臨在の幕屋―四重の幕

臨在の幕屋
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外側から1.ジュゴンの毛皮⇒2.赤く塗った雄羊の毛皮⇒3.黒い雄山羊の毛皮⇒4.聖幕です。

臨在の幕屋―四重の幕


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【ノート】
臨在の幕屋は門から外庭に入って、祭壇と洗盤を通ったら、いよいよ幕屋の中に入る。幕屋本体はどのようにできているのか?
まず外側の幕について考えてみよう。幕は4重構造になっている。出エジプト26:1-14。4は世界を表す数字。4福音書はイエス・キリストの福音が全世界に及ぶこと、黙示録の4つのケルビムは神の栄光が全世界を照らすことを表す。4重構造の幕もまた、神の恵みと臨在が全世界に及ぶことを表している。ここでは内側から外側、神様に近い方から遠い方について書いてある。神様中心なのだ。しかし、私たちが神様に近づこうとするなら、外側から内側という順になる。外側から順にするとじゅごんの皮⇒赤く染めた雄羊の毛皮⇒山羊の毛⇒亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様の幕だ。一つ一つ見ていこう。

第一は一番外側のじゅごんの皮。出エジプト26:14。もしくはあざらしの皮の可能性もある。どちらにしても風雨にさらされても丈夫な皮だ。出エジプトする際の戦利品の中にこれらの皮が豊かにあったのだろう。しかし、幕としての機能性は高いものの、見栄えがするものではない。臨在の幕屋は、神の臨在がとどまる場所なのに。それなのに、幕屋の最も外側の、すべての人の目にとまる幕が特別見栄えがしなかった。神は人間の肉眼で、外側が見栄えがすることに全然こだわっていない。神はいつも外側よりも内側を重視される。神は見えるものよりも見えないものを重視される。外側も飾ろうとすればできなくはない。しかし、あえて見栄えしないようにするのは、神が私たちにも、外側よりも内側、見えるものよりも見えないものに注目することを望んでおられるからだ。イエス様は外面的に律法を守るばかり立派で、正義と慈悲と誠実をないがしろにするファリサイ派の偽善者たちを呪った。また、葉ばかり立派にしげっていて、実を結ばないいちじくの木を呪った。外側が立派でも内側が駄目なら駄目なのだ。イエス様は人の心にあるものこそが人を汚すと言われた。内なる罪の問題の解決が必要なのだ。イエス様御自身、外見的に見栄えのする方ではなかった。イザヤ53:2。もし、イエス様の外見ばかりを注目していたら、決してイエス様を信じることができない。イエス様はあくまで普通の人間の見た目をしていたからだ。その内なる神性や完全な人格にこそ注目しなければならない。それでは、聖霊様によってイエス様の内なる神性に気づいてイエス様を信じた人はどうなるのか?その人の内側に聖霊様が宿る。神の子供となる資格が与えられる。外面的なものが良くても悪くても、神がご覧になるところが変えられているのだ。その事実を信仰によっていつも自覚しよう。いつも、どこでも、聖霊様が共におられる。すべての罪が赦され、神の子とされている。あらゆる束縛から解放されている。癒されている。外側ではなく、その霊的な事実に注目しよう。

第二は赤く染めた雄羊の毛皮だ。出エジプト26:14。あえて赤く染めた雄羊の毛側が使われている。なぜなのか?この幕は内側からも外側からもほとんど見えない。幕屋の正面から見たときに、わずかに4重の層の一つとして赤い毛皮があるのが見えるだけだ。ほとんど見えないのに、どうして赤く染めた雄羊の毛皮が使われているのか?それは、雄羊が身代わりの象徴だからだ。アブラハムがイサクを焼き尽くす献げ物として献げようとしたとき、主なる神様は身代わりの雄羊を用意しておられた。雄羊は、私たちの罪の身代わりに十字架で血を流して死なれたイエス様を予表する。赤は血の象徴だ。だから、赤く染めなければならなかった。
また、レビ記8:22-24ではモーセはアロンとその息子たちの祭司としての任職式にあたって雄羊をほふってその血の一部を彼らの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗った。主によく聞き従い、主の御心に適った働きをし、主の導きに従って歩むということだ。雄羊の血は、任職に際しての従順の象徴だ。主の僕の徹底的な従順についてイエス様は何と言われたか?ルカ17:9-10。イエス様御自身はどのような従順をされたか?マルコ14:36。
さらに、雄羊は、強力な人という意味のアイルというヘブライ語が使われている。雄羊として罪の身代わりに献げられたお方は、犠牲者ではなく勝利者なのだ。黙示録では、イエス様のことをほふられた小羊だと書いてある。黙示録17:14、12:11。天幕の内側に赤い雄羊の毛があったように、私たちの内には、勝利を得られる小羊の血が流れている。私たちは罪に勝利できる。依存症に勝利できる。病気に勝利できる。貧困に勝利できる。虐待に勝利できる。鬱に勝利できる。あらゆる束縛、困難に勝利し、前進できる。

第三は黒い雄山羊の毛皮だ。出エジプト26:7-13。雄山羊の毛皮は黒かった。黒い雄山羊の毛皮の幕は人間の罪を象徴する。イエス様が人々を羊と山羊にわけるとき、裁かれるのは山羊の方だ。この黒い雄山羊の幕が赤い雄羊の幕に覆われている。これは、人間の罪が流される血によって覆われることで、神との交わりが可能になるということだ。
この幕の特徴としては、下のケルビム模様の幕よりも長さが2アンマ長い。そこで、全面では二つに折り曲げられている。ほかの幕よりも厚みがあり、黒い部分がよくわかる。これは、人間は罪の問題が解決されなければならないということを思い起こさせる。
そして、5枚を綴り合せたものと6枚を綴り合せたものが50個の青銅の留め金で一つにされた。6は人間を指し、5は人間の弱さに対する神の恵みを意味する。黒い幕は罪を思い起こさせるが、神の恵みを一緒に思い起こさせて救いの喜び、感謝と賛美につながる。人間の罪と神の恵みはイエス・キリストの福音にあってセットとなっている。50個の留め金は何か? 50はペンテコステの数字。聖霊様が福音を悟らせるということ。

第四は亜麻のより糸、青、紫、緋色の糸を使って意匠家の描いたケルビムの模様の幕だ。出エジプト26:1-6。幕屋の内側にいる人にだけ、この幕が見えていた。内側は本当に見栄えのするものとなっていた。4種類の糸によってケルビムが織りなされている意匠をこらしたものだ。私たちもぜひとも霊的に成長し、神の臨在に近づいて、幕屋の内側から神の偉大さ、すばらしさ、美しさを見るものとなろう。それがいかにすばらしいものであるか、使徒パウロは語っている。フィリピ3:8-9。ペトロも語っている。Ⅱペトロ1:16-18。ヨハネも語っている。Ⅰヨハネ5:20。
この内側の幕も、5枚ずつ綴り合せたものを50個の金の留め金で一つにされている。どうしてわざわざ二つのものを一つにするようになっているのか。最初から10枚を綴り合せておけばよいのに。それは神の御心を表している。二つのものを一つにするのは、キリストのなさる御業であり奥義だ。金の留め金はキリストの力を象徴する。エフェソ2:13-22。ここでの二つのものは特にユダヤ人と異邦人だ。ユダヤ人と異邦人は、水と油のように絶対に相いれない、一つになれない。ただ、キリストによって、神の霊の働きによってのみ可能だ。イエス様にあって和解が可能である。宿敵とすら、ずっと憎んできた人とすら。

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