しなければならないことをしただけです。[ルカ17:1-10]

ルカによる福音書
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つまずきをもたらす者は悲惨です。クリスチャンは回復をもたらす者、奇跡を起こす者、僕の心を持つ者として召されています。

しなければならないことをしただけです。[ルカ17:1-10]

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【ノート】
イエス様がクリスチャンに欠かせない態度を3つの教えを通して語ってくださっている。イエス様は1節で弟子たちに言われたと書いてある。対象はクリスチャン、特に信じたばかりというよりは、イエス様に従っていこうという決意を固めている人々だ。

第一の教えは1-2節。つまずきをもたらす者は悲惨だ。まず、つまずきは避けられない。つまずきはスカンダロンというギリシャ語が使われている。スキャンダルの語源となっている言葉だ。つまずきとは、罠の棒、罠の引金、罠自体、障害物、人を失敗させたり罪を犯させたりする人や物のこと。ここでは特に罪を犯させる人や物のことを指して使われている。勘違いしてはならないのは、イエス様は罪を犯すことが避けられないと言ったわけではない。罪は犯すものだ。仕方ない。あきらめようと言っているのではない。ただ、私たちを罪に誘う人や物は、私たちの人生につきまとうので、誘惑があるということは絶対に避けて通れないということ。誰もいない荒れ野に行けば誘惑がないか?ある!イエス様は荒れ野で誘惑を受けた。人間がいない場所にもサタンや悪霊どもはいる。天国に入るまでは誘惑はある。しかし、恐れることはない。神が私たちと共におられる。私たちは戦いがあることをわきまえて神の武具で武装して備えればよい。祈りと御言葉で神との交わりに親しむ、ディボーションをすることでちゃんと勝てるようになる。罪の誘惑に備えて武装する者となろう。
しかし、問題はつまずきをもたらす人間だ。イエス様はつまずきをもたらす人間のことを不幸だと言われた。これは悲惨な人間に対するイエス様の悲しみを表した言葉。ああ、なんて悲惨なんだ!どれだけ悲惨なのか?ひき臼を首にかけられて海に投げ込まれる方がましなくらい悲惨。ひき臼というのは、石でできた臼で、その重さを利用して穀物をひくための道具。だから、とにかく重い。大きさにもよるが、100kgを超えるものも普通にある。それを首にかけられて海に投げ込まれたらどうなるか?死んでしまう!どんなに泳ぎが得意な人でもあがって来れない!死んだ方がましだということ。死んだ方がましなのであれば、つまずきをもたらす人間はどれだけ悲惨なのか?死ぬ以上に悲惨なことがあるか?イエス様が「ただ死んだ方がましだ」と言わずに、海に投げ込まれて、絶対に浮上できないことを例に出されたのはなぜか?それは何を意味しているのか?イエス様はこの直前で何について語られたか?金持ちとラザロの話だ。金持ちは絶対に出ることのできない陰府と地獄で苦しみ続けなければならなかった。もし直接的に言うなら、つまずきをもたらす人間は陰府で苦しみ続けるということになる。私たちは絶対につまずきをもたらす人間、他の人を罪に誘う人間になってはならない!それでは、つまずきをもたらす人間とは具体的にどういう人か?もし私たちにあてはまるところがあれば悔い改めよう。

第一に、人を積極的に罪に誘う人がそれにあたる。人に性的な罪の誘惑をしたり、違法な薬を進めたり、クリスチャンの信仰に対して疑念を植え付けようとしたりする。アメージンググレイスを作詞したジョン・ニュートンはもともとそういう人間だった。人の信仰をくじき、堕落の道をたどるべき理由を力説したことがあった。そこまでいかずとも、聖書で明確に命じられていることについて、奇妙な神学を導入して、「今の時代はこれを守る必要がない」と言ったり、御言葉に反対していろいろな人が聞いているところで「別にこのくらいよいじゃないか」「大したことはない」「みんなやっている」と罪を罪として認めなかったりすることもひき臼をかけられて海に投げ込まれる方がましなつまずきを与える者にあたる。私たちはどんなときも御言葉だけを唯一絶対の基準としよう。

第二に、人を消極的に罪に誘う人がそれにあたる。もし誰かが罪を犯して、その罪を悔い改めようとしないなら、たとえ、その人がその罪を肯定も否定もしなかったとしても、誰に対しても何も言わなかったとしても、依然としてその人はメッセージを発している。つまり、その人の罪深い生き方全体がメッセージとなっている。ほかの人々が受ける誘惑はこうだ。「あの人はあの罪を犯している。それであれば私も同じことをしても良いのではないか?」何も言わずとも、確かにつまずきをもたらしている。もし私たちが証し人として生きなかったら、つまずきをもたらす者になってしまうのだ。

クリスチャンはつまずきをもたらす者ではなく、回復をもたらす者として召されている。では、つまずきではなく、回復をもたらすためにはどうすればよいのか?3-4節。すぐに目につくのは赦しなさいだが、見落としてはならないのは、戒めなさいだ。まず、戒める。そして対象は「兄弟」と書いてあるから特にクリスチャンだ。もし誰かクリスチャンが罪を犯していることが知っていながら、全く指摘しないのであれば、それはその人が罪を犯すことを認めてしまっていることになる。そんなことがあってはならない。罪を指摘するにあたってのマニュアルはイエス様がマタイ18:15-17で与えてくださっている。誰かが罪を犯していたら、まず本人に対して一対一で、愛をもって指摘しよう。たくさんの人の前で指摘したり、本人がいないところで陰口を言ったりしてはならない。それこそつまずきになってしまう。次に、二人か三人で指摘する。最後に、教会に申し出る。それでも悔い改めないなら、クリスチャンではない者とみなす。では、悔い改めたら?赦す。
一日に七回も自分に対して罪を犯してきても、そのたびに「悔い改めます」と言ってくるなら赦す。一日に七回も罪を犯してくるなんて、「悔い改めます」と言われても本当か、疑ってしまうだろう。それでも赦す。では、八回目からは断固として許さずに絶縁するのか?そんなことはない。七は完全数だ。主の御心は、完全に何度でも赦すことだ。そんなに赦さなければならないなんて大変だと思うかもしれない。でも、実は、完全に赦しなさいというのは、福音の裏返しでもある。それは、私たちが完全に神様から赦されているということを意味している。本来なら私たちはつまずきをもたらす者として、みんな死んだ方がましな悲惨な者だった。しかし、イエス様が私たちの罪を完全に取り除くために、私たちの身代わりに十字架で死んでくださった。そのお陰で、私たちの罪は完全に赦されている。だから、私たちにも赦すように命じられているのだ。赦すというのは、何だか相手を攻撃する権利を手放しているように思う人がいるかもしれない。逆である。人を恨む心というのは、苦しいものだ。それは神から来たのではないゴミのような悪いものだ。ゴミを大事にもっておこうとしてはならない。私たちは赦された者として他の人を赦す権利を行使するのだ。それによって憎しみから解放されて自由になるのだ。赦すのは特権!恨みつらみはゴミだ!特権を使って何度でも赦し、自由になろう。

第二の教えは5-6節。信仰には絶大な力がある。弟子たちはイエス様の教えを実践するのは難しいと思ったようだ。特にいくらでも赦すというのはハードルが高い。難しいことを実践するには、何が必要か?信仰だ。そこで、弟子たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と言った。人を完全に赦すためには、自分たちの信仰では全然足りないと思ったのだ。それに対するイエス様はどうしたか?イエス様は信仰を増し加えるために弟子たちの頭に手を置くことはなかった。その代わりに、イエス様がなさったのは、御言葉を語ることだ。
ローマ10:17には「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書いてある。あなたは御自分の信仰の大きさがどのくらいだと思うか?イエス様はからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に命じて海に根付かせることができるという。つまり、奇跡を起こせるということだ。からし種は0.5mmくらいの大きさ。見えないくらい小さい。これ以上ないほど小さなもののたとえだ。ほんのからし種くらいのサイズでも奇跡を起こせるということ。あなたは何らかの奇跡に用いられたことがあるか?もしそうでないなら、あなたの信仰のサイズはからし種よりも小さいことになる。全くないに等しい。心配しないでいただきたいのは、奇跡が起こせないからと言って、あらゆる信仰が全くないということではない。信仰と一言で言っても、いろいろな面がある。神の存在を信じることは信仰だ。イエス様の十字架の死と復活によってすべての罪が赦され、永遠の命が与えられると信じることも信仰だ。神が何でもおできになる方だと信じるのも信仰だ。そして、クリスチャンであれば、これらのことを信じているはずだ。これらのことを信じることはたやすいことだ。ここで問われているのは、主なる神が何でもおできになるという信仰ではなく、私も主にあって何でもできるという信仰だ。イエス様はその信仰を私たちの心に生じさせるためにこの御言葉を語られたのだ。弟子たちは、「できない」と信じていた。自分には人を赦すことができないと。私たちはどうか?罪を避けることができない。伝道なんてできない。癒しを体験することができない。奇跡を起こすことができない。そう信じていたら、確かにできない。できないと信じたら絶対にできない。そうではなく、全知全能の神が私と共におられるのだから、私は御言葉で命じられていることを行うことができると信じる。そういう信仰がほんの少しでもあるなら、絶対に無理だと思われたことが確かにできるようになることを体験する。これはただの精神論ではない。精神論であれば誰でもできるはずだが、完全な赦しはクリスチャンしかできない。桑の木が海に根付くような奇跡も精神論では起こらない。行う神がその信仰と共に働いて不可能を可能にするのだ。信仰は神からの賜物だ。賜物はすべて熱心に求めることによって得られる。この御言葉を通してすべてを可能にする信仰を求めて、豊かにいただこう。
信仰があっても、何もしなかったら何も起こらないし。信仰は使わなければならない。それでは、そういう信仰を具体的にどうやって使っていくのか?信仰をもって祈るのもよい。しかし、ここではイエス様がもっと強力な手段を教えてくださっている。「桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』」と書いてある。祈るのではなく、困難に思われることに対してイエス様の権威によって命令するのだ。主イエス・キリストの御名によって〇〇兄弟を恨む心よ、出ていけ。主イエス・キリストの御名によってこの人間関係よ、回復されよ。主イエス・キリストの御名によって経済にブレイクスルーあれ。主イエス・キリストの御名によって家系に働く呪いよ出ていけ。主イエス・キリストの御名によって、この罪よ、取り除かれよ。主イエス・キリストの御名によって病癒えて健やかになれ。主イエス・キリストの御名によって日本よリバイバルされよ。このように、主にあって何でもできるという信じよう。困難に思えるものに対して命令を下し、困難を克服する者となろう。

第三の教えは7-10節。僕の心を持ちなさい。ここでいう主人は主とは違う。イエス様はふんぞり返って仕えてもらう人ではない。イエス様は御自分のことを「私はあなたがたの中で給仕をする者だ」と言われた。また、御国に私たちを迎えるときも手料理をふるまってくださると約束しておられる。私たちが立派な人生を歩むなら、「忠実な良い僕だ。良くやった」とほめちぎってくださるし、私たちの働きひとつひとつに対して惜しみない報いを与えてくださる。主はそんな最高の主人だ。
ここで焦点があてられているのは主がどんな方かではなく、私たちの心の態度だ。私たちは、僕の心を持たなければならない。私たちが不可能を可能にする信仰を持つならば、遠からず勝利を体験することになる。完全な赦しを実践できるようになる。奇跡やリバイバルを起こしたりすることもできる。そんな大勝利を得たときには、イエス様が冒頭で言われた通り、つまずきがあることに気をつけなければならない。気をつけなければならない罠は、「おれすごい」と高慢になることだ。その勝利をもたらしたのは誰か?信仰を与えたのは誰か?もちろん神だ。しかし、それはすっかり忘れてしまって、「私はなんてすばらしいんだ」と主を賛美するのではなく、自分を賛美し始める。
もう一つの罠は、勝利に酔いしれて、自己満足に陥ってしまい、その他のことをしっかりしなくなることだ。「私はこんなに結果を出したのだから、これ以上のことはしなくて良い」として、とどまってしまう。本来神が用意しておられた約束の地のほんの一部の獲得で終わってしまうのだ。あるいは、「私はこんなにがんばったのだから、ちょっとくらい問題ない」としてお金の問題や性的な罪を犯してしまう。実際に大きな教会、大きなミニストリーの指導者がこのつまずきでつまずいてしまうことは教会の歴史の中で何度もあった。そんなことにならないように、私たちは勝利が得られたときこそ、僕の心を忘れないようにしよう。

優れた僕の特徴は、勤勉さと謙遜さだ。僕は勤勉だ。僕は畑仕事をがんばったから、後は何もしないなんてありえない。畑仕事もすれば給仕もする。命じられたことは皆果たす。つまり、一つの勝利を体験したら、その次に神様が望んでおられることにとりかかる。そうやって神の御心のすべてを行っていく。約束の地をすべて占領し尽くす。一部の御言葉だけを守ってほかはおろそかにするのではなく、主が御言葉で命じておられることは全部守る。
そして、僕は謙遜だ。謙遜とは自分を過大評価せず、あるがままに見ること。いつも分をわきまえている。自分の上には主人がいて、主人に命じられたことを行うのは当然だと知っている。また、自分が仕事ができるのは、主人がそのための権威を与えてくださっているからだということもわかっている。それで、命じられたことをことごとく果たしても、少しもおごることなく、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と事実を言い切ることができる。つまり、勝利に次ぐ勝利を重ね、神様からの召命を完全に全うしても、それは神様から与えられた信仰によって、神様が私を通して働いてくださったのだから、ひたすら神様の栄光を現すことに徹することができる。人を完全に赦したら、「しなければならないことをしただけです。」無料食堂で大勢の人の空腹が満たされたら、「しなければならないことをしただけです。」日本にリバイバルを起こして大勢の人をイエス・キリストに勝ち取ったら、「しなければならないことをしただけです。」僕の心を持つ者となろう。

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