアトに立ち向かい、見事勝利した。そのダビデの戦いをずっと見ていたダビデの勇士たちは、指導者と同じ信仰による勇気を身に付けることができた。ダビデがゴリアトに勝利して突破口を開いたので、家臣たちもそれを見て同じことができたのだ。指導者が信仰による勇気をもって勝利する姿をよく見よう。指導者を敬い、その仕える姿や話し方やふるまいをよく見て、学ぼう。そうすれば、従う者たちも、同じ霊性を身に付け、同じように勝利することができる。

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