神の子とする御霊を受けた

福音&主題メッセージ
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神の子であるという事実が、救いの確信とクリスチャンとして生きる原動力になります。神の子としてのアイデンティティーを確立しましょう。

神の子とする御霊を受けた

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【ノート】
私たちの救いの確信も、クリスチャンとして生きるための力も、全部私たちが神の子であるという事実から得られるものだ。イエス様は、一度も御自分が神の子であるという事実を疑うことはなかった。サタンに誘惑されようが、家族から否定されようが、宗教指導者から殺されそうになろうが、御自分が神の子であるという事実について常に確信に満ちておられた。誰に何と言われようが、イエス様は神の子だった。それは事実だったし、イエス様もそのことをよくわかっていた。イエス様には神の子としてのアイデンティティーがあるのだ。イエス様は神の子としてのアイデンティティーがあったので、父なる神様を全面的に信頼することができたし、病人を癒し、悪霊を追い出し、奇跡を行うことができた。教えにおいても実践においても完璧であり続けることができた。

クリスチャンもイエス様のように神の子としてのアイデンティティーを持つならば、父なる神様を全面的に信頼することができる。キリストのように生きることができる権威が与えられる。クリスチャンは自分が神の子であるという事実を認識する必要がある。ヨハネ1:12-13。言はキリストのこと。キリストを信じたら神の子となる権威が与えられる。キリストを信じた人は神の子とされ、神の子として生きる権威が与えられるのだ。あなたは神の子か?あなたは神の子として生きる権威が与えられているか?それでは、あなたが神の子とされたのは、あなたが何か努力をしたからか?特別な才能があったからか?特別美しい外見をしていたからか?キリストを信じたというのがすべてだ。神の子となるというのは、神から生まれるということだと書いてある。あなたは生まれてくることができたのは、大金を払ったからか?偉大な功績をあげたのでそれが神様に認められて命を得ることができるようになったのか?そうではない。命は本人の努力なしでただで与えられる。永遠の命も本人の努力なしでただで与えられる。神の子とされるのも、一方的な愛のご好意によるもの、つまり恵みだ。あなたは愛されているので、イエス様の貴い救いの御業により、神の子とされた。御父、御子、御霊、三位一体の神様の愛によってあなたは神から生まれ、神の子になったのだ。Ⅰヨハネ3:1。神の子だということは、御父はあなたをイエス様と同じくらい愛しておられるということだ。

自分が神様の子供であるということを知っている人は、父なる神様を全面的に信頼することができる。マタイ7:9-11。人間の親ですら、パンを欲しがる自分の子供に石を与えたり、魚を欲しがる自分の子供に蛇を与えたりしない。パンを欲しがる自分の子供にはパンを与え、魚を欲しがる自分の子供には魚を与える。人間の親、罪人である人間の親ですらそうだ。ましてや、天のお父様は求める者に良いものをくださるに違いない。天のお父様が天国を求める自分の子供に地獄を与えたり、聖霊様を求める自分の子供に悪霊を与えたりすることがあるだろうか?ありえない!ありえない!絶対にありえない。天のお父様が自分の子供を家に入れてくれないなんていうことはありえるだろうか?自分の子供なのに、家から放り出して孤児のようにしてしまうことがありえるだろうか?子供がちょっとミスをしたり、悪いことをしたりしたらもう「自分の子供ではない」として勘当したり、焼却炉に入れて燃やしてしまったりすることがあろうか?ありえない!ありえない!絶対にありえない。つまり、神の子が天国に入れるかどうか心配するというのは、完全にナンセンスであり、父なる神様を人間の父親にも劣る愛のないお方のようにみなしてしまっていることになる。ルカ12:32。神の子は天国に入れる。神の子は神の子らしく生きることができる。
問題は、どうすれば自分が神の子であるという確固としたアイデンティティーを持つことができるのか、ということだ。ローマ8:15-16。まず、わかるのは、神の子になる前、人は恐れの奴隷だったということだ。いったい何を恐れていたのか。罰を恐れていた。愛されなくなることを恐れていた。見捨てられてしまうことを恐れていた。無価値な者になってしまうことを恐れていた。恐れの奴隷になっていても、悪いことばかりするとは限らない。むしろ、恐れにかられて、活発にいわゆる良いことを行おうとすることもある。親からがみがみ言われるのを恐れて勉強する子供がいる。捕まることを恐れて犯罪を避ける人がいる。病気を恐れて健康に気を遣う。地獄を恐れて、神に従おうとするクリスチャンがいる。このように、恐れは必ずしも悪い結果を生むものではない。しかし、恐れは最善のものではない。Ⅰヨハネ4:18。恐れがあるということは完全な愛がそこにないということ。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。これこそ、最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」と言われた。愛こそがすべての律法を全うするものだが、恐れをモチベーションとしている人というのは、いつも神様の御心を全うすることができないのだ。動機が愛でないなら、すべては空しく、無に等しい。そして、よくよく読むとローマ8:15にはもっと深刻なことが書いてある。ここでは特に人を奴隷にして恐れに陥れる霊と書いてあるが、これは悪霊のことである。そして、実はこういう悪霊は、律法主義の背後にも働く。ガラテヤ4:8-10。これは律法主義に陥っていたガラテヤ教会の人々に書いた内容だ。律法によって義とされようとすることは、悪霊の支配下に逆戻りするということなのだ。このことから、律法主義というのは、多少は認めよう、多少は仕方ないというものではなく、全面的に排除されなければならないものだとわかる。

律法主義の悪霊ではなく、クリスチャンは神の子とされる御霊を受けた。聖霊様が私たちに「アッバ、父よ」と祈れるようにしてくださる。アッバというのは、イエス様がゲッセマネの園で使われた言葉だが、幼児言葉であって、「パパ」という意味合いの言葉だ。幼児が何の心配もせずに全体重をあずけて父親の手の中で眠ることができる。父親の胸の中に飛び込むことができる。父親を全面的に信頼しているのだ。聖霊様を受けたクリスチャンは同じように天のお父様を全面的に信頼して、何も心配しない。天のお父様が自分を焼却炉にほうり込むことなど、ありえないことがわかっている。聖霊様は私たちの霊と一緒になって私たちが神の子であることを証ししてくださる。つまり、聖霊様が私たちの神の子としてのアイデンティティーを堅固なものにしてくださるということだ。このことから、聖霊様はおひとりで私たちが神の子だと証しなさるのではなく、私たちの霊と一緒になってなさる。これは、「〇〇は神の子です」と宣言するときに、聖霊様もそれに呼応して宣言してくださるということだ。毎日宣言しよう。それは独り言ではなく聖霊様が一緒になって証ししてくださることだ。

続いて、イエス様の場合どうだったのかを見てみよう。実は、神の子とする霊を受けたというのは、イエス様にも起こったことだ。実は、イエス様とクリスチャンは全く同じ方法で神の子としてのアイデンティティーを持つ。イエス様は神の独り子が人間となられたお方。もともと神の子としての霊を持っておられる。それなのに、あえて神の子としてのアイデンティティーを持つ必要があったのか?持つ必要があった。イエス様は人としての性質を持つことによる制約として、神の子としてのアイデンティティーを私たちと同じように持つということが必要だった。
イエス様はどのようにして神の子としてのアイデンティティーを持ったのか?そのことを学べば、私たちもイエス様と全く同じ方法で神の子としてアイデンティティーを持つことができる。マタイ3:16-17。この出来事が、イエス様が神の子として歩む契機となった。3つのことをここに見ることができる。第一に、水のバプテスマ、第二に、聖霊のバプテスマ、第三に、御父の御声、すなわち御言葉だ。この3つのことを経たときに、イエス様は神の子としてのアイデンティティーが確立した。イエス様は御自分が神の子であるということについて、この3つ以上のことは何もつけ加える必要なく、完全に十分だった。そして、この時からイエス様は神の子として歩み始めた。それまでは大工の子として、平凡な人間として生きていた。しかし、この時から、福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出し、十字架の死と復活によって救いの御業を成し遂げられた。あなたは水のバプテスマと聖霊のバプテスマと神の子であることについての御言葉を受け取ったか?まずこのことを確かにしなければならない。御言葉はヨハネ1:12もそうだし、ローマ8:15-16もそうだし、このマタイ3:17もそうだ。御父はあなたに対しても、イエス様に対するのと同じように、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んでくださる。この3つが確かであれば、そこから一歩も動かないようにする。なぜなら、私たちがそこから逸れるように誘惑してくるからだ。

マタイ4:3-7。悪魔は二連続で、イエス様が神の子であることについて疑いを起こさせようとしている。そして、本当に神の子であれば、それを証明してみせなければならないと仕向けている。イエス様は悪魔の挑発に全く乗ることがなかった。なぜなのだろうか?すでに神の子としての功績をいっぱいあげていたので、いまさら新たに証明してみせる必要はないと思われたのだろうか?そうではない。イエス様はこの時点で、神の子らしいことは何一つしていない。イエス様はずっと大工の子として生きてきただけで、まだ死人を生き返らせたり、悪霊を追い出したりした経験が全くない。神の子だと証明できるような行動はゼロだった。このことから、神の子としてのアイデンティティーは一切の証明を必要としないということがわかる。神の子であればそれを証明してみせなければならないというのは、悪魔の嘘だ。そうやって律法主義に転落させて悪霊の支配下にいれて奴隷にしようとしているのだ。イエス様は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われた。イエス様がこの直前にすでに「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉をいただいていた。それで十分だ。ほかならぬ御父が私たちに御言葉を持って、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と呼んでくださっているのに、それ以上何が必要か?いらない。御父がそう言ってくださるということは、それで十分。私たちは神の子なのだ。イエス様のように、まだ神の子らしいことを一つもしたことがなかったとしても、父なる神様からすでに喜ばれている者なのだ。そのことを悟り、神の子としてのアイデンティティーを持つならば、私たちは神の子として力強く歩めるようになる。イエス様のように御声を聞いて、イエス様のような愛を持って、イエス様のような御業を行うことができるようになる。福音を宣べ伝え、病人を癒し、悪霊を追い出せる。宣言しよう。「〇〇は神の子とされる御霊を受けた。〇〇は神の子だ」

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