シェバの反乱[サムエル下20章]

サムエル記
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その一声は、もともとイスラエルの諸部族が抱えていた不満を代弁していたので、イスラエルはまたもやダビデから離れてしまいました。

シェバの反乱[サムエル下20章]


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【ノート】
アブサロムが死んでそのクーデターは失敗に終わり、ダビデ復権の道筋がたって後はエルサレムに帰るだけのはずだった。ところが、ここで問題が起こった。ダビデがヨルダン川を渡るのを助けたのは、ユダ族の人々だった。ダビデがそのように仕向けた。ダビデにとって、イスラエルの人々は信頼できなかったようだ。それは、イスラエルの他の諸部族にとって不満の種となり、エルサレムに戻る道すがら、ちょっとした小競り合いになった。王がヨルダン川を渡るのを誰が助けるか、そんなことはどうでもよいようなことだが、政治の世界ではいかに主導権を握るかが鍵となることがある。イスラエルの人々にとって、ダビデの王権のもとでは、おいしい思いをすることができなくなるかもしれないということだ。その矢先に、ビクリの子シェバが叫ぶ。

1-2節。この変わり身の早さよ!ビクリの子のシェバの一声で、イスラエルは簡単に心変わりして、ダビデを離れてしまった。これで二度目の離反だ。シェバはきっかけに過ぎない。彼ら自身が抱えていた不満が根本原因だ。彼らが王から簡単に離れてしまったのは、一つにはユダ族に対する嫉妬心、もう一つはダビデについてもおいしい思いをできないという損得勘定によるものだ。そういう邪な考えが、ペリシテ人からイスラエルを守ったダビデに対する感謝な心や忠誠心に勝ってしまった。これはまさにクリスチャンが王であるイエス様から離れないように気をつけなければならないことだ。内在する罪が何かのきっかけで表面化し、イエス様に対する離反を引き起こしうる。嫉妬心がつまずきになることがある。誰かが自分よりも用いられている、目立っている、祝福されている。それがおもしろくない。そういう肉的な心がイエス様から離れるきっかけを作ることがある。それは罪である。ほかの兄弟姉妹が用いられているなら、それを感謝しよう。心から祝福しよう。祝福する人は、同じ祝福にあずかることができるようにもなる。損得勘定がつまずきになることがある。献金をささげなかったらどれだけ貯金できるか、日曜日を好き勝手に過ごしたらどれだけ楽しいか、罪を気にせず犯すのが自由ではないか。永遠の破滅から救っていただき、天のあらゆる霊的な祝福をいただいて、健康も、経済も、人間関係も守られているということを全部忘れて、肉まみれの信仰ゼロの妄想を抱く。これまた特大の罪だ。損得勘定がつまずきになるとき、不信仰によって勘定を完全に間違えていることに気づこう。十字架の贖いによって得られたものは、私たちの人生のすべてを献げ尽くしても足りないものだと気づこう。イエス様から目を離してはならない。感謝と賛美を絶やさずささげよう!アーメン。
シェバのことをならず者と書いている。ならず者とは主に無関心であり、力づくで人のものを奪う悪者だ。盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするサタンのような存在だ。シェバは謀反を企てたわけではなく、「イスラエルよ、自分の天幕に帰れ」と呼び掛けただけだったが、イスラエルの人々がシェバについていったので、結果的に謀反の形になった。ならず者が王に祭り上げられた。人は、常に指導者を必要としている。イエス様でなければ、人はサタンに従うのだ。二者択一だ。あなたはどちらに従うか。ヤコブ4:7。
ユダの人々は、ダビデから離れず、エルサレムまで付き従った。それは、ユダの人々がダビデを選んだのではなく、ダビデがユダの人々を選んだというのが大きい。イスラエルの人々を見ればわかるように、民の心は変わりやすい。自分が誰に仕えるのかを選ぶのであれば、ころころ王を変えてしまう。しかし、王による選びが、その関係を特別なものにし、強固なものになる。クリスチャンは、自分でイエス様を選んで信じるはるか前から、愛され、選ばれていた存在だ。エフェソ1:4。
ダビデはまずヨルダン川で御自分が選んだユダの人々と会い、それからユダの人々と一緒にエルサレムまで行った。二段階に渡ってエルサレムに行っている。これはイエス様の再臨に似ている。イエス様はまず空中に再臨して御自分が選んだ民である復活したクリスチャンや携挙されたクリスチャンと会い、患難期の終わりに御自分の民と共に地上再臨することになる。二段階の再臨は不思議に思えるかもしれないが、ダビデとユダの人々は同じような行程をたどった。それはごく自然なことだ。

3節。10人のそばめがやもめのような生活を送らされた。ここからわかるのは、そばめは幸せになれないということだ。イエス様の系図には異邦人の遊女ラハブや元ウリヤの妻のバト・シェバがいるが、そばめは一人もいない。救いの本筋に入れたそばめはいない。神様はそれだけ正式な結婚による関係を重んじておられるのだ。そばめをとるのは御心ではないし、そばめになってはならない。そばめになるとはどういうことだろうか。結婚せずに婚前交渉を重ねるのはそばめになるようなものだ。さらには、イエス様との関係を真剣に築こうとしないことも、そばめになることに通じる。イエス様はそばめをとらない。ただしみやしわやその類のものが何一つない栄光に輝く教会だけを花嫁となさる。だから、そばめのような者には決してならないようにしよう。もし現在、なってしまっていたら、悔い改めてその状態から抜け出そう。

4-5節。シェバを討伐するにあたって、ダビデはヨアブのことを除外して、アマサを通してユダの人々を動員することにした。クレタ人とペリティ人を中心としたダビデ軍団は強力だが、ヨアブとの結びつきも強い。ダビデはこの際、軍の主力を変えたかった。アマサを中心にユダの人々からなる軍団によって戦おうということだ。ところが、アマサは三日経ってもユダの人々を動員することができなかった。なぜか?アマサも、ユダの人々も訓練されていなかったからだ。命令一つで、すぐさま準備をすませて、戦場で命をかけて戦う軍隊というのは一朝一夕で生まれることはない。戦場に行くとなれば、命をかける覚悟が必要、食糧や武器が必要、指揮系統を整えることや連携が必要だ。時間がかかる。ベテランの司令官によって動かされる訓練された軍隊ならいざしらず、まだまだ経験値不足のアマサとユダの人々にはすぐに集まるということだけでも荷が重いことだった。ここでアブサロムの抱えていた問題が、そのままダビデに移っていることを見ることができる。訓練されていない軍隊は戦いに用いられない。教会は神の軍隊である。私たちが霊的戦いや伝道や奉仕に用いられるようになるためには、それ相応の訓練を受ける必要である。あなたはその訓練を受けているか。神様からの命令をしっかりと聞き分ける霊性を日々のディボーションによって鍛えること、命令が与えられたらためらうことなく即座に服従すること、信仰による勇気をもって大胆に行動を起こすこと、敵の攻撃を神の武具によって防ぎ、真理にしっかりと踏みとどまることなど、どれもすぐに身に着くことではない。訓練を受けよう。そうすれば、あなたは我らの王イエス様の戦いに用いられる栄誉にあずかることになり、神様から賞をいただくことができる。

6-7節。ダビデはシェバをアブサロム以上に危険視した。この判断は正しいだろう。シェバを放置したら、反ダビデの機運が国全体に広がることになる。わずかなパン種がねりこ全体を膨らませると書いてある通りだ。自分の歩みのうちに、肉的な考えや発言、行動を見出したら、放置しないようにしよう。放置して、私たちの全部を汚してしまい、命取りにならないようにしよう。丁寧に一つずつ対処しよう。
シェバはなんとしても対処したい。その判断は正しい。しかし、アマサが戻ってこないので、ダビデは仕方なくアビシャイにシェバ討伐を命じざるをえなくなる。ヨアブではなく、ヨアブの兄弟アビシャイだ。ダビデとしては、ヨアブに頼ることだけは何としても避けたかったという心情が伝わってくる。でも、7節を見ると、アビシャイがシェバ追跡に用いた兵は、ヨアブの兵だと書いてある。結局、ダビデはヨアブに依存せざるを得ない状況にあったのだ。Ⅰテモテ5:22。この理由がヨアブを見るとよくわかる。一度指導者を立てると、問題のある指導者だった場合に簡単にやめさせることはできなくなるのだ。その指導者が有能であればであるほど、その指導者に依存してしまい、その指導者に頼りたくなくても、頼らざるを得ない状況に追い込まれる。人を任命するときには、とにかく立てる必要があるから立てるというのではなく、Ⅰテモテの御言葉に基づいて、資格があるかどうか審査をしなければならない。

8-13節。ヨアブは、ダビデ王が立てた司令官であるアマサを暗殺してしまった。これはまさに暗殺ではあるが、白昼堂々と行っている。そして、イスカリオテのユダがイエス様を口づけで裏切ったように、ヨアブは親愛の情の口づけの挨拶と同時にアマサを暗殺してしまっている。あまりにもひどいことをしている。明らかに罪であり不法だ。ところが、誰も止めない。ダビデ軍団は完全にヨアブの手中にあるので、もうヨアブが何をしてもダビデも誰も止められなかった。ヨアブの影響力は従者の言葉からもわかる。「ヨアブを愛する者、ダビデに味方する者はヨアブに続け」だ。この言葉で兵士は動いた。ダビデ王よりも、ヨアブのことが先に来ている。ここにヨアブの本音が現れている。ヨアブは表面的には王に忠誠しているようだったが、王のことよりも自分中心だった。自分中心なので、ダビデが立てたアマサを排除してしまっている。残念ながら、こういう人は教会にも存在することがある。イエス様よりも自分中心なので、イエス様が立てた指導者を排除してしまうのだ。そんな人が本当にいるのか?Ⅲヨハネ9-10に書いてある。イエス様を主と呼びながら、実は自分の腹に仕えている。そういう人はどうなってしまうのか?「主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と言っても、「あなたがたのことは全然知らない。不法を行う者ども、私から離れ去れ」と天国から門前払いされてしまうことになる。自分ではなく、イエス様中心で生きる者になろう。

14-22節。この内容は、より良い方法が存在しているという可能性を私たちに提示している。ヨアブは、シェバを倒すために、アベルという町を包囲して、攻城戦を展開した。これは明らかにやりすぎだった。町全体がシェバ側についていたわけではない。だから、交渉すれば、町の長老たちがシェバをヨアブに差し出すということは十分ありえた。そうすれば、流血を最小限にとどめ、主の嗣業の地である町の被害を避けることができる。しかし、ヨアブは血を流して解決するのを常としていたので、そういう方法を行わなかったし、もしかしたら思いつきもしなかったかもしれない。ヨアブのように、多くの人が、それまでの慣れ親しんだ方法、手順をそのまま考えなしに機械的に行ってしまうところがある。本当はその方法だと効率が悪いのに、無駄なのに、時と場合を考えずにいつもそうしているからということでしてしまう。だから、私たちは何か重要な行動を起こすときには、主からの知恵を求めることが必要だ。「今回はどういう方法をとれば良いでしょうか。どういう手順をとれば良いでしょうか」そう聞くと、伝道であれ、仕事であれ、人間関係であれ、主が知恵と導きを与えてくださり、どうすれば良いか教えてくださる。
御言葉や思いやその時に起こる出来事による何等かのサインによってどうすれば良いかわかる。その通りに行うなら、機械的に行うよりも何十倍もの実を結ぶ。御言葉を聞いて悟ると30倍、60倍、100倍の実を結ぶとイエス様が言われた通りだ。知恵がどういうふうに結果に違いをもたらすか、知恵のある女の行動を見ればわかる。この女は、町の有力者としての立場があったのでも、たくさんの敵を相手にするだけの腕力があったのでもない。ただ知恵があった。その知恵によって、ヨアブと町の人々を説得して、ただシェバ一人の命ですべて決着をつけるようにさせた。知恵があれば、ほかの何も持っていない立場がなく、非力な女性ですら、町を守り、たくさんの命を救うことができるのだ。あなたが主に聞いて、知恵をいただいて行動するならば、あなたの周りの大事な人々の命を救うことができる。

23-26節。ダビデはヨアブに対して何も語っていない。ただ、ここからイスラエル全軍の司令官という地位に返り咲いたという事実だけがわかる。アマサの血を流して得た血みどろの地位だ。ヨアブは空しいものを得た。人はたとえ全世界を手に入れたとしても、自分の命を失うなら何の得があろうかとイエス様は言われた。主に喜ばれない方法で得た地位はやがて失われ、主の御前で永遠の裁きにかけられることになる。
新たな役職として、労役の監督官としてアドラムが任命されている。ここで、サムエルによって予告された通りに、王が国民を奴隷のように労働に従事させるということが実現している。ダビデは反抗しやすいイスラエルを統制する方法として、労働によって抑圧するという道を選んでしまった。これは孫のレハブアムの時代に王国を分裂させるきっかけとなる。イエス様はこのような統治の方法をとらない。イエス様は愛によって支配される方であり、神の国では偉い者が仕える。救いの喜びの中で互いに愛し合い、互いに喜んで仕え合う。抑圧されて、責められて、奴隷のように半強制的に従うというのは、主の御心ではない。それはクリスチャンの生き方ではない。ローマ8:15。イエス様の愛の支配のもとで、神の子として、喜びにあふれて仕える者になろう。

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