臨在の幕屋―パンの机

臨在の幕屋
スポンサーリンク

あなたもメシアの大宴会に招待されています。
そこで出される料理は、主が準備してくださり、主が給仕してくださるものです。

臨在の幕屋―パンの机


YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
臨在の幕屋は門から外庭に入ると、祭壇と洗盤がある。そして、四重の幕がしてある幕屋がある。聖所の中に入ると、前面は垂れ幕で区切られている。垂れ幕の奥が至聖所でそこに契約の箱がある。聖所には、中央に香の祭壇、右側にパンの机と供えのパン、左側に金の燭台がある。今回はパンの机と供えのパンについて。

出エジプト25:23-28。まず机の材質はアカシア材。机に限らず、幕屋建設の木材は幕屋自体の骨組みも祭壇も契約の箱も全部アカシア材が使われていた。アカシアは荒れ野で育つ木。日本には自生していない。札幌にはアカシアと呼ばれている木が生えているが実際にはニセアカシアとも呼ばれる別の植物だ。根の広がりは木の25倍に達する。どんな暴風でも倒れず、雨が少なくてもわずかな水分を吸収し生き延びる。ゆっくりの成長し強靭な木に育ち、腐ったり虫に食われたりしない。しかも鋭いとげを持ち、まっすぐに伸びない性質があるので、木材として不向き。にもかかわらず、神はアカシア材を使うように命じられた。だから、幕屋建設には大変な労力が必要だったに違いない。アカシア材には象徴的な意味がある。アカシアはヘブライ語ではシッティーム(שטּים)で4つの文字からなる。ユダヤ教のラビによると、その4文字は、平和を意味するシャロームのシン、親切を意味するトーヴァーのテット、救いを意味するイェシュアーのヨッド、赦しを意味するメヒーラーのメームだ。平和、親切、救い、赦し、これらは人となられたイエス様を象徴している。イエス様は私たちに平和、親切、救い、赦しを提供してくださるお方だ。だから、アカシア材はイエス様の人性を表している。

そのアカシア材の机が純金で覆われている。輝く純金はイエス様の神性を表している。純金、というだけあり混じり気のない純粋な神性だ。イエス様は100%神様、100%人間。だからこそ、神と人との橋渡しがおできになる。ただイエス様を通して神に近づける。

では金の飾り縁と書いてあるのは何か?これは王冠と訳すこともできる言葉だ。パンの机の周りには王冠の飾りが取り巻かれていた。これは王なるイエス様を表す。ユダヤ人の王として来られたが、あらゆる国民の王となられた。どうやって?血を流すことによって。黙示録5:9-10。19:12。その冠の中には日本人の王としての冠もあるだろう。国、民族、言語を越えてすべての人々がイエス様にあって一つとなる。

それでは、供えのパンはどのようなものなのか?レビ24:5-9。まずパンは輪形のパンだった。これは菓子とか、ケーキとも訳される言葉だ。形は輪形だった。どうして輪形なのか?神様を中心にした輪になって人々が一つになっている。

パンと共に香料がそえられて、香料は燃やして主にささげられた。これはパンが主への献げ物であるということを象徴する。パンは祭司だけが食べた。クリスチャンも王の系統を引く祭司として供えのパンをいただく特権があるといえる。

出エジプト25:29-30。パンの机にはそれに付随する器具として皿、柄杓、小瓶、水差しがついていた。これらは全部純金であり、ぶどう酒の献げ物を献げるのに用いるという。そして絶えず供えのパンを供えるように定められていた。つまり、パンの机ではパンとぶどう酒が献げられていた。パンとぶどう酒といえば?聖餐だ。

パンの机は主の食卓での聖餐を意味する。聖餐はキリストの御体と血潮をいただくことによってキリストと一つになるもの。御体をいただくときにイエス様にある永遠の命の力をいただく。血潮をいただくときに血潮の内にある祝福、贖い、赦し、清め、聖別、勝利をいただく。それは単なる儀式ではなく霊的な力がある。だから、クリスチャンが信仰をもって聖餐をささげるとき、悪霊は嫌がる。聖餐のもう一つの意味としては信徒たちが一つになること。イエス様は主の晩餐の席で、あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさいと言われた。たくさんの王冠に示された通り、あらゆる種類の人々が神の家族として、イエス様の裂かれた体であるパンと流された血潮であるぶどう酒をいただき、主にあって一つとなり、豊かな交わりを持つことができる。だから、少なくとも聖餐を受け取る兄弟姉妹の中には何のわだかまりもあってはならない。もしあったすぐにその場で和解しなければならない。
この聖餐の交わりは、イエス様が切に願っていたものだった。ルカ22:15。イエス様はどうしても聖餐のときを持ちたかった。イエス様は私たち一人一人と食卓について、親密な交わりをどうしても持ちたいと願っておられる。
パンの机に絶えずパンが供えられていたのは、主にある永遠の交わりを意味する。永遠の命とは結局のところ、主との永遠の交わりだ。この地上では聖餐で記念し、個人の生活と教会で主との交わりを持つ。
この世を去った後は、御国においてイエス様を囲む大宴会が行われる。天国はただ霊だけが行く場所ではない。復活の体を得て、食べたり飲んだりできる場所だ。天国では実際に食事も行う。その大宴会には信仰の先人たちも共にいる。イエス様はこのことをたびたび語られた。マタイ26:29。マタイ8:11。また、イエス様は大宴会のたとえを語られた。最初に招待しておいた人が断ったので、僕を使ってあらゆる人々を無理やりにでも宴会に連れてくるという話だ。それはイエス様御自身が主催することになるメシアの大宴会を指している。この招待状を受け取ったか?受け取ったからこそ聖書を学んだり教会に来たりする。この招待に応じたか?それはイエス様を信じて聖餐にあずかったかどうか。

それでは、誰が主の食卓を整えるのか?臨在の幕屋でいえば、神の民の方が供えのパンとぶどう酒を準備しなければならなかった。これが旧約だ。旧約では神様に神の民が献げ物をして神に近づく。しかし、新約では逆転する。神様の方が、恵みとして必要な献げ物を準備してくださる。これはアブラハムがイサクを献げるときに、代わりの小羊を神が用意してくださったことにおいて啓示されている。主の食卓についても、同様の啓示がダビデに与えられている。詩編23:5。ここでいう「食卓」は、パンの机の「机」と同じ言葉が使われている。ダビデは、サウル王から逃げるときに、祭司しか食べてはならない供えのパンを食べた。この箇所はそのことが背景にあるかもしれない。食卓を整え、杯をあふれさせてくださるのは主だ。私たちは、主御自身が用意してくださった食事の並んだ席に着くことができる。このことはイエス様も約束してくださっている。ルカ12:35-37。主人はイエス様。イエス様の手料理をいただき、イエス様にもてなしていただくことができる。イエス様は地上におられたときも人々の間でそのようにふるまっておられた。ルカ22:27-30。私たちがイエス様を受け入れたときから、私たちの霊で主の食卓での交わりが始まる。黙示録3:20。ここにおいても、人間の側で必要なのはただ戸を開いて受け入れること。食卓を用意してくださるのは主だ。

5つのパンと2匹の魚で5千人が満腹する奇跡を行った。この奇跡はすべての福音書に書いてある。パンの机の意味をデモンストレーションするものだった。群衆は5000人でルカによると50人ずつ組みにされた。50×100。幕屋も南北50アンマ、東西100アンマ。残ったパンくずを集めると12かごがいっぱいになった。パンの机も12個のパンが供えられた。この出来事の後、イエス様は「わたしは命のパンである」と言われた。そして、モーセの時に荒れ野にふったマナとは違い、このパンを食べる者は永遠に生きると言われた。死すべき罪人だった私たちが決して用意できなかった命のパンとぶどう酒を主は用意してくださった。神であられる御子が人間となられてこの世に来てくださり、御自分の肉と血をもって食卓を整えてくださった。その箇所を読んでみよう。ヨハネ6:48-59。教会での聖餐をもってイエス様と共に食卓に着く日を備える者になろう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました