臨在の幕屋―契約の箱と贖いの座

臨在の幕屋
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神様の臨在に到達するにはどうすればよいのでしょうか?神様の臨在には何があるのでしょうか?
シリーズ最終回です。

臨在の幕屋―契約の箱と贖いの座

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【ノート】
主なる神様がモーセを指導者に立ててイスラエルの民を出エジプトさせた後、何もない荒れ野で、臨在の幕屋は建設された。神御自身が建設のための詳細な命令をなさった。ただ御言葉でモーセに指示なさっただけでなく、視覚的にも天にある完全な幕屋を見せて、その写しを造るように命じられた。臨在の幕屋は人が神と共に住むために建てられた。臨在の幕屋にあるすべての祭具は、神の臨在に近づくために必要なことを啓示している。東にある唯一の門は、唯一の罪からの救い主イエス・キリストを象徴する。青銅の祭壇は罪の贖いのための生け贄として十字架で死なれたイエス様。その贖いによって私たちのすべての罪は赦された。洗盤は御言葉の水の洗いによる日常の罪の悔い改め。聖所を覆う4重の幕は、見栄えのしないじゅごんの皮が内なるものへの注目を呼びかけ、赤くぬった雄羊の毛皮は罪を覆うイエス様の血、黒い雄山羊の毛皮は人間の罪の深刻さと神の恵み、内側の聖幕は神の偉大さと二つのものを一つにする奥義を意味する。イエス様による罪の覆い、イエス様の 聖所に入ると右側には聖餐と来るべきメシアの大宴会を象徴するパンの机、左側は世の光なるイエス様を象徴する金の燭台があった。旧約では聖所の真ん中、新約では至聖所に金の香をたく祭壇があり、祈りによって神の臨在に近づけるということだった。

今回は最後の契約の箱と贖いの座だ。契約の箱に贖いの座がかぶさっているので、この二つはセットのようにとらえられるが、象徴する意味は違う。
まずは贖いの座についてみてみよう。出エジプト25:17-22。金の燭台と同じく贖いの座は純金。贖いの座にはケルビムがある。ケルビムは天使。単数形だとケルブ、贖いのふたには二人いるので複数形のケルビムとなっている。人が神から追放された後、エデンの園にはきらめく剣の炎とケルビムが番人としていた。ケルビムはエデンの園、神の臨在の近くにいる天使。第三の天の御座の前にいる生き物もケルビムだ。

20節ではそのケルビムの翼で贖いの座を覆うと書いてある。覆うは、原語では防御するという意味のあるヘブライ語が使われている。詩編91:4。羽や翼で覆うというのは神の恵みによる御守りの象徴。翼で覆われているところは安全で、安息が保障されている。ケルビムで覆われている贖いの座は、永遠の安全、永遠の安息の入口なのだ。

贖いの座の中心から神は語られる。そこはケルビムの目が注がれる場所。ケルビムの目は互いを見ているのではない。そこに注がれる血を見ている。血こそが、地上の幕屋と天上のエデンの園をつなぐ。ケルビムは人が天国に入る資格があるか見張っている。贖いの座に天に通じる贖いの血が注がれているか見張っている。
では、資格のない者がそこに近づいたらどうなるのか?死ぬ。見ただけで死ぬ。アロンの息子のナダブとアビフが死んだのは、どうやら贖いの座に不用意に近づいたことと関係している。レビ16:1-2。10章では香をたいたときに死んだと書いてあるので、香をたくときに贖いの座に近づいたのだろう。贖いの座と契約の箱を不用意に用いて死を招いた事件はほかにもある。
サムエル上4章では、イスラエルがペリシテ人相手になかなか勝てないので、戦場に契約の箱をかついで持ってきた。イスラエルが勝てなかったのは指導者たちが罪を犯して御心に適わなかったからなのだが、罪を悔い改めるのではなく、契約の箱さえ持ってくれば勝てると思った。契約の箱を偶像のように扱った。それでイスラエルはペリシテ人に散々やられてしまった。神を何でも言うことを聞く偶像のように扱ってはならない。
サムエル上5章では、今度は契約の箱を戦利品として持ち帰ったペリシテ人が神に打たれた。イスラエルが負けても、イスラエルの神は御自分一人で栄光を現すことができる。神の民が全員堕落しても、神は御自分一人で栄光を現すことができる。神は私たちに依存しないお方だ。
サムエル下6章では、ダビデが契約の箱をエルサレムに運ぼうとしたとき、牛にひかせて運んでいたところ、牛がよろめいたので箱をおさえたウザが神に打たれて死んだ。律法では契約の箱は動物にひかせるのではなく、レビ人がかつぐように定まっていたからだ。そこでダビデは改めてレビ人を用いて契約の箱を運んだ。
それでは、契約の箱は災いばかりもたらすのかというとそうではない。契約の箱がオベド・エドムの家にあったとき、オベド・エドムとその家の一同と財産を祝福された。その祝福は周囲の人々の目に明らかだった。神の臨在は私たちが正しく扱うなら祝福をもたらす。正しい手順で神の臨在に近づく者となろう。
では、贖いの座に近づくにはどんな準備が必要だったのか?ただ、年に一度の贖罪日に入念な準備をした上で、ただ大祭司だけが入って贖いの座に血を注ぐことで罪が覆われ、赦された。それだけ贖いの座は聖なるものだった。
贖罪日における至聖所での手順。贖罪日はユダヤ歴で第七の日の10日、太陽暦では毎年9月末から10月半ばの間にあたる。
①レビ16:4。水で全身を洗う。聖所に入るときは手足を清めるだけでよかった。至聖所に入るときには全身を徹底的に清める。神の臨在に近づくには、あらゆる罪を徹底的に悔い改めて、清められることが必要。神の臨在がわからないとすれば、その理由の一つは、悔い改めていない罪、解放されていない罪があるということ。
②亜麻布一式だ。つまり、真っ白の服。これも一点の汚れもない清さを要求するもの。そして、亜麻布一式の服というのは実は、普通の祭司の服と同じだ。大祭司にはエフォドと胸当てがあり、そこがほかの祭司と違う。きらびやかで目立つ。しかし、神の臨在に入るときにはそういうものをすべてはずす。へりくだりを意味する。神の臨在に入るためには、自分の肩書、能力、所有物など、神以外に誇りとするものが何一つあってはならない。
③レビ16:11-14。罪のための雄牛をほふる。
④香をたく祭壇にある香炉と両手いっぱいの香をとって、垂れ幕の内側に入り、至聖所を香の煙で満たす。罪ある人間が直接神の顕現を見て死ぬことのないためだ。香は祈り。祈りで充満しているところに主が現れてくださる。
⑤ほふった雄牛の血の一部を指で贖いのふたの東側に振りかけ、また指で七度その血を贖いのふたの前にふりかける。主が顕現される場所を清めるため。ふりかける血は十字架で流されたイエス様の血を象徴する。七は完全数。イエス様の血には完全な贖いの力がある。イエス様の血による贖い、罪の赦し、罪からの清め、和解と平和、良心の清め、義認、サタンに対する勝利は完全なもの。
⑥レビ16:15-22。雄山羊を一匹は主のため、もう一匹はアザゼルのためにささげるとある。どちらの山羊もイエス様を象徴する。贖いの二つの効果。一つは主のための山羊であり、イエス様の贖いは大胆に主に近づけるようにするということ。アザゼルとは、よく意味がわかっておらず、身代わりの山羊という意味か完全な排除という意味。21節では、大祭司がイスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白しとある。それぞれ罪責とは過ちを指し、背きとは意図的な罪を指し、三番目の罪は的外れを指すヘブライ語が使われている。あらゆる種類の贖いが必要な内容がここに含まれているということ。それが荒れ野に追いやられる。完全に排除される。そして、その山羊は二度と戻ってこない。これは罪を完全に消し去ってくださるということ。
詩編103:12。イザヤ1:18。ヘブライ10:17。イエス様の贖いは私たちを神に大胆に近づけるようにし、罪を完全に排除してくださる。
⑦レビ16:23-24。衣服をぬいで体を洗って着替える。なんと、一度神の臨在に進み出るためだけの衣服、洗いなのだ。神の臨在に近づくにあたっては、そのためだけの備え、ふだんよりも特別な備えが必要ということ。特別な清さ、特別なへりくだりが必要。
⑧焼き尽くす献げ物の雄羊をささげる。焼き尽くす献げ物の意味は献身と全き従順。自分の人生のすべてを献げて仕えようとする者が神の臨在に触れることができる。これらが贖罪日での手順。
レビ16:34。年に一度。罪の贖いの有効期限が1年だった。ヘブライ10:1-3。ここ雄牛や雄山羊による、つまり旧約の生け贄による贖いの欠陥、不完全さを見ることができる。しかし、イエスによって、永遠に「ただ一度」になる。ヘブライ9:25-26。ヘブライ10:10-14。すべての罪は赦された。完全に永遠に赦された。罪を犯したら、罪を告白して清めていただこう。人との間の罪だったら、和解のための謝罪もしよう。しかし、そのあとは、悩んではならない。忘れよう。救いの恵みに感謝して喜びをもって仕えよう。

契約の箱。出エジプト25:10-16。箱は入れ物。掟の板を入れる。これは石板に書かれた十戒を指す。しかし、実際には十戒以外に二つのものが入っていた。ヘブライ9:4。
マンナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板=新改訳では契約の二つの板。

まずはマンナの入った金の壺。マナといえば、イスラエルの民が荒れ野に40年間いたときに、毎日降り注いだ不思議な食べ物だ。ウェハースのような味がすると書いてある。降り注いだマナについて、出エジプト16章によるといくつかの掟がある。各自、必要な分だけ集めること。翌朝までとっておくことができないこと。安息日にはマナが降らない代わりに、6日目には二倍集めてよいことなどだ。マナは私たちに神様への信頼を教えている。毎日、マナが降る。必要な霊肉の糧は神様から与えられる。日用の糧は必ず与えられる。だから、明日のことを思い煩わなくてよい。マタイ6:33-34。持っているもので満足しよう。ヘブライ13:5。今日も明日も神がその日に必要なマナを降らせてくださる。このことを覚えれば、主の平安でいつも満たされ、神の国と神の義を求めることに集中することができる。
普通のマナは永遠に残るものではない。食べたらなくなるし、とっておくこともできない。しかし、一つだけ例外として、決して腐らないマナがあった。それが壺に入ったマナだ。出エジプト16:33-34。蓄えておけたから蓄えた。つまり、このマナだけはずっと腐らずに残った。この永続するマナこそが、命のパンなるイエス様を予表する。イエス様は5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹させた後言われた。ヨハネ6:48-51。イエス様を信じる者はイエス様によって永遠の命を得る。死すらも克服できる。ますます心配せずに、平安と喜びに満たされて生きていくことができる。

次はアロンの杖。復活によって証明された大祭司なるイエス様。アロンは主によって大祭司として立てられた。しかし、イスラエルの人々はある時、アロンの権威を疑った。本当に主がアロンを祭司として立てたのか?それは人間的なものなのではないか?そこで、証明が行われることになった。12部族の代表者たちの杖が集められた。レビ族からはアロン、ほかの部族からはほかの部族の代表者合計12本の杖が集められ、幕屋に並べられ一晩たった。するとどうなったか?
民数記17:23。ただアロンの杖だけが花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた。死んだ木材から復活の命が芽生えた奇跡だ。それによってアロンの祭司権が確かなものと証明された。同じように、イエス様は十字架で死なれ、三日目に復活されたことにより大祭司であることを証明なさった。ヘブライ7:16-17。大祭司は神と人との仲介役。イエス様はどんな大祭司か?ヘブライ2:17。憐み深い。私たちの弱さに同情し、一緒に泣いてくださる方。忠実。24時間365日永遠に至るまでその職務を全うする。ヘブライ4:15-16。罪を犯されない。アロンのように金の子牛を造らない。この方が仲介役なら、私たちは恐れることなく恵みの座に近づける。恵みの座はもともとも旧約でいうところの贖いの座でもある。不用意に近づいた即死のはずの贖いの座がイエス様によって大胆に近づける場所に変わった。

最後が契約の石板。それは十戒の二枚の板だ。片方には神様との関係についての第一から第4の戒め、もう片方には人間関係についての第5から第10の戒めだ。十戒の板は生ける御言葉なるイエス様を象徴する。十戒は律法(トーラー)の代表。トーラーは狭義では五書、広義では聖書全体を含む概念。
そして、聖書の中心にはイエス様が啓示されている。だから、イエス様のことを初代教会ではハ・トーラー=その律法と呼ばれることもあった。律法というとイエス様に敵対したファリサイ派の人々や律法学者たちが説いた律法主義を思い浮かべるかもしれない。しかし、律法自体は神がお与えになったものであり、良いものだ。問題は律法に啓示されているイエス様を無視することだ。イエス様なきトーラーは律法主義なのだ。聖書と律法の中心はイエス様。マタイ5:17-18、ヨハネ5:39、46、ルカ24:44、使徒28:23。イエス様は御言葉そのもの。ヨハネ1:1。黙示録19:13。黙示録1:8。アルファベットのすべてがイエス様を示す。イエス様との交わりを深めるには?御言葉に親しむこと。御言葉の中で、イエス様は私たちに出会ってくださる。

最後に、契約の箱のゆくえについて。契約の箱は40年未満の間、ダビデの幕屋におさめられた。その幕屋では契約の箱と贖いの座があり、幕屋があり、それだけ!神の臨在がむき出しになっていた。それ祈りと賛美の奉仕者が取り囲み、絶えず祈りと賛美がささげられ続けた。歴代誌上16:1-4,37。ダビデは預言者でありイエス様の型でもある。このダビデの幕屋は天国での礼拝の予型。私たちはやがて、むき出しの臨在の前で祈りと賛美を捧げ続ける天国の永遠の礼拝に参加することになる。地上は天国の予行演習。私たちも神様に絶えず祈りと賛美をささげる礼拝をささげよう。

ダビデの幕屋の後は、ソロモンの神殿におさめられた。では、バビロン捕囚のときにはどうなったのか?Ⅱマカバイ2によると預言者エレミヤが幕屋と契約の箱と香をたく祭壇をかついでヨルダン川東岸のネボ山に登ったという。エレミヤはそこに洞穴を見つけて幕屋と契約の箱と香をたく祭壇を中に入れて入口をふさいだ。エレミヤに従ってきた人々は後から道しるべを造ろうとして戻ってみたが、もはや洞穴を見つけることができなかった。「このことを知ったエレミヤは、彼らを叱責してこう言った。『神が民の集会を召集し、憐れみを下されるときまで、その場所は知られずにいるだろう。そのときになれば、主はそこに運び入れたものを再び示してくださり、主の栄光が雲とともに現れるだろう。モーセに現れたように、また、ソロモンが神殿の聖別式を厳かに行ったとき現れたように。』Ⅱマカバイ2:7-8。箱はどこに行ったのか?主の栄光が雲と共に現れるのはいつか?黙示録11:19。天に挙げられるときにお目にかかれる。

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