臨在の幕屋―神と共に住む

臨在の幕屋
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幕屋建設の目的は、神が人と共に住むことです。

臨在の幕屋―神と共に住む


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【ノート】
主なる神がモーセを通してイスラエルを出エジプトさせた。イスラエルは真っ二つにわかれた葦の海を渡った。それは、クリスチャンにとっての水のバプテスマだ。それまで主は族長たち個人個人に御自身を表されたが、モーセの時にはイスラエル全体に御自身を表された。それまで奴隷だったイスラエルはエジプトから出て独立した。これからは、イスラエルは独立国家にならなければならない。しかも、ただの独立国家ではなく、主なる神様御自身を王とする独立国家とならなければならない。主はそのために、必要な様々なものを与えられた。主は荒れ野で雲の柱と火の柱で導きを与え、マナを与え、律法を与え、さらには幕屋建設の具体的な指示をお与えになった。

クリスチャンも一人一人サタンの支配から解放されて、信仰に固くたつために必要なものを神様から受け取らなければならない。私たちはそれを受け取っているだろうか。信仰に堅くたっているだろうか。それとも、まだ信仰の初歩の初歩から改めて教えてもらわないといけない、何一つ満足にできないよちよち歩きの赤ん坊のようなクリスチャンだろうか。私たちは赤ん坊クリスチャンを卒業して、各々が主から糧をいただいて力強く歩んでいけるクリスチャンとならなければならない。必要なものは、すべて恵みとして与えられる。問題は私たちが飢え渇いて霊的成長を求めるかどうかにかかっている。

雲の柱と火の柱は聖霊様による導きだ。何か選択に迷うときに、大事な決断を下すときに、どうして信仰のない人々からアドバイスを求めるのか、どうして何も考えずに漫然と歩もうとするのか、聖霊様の導きを求めよう。どうすればよいか御言葉を通して祈りを通して導いていただこう。
マナは霊肉の糧、肉体を養う食べ物と霊を養う食べ物である御言葉を指す。クリスチャンの生き方とは超自然的な生き方だ。私たちは自分の力では何も実を結ぶことができない。何も成し遂げることができない。自分の力では自分も他人も救うことができない。すぐに燃え尽きてしまう。疲れ果ててしまう。私たちは、神に信頼し、神に養われなければならない。神こそ私たちの力。神に養われるとき、疲れ果てることがない。
律法は、普遍的な善悪の基準を与える。何が正しくて何が罪であるかは、全部律法を通して教えられている。風のように変わりやすい世の中の道徳的価値観を信じてはならない。同じく風のように変わりやすい自分なりの基準に従ってはならない。人間の空しい騙しごとの過ぎない哲学を信じてはならない。そんなものは何の役にも立たない。そういうものを少しでも信じることは善悪の知識の木の実を食べて神に反逆して自分が神だと高ぶることにほかならない。律法こそ、つまりそれをお与えになった神こそが善悪の絶対的な基準である。律法は私たちをお造りになった神様が、人間の人間として生きるべき道を示している。
そして、出エジプト記を読むならば、最後に臨在の幕屋が出てくる。幕屋建設についてはそこで奉仕する祭司に関する記述も含めたら13章も割かれている。出エジプト記の3分の1だ。モーセの召命、十の災い、十戒についてはよく知られている。映画化もされている。しかし、3分の1にあたる幕屋は無視されがちだ。そして、この幕屋に関する部分こそ多くの信仰者がもっと知って、適用しなければならない部分だ。出エジプト記臨在の幕屋についてはその記述が長いので、一度にすべてを語りつくすことは到底できない。今日は幕屋全体に関わる特徴を大きく4つお伝えする。次回以降に幕屋の祭具と聖所と至聖所について詳しく取り扱う。

幕屋を建設するようにお命じになったのか神だ。神は何の目的で幕屋建設を指示したのか?第一に、臨在の幕屋は、神が人の内に住むために建てられた。出エジプト記25:8。「わたしは彼らの中に住むであろう。」これは、聖書全体を貫く神様の計画だ。創造も、キリストによる救いも、世の終わりの出来事も、すべては神と人が共に住むためのものだ。最終的には、それは新しいエルサレムにおいて実現する。黙示録21:1-4。幕屋と書いてある。新しいエルサレムこそが臨在の幕屋の完成形であり、神と人間が何の隔たりもなく住むことができる場所。そこは最高の幸福が永遠に続く。その幸福を陰るようにするものは何一つない。では臨在の幕屋の位置づけは何か?その新しいエルサレムという完全な幕屋の写しだ。ヘブライ8:5。臨在の幕屋はオリジナルではない!天にある完全な幕屋の写しだ。写しはほかにも存在する。最初はエデンの園、次が臨在の幕屋、ダビデの幕屋、ソロモンの神殿、イエス・キリスト、教会、千年王国と続く。神の御心は共に住むことだ。神は私たちと共に住みたい。それで、神は今、私たち一人一人の心に住み、教会の内に住んでおられる。契約の箱には何も入っていなかった。私たちも、目には決して見えないが、イエス様が内に住んでおられることを信じよう。幕屋はイスラエルの中央にあった。私たちは、イエス様を脇に追いやったり追い出したりせず、イエス様を中心にお迎えしよう。

第二に、臨在の幕屋は、神に近づき、その臨在にとどまる方法を示している。礼拝の方法だと言ってもよい。しかも、ものすごく詳細にその方法を示している。そのことは幕屋の構造によってわかる。幕屋の最も奥には至聖所があり、そこには契約の箱がある。この契約の箱こそが、神様の臨在が最も濃厚な場所だ。幕屋は、そこに近づくにあたっての手順を示すものとなっている。まず門を通って幕屋の庭に入り、動物の献げ物をささげる祭壇があり、その向こうには清めのための洗盤がある。それから幕屋の聖所に入ると両側にパンを置く机とメノラーがあり、目の前には聖所と至聖所を隔てる垂れ幕がある。垂れ幕の内側に行くと香をたくの壇があり、最後に贖いの座がついた契約の箱がある。私たちはこれら一つ一つが示す内容を踏んでいくことを通して濃厚な臨在の中に入っていくことができる。
これらはモーセが勝手に考えたのではない。臨在の幕屋の建設の指示については、すべてが主御自身の命令によってなされている。出エジプト39:32、42-43。この臨在の幕屋ほど、詳細な命令によって建設されたものはない。臨在の幕屋の後、ダビデの幕屋とソロモンの神殿でも礼拝がなされるが、そこでは主が詳細な命令をなされたことは書いていない。このことから、臨在の幕屋で礼拝が行われたのは一時的なことではあるが、すべての時代を貫く神の民の礼拝の方法がここで啓示されているのだ。だから、この幕屋がどういうものかを知れば、私たちがどのように神を礼拝すればよいかわかる。どのように神に近づくことができるか、信仰が成長し霊的に成長できるか、神の臨在の中に入っていくことができるか、わかるのだ。
そして、私たちは自分勝手に礼拝するのではなく、神がお定めになったこの方法でのみ礼拝をささげなければならない。神が命じていない、勝手な礼拝は許されない。初代大祭司のアロンには4人の息子がいた。息子たちも祭司だった。しかし、そのうちの二人は酒に酔ったのか、祭司の特権に酔ってしまったのか、規定に違反した炭火を使って香をたこうとした。その結果、火が出て二人を焼き、二人は息絶えた。礼拝はささげるのであればなんでもよいというのではなく、神がお定めになった通りでなければならない。礼拝はサービスである。レストランで店員は、自分が食べさせたいものをサービングすべきか、それとも客が食べたいものをサービングすべきか。客が魚を食べたいのに、よかれと思って肉を出したら喜ばれるか?上質な肉でも喜ばれないだろう。私たちは主の注文通りの礼拝をささげなければならない。

第三に、臨在の幕屋は入口が一つしかない。出エジプト記38:9-20、40:33。幕屋の外側には庭があった。庭は四方が囲まれているが、入口は一つだけである。そして、庭の入り口にも幕がかけてあり、庭の内側と外側とに隔てられていた。内側では神と交わりができる。しかし、外側では神と隔たりがある。幕屋に行くためには、そのたった一つの入口を通るしかなかった。これは、神に近づく道は一つだけであることを意味する。神に近づくたった一つの道とは何か?イエス・キリストだ。ヨハネ10:7-10。神に近づく唯一の門はイエス・キリストだ。救いの道はただイエス様だけだ。
先ほどの聖句によると、幕屋はどちらを向いていたのか?東側だ。庭の入口も、幕屋の入口も全部東を向いていた。これはソロモンの神殿でも踏襲されている。東は太陽が上ってくる方向。これは義の太陽なるイエス様が神の臨在への道を開くことを意味しているだろう。
宗教の数だけ救いの道があるという人々がいる。宗教多元主義という。「富士山にはたくさんのルートがあるが、どのルートを通っても頂上に行ける。同じようにどの宗教を信じても救われる。神に近づける。天国に行ける。」これは、大間違い。神と人間を同じ空間に置き、同類として扱っている。実際には罪によって、神と人間には超えることができない隔たりがある。罪によって二つの世界に分かれている。その隔たりはどんな努力によっても越えられない。善行、修行、宗教儀式、悟り、知的探求によっても越えられない。汚れた罪人が努力によって聖なる神に到達することは不可能だ。ただ、神がお遣わしになった罪からの救い主、イエス・キリストによってのみ神に近づける。
イエス・キリストは私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、私たちが霊的に生きるために復活してくださった。こんなお方はほかには誰もおられない。だから、ほかの誰を信じても絶対に救われない。使徒4:12。努力ではなく、ただキリストがなさったことを信じることによって、神の一方的な御好意によって救われる。キリストを信じて神に近づくなら、私たちは、罪許され、神の子とされた者として近づくことができる。

第四に、臨在の幕屋は移動式である。荒れ野では、雲の柱、火の柱が動くとき、イスラエルもそれに合わせて動いた。そのとき、幕屋を置き去りにするわけにはいかない。そこで幕屋は固定せず、全部を移動できるように設計されていた。民数記4:4-20。イスラエルの民がどこに導かれても、その中心には臨在の幕屋があった。そして、幕屋と祭具は、祭司の部族であるレビ人しか運ぶことができなかった。
Ⅰペトロ2:9によると、クリスチャンは王の系統を引く祭司だ。私たちは幕屋を運ぶ資格がある。そしてそれは、幕屋を運ぶ使命でもある。私たちは神の臨在を行くところどころに運んでいかなければならない。どこにいっても、神の臨在と共に行くという信仰を持っていくのだ。行く場所に祈りと賛美を植える。わたしが行くと、父なる神様も、イエス様も、聖霊様もともに行くことになる。家庭に神の臨在を運ぶ。職場に神の臨在を運ぶ。学校に神の臨在を運ぶ。そうするとどうなるか?分裂していた者たちが和解する。その人の品性、言動を通して、人々はキリストの香りをかぐことになる。その人がいるゆえにその場所が祝福され、保たれる。腐敗は取り除かれる。病んでいる者は癒され、悪を行う者は裁かれる。
イエス様にあって神の臨在に入り、とどまり、それを行くところどころに運ぶ者となろう。

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