祭壇は、キリストが流された血潮の力による完全な罪の赦し全世界に及ぶことを表しています。
臨在の幕屋―祭壇
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【ノート】
臨在の幕屋はモーセの時に神の詳細な命令のもとに建てられた。前回は幕屋の概要を説明した。幕屋はエデンの園や神殿と並んで、新しいエルサレムの影またはコピーである。幕屋は神が人と共に住むことができる場所。これは聖書全体を通して、神が実現したいこと。幕屋の構造や器具を通してどのように神の臨在に近づき、住むことができるのかを示している。幕屋の外庭は高い囲いがあり、入口の門は一つしかない。それは唯一の救いの道であり、羊の門であるイエス様を指している。最後に幕屋は移動式であることから、神の御心は、私たちを通して神の臨在があらゆる場所に解き放たれることだ。
今回は羊の門であるイエス様を通して、幕屋の庭に入って、そこにある祭壇を見てみよう。
門から入るとまず祭壇がある。
祭壇―出エジプト27:1-8。アカシア材と青銅でできた祭壇。それまでの祭壇は土の祭壇や石の祭壇だった。臨在の幕屋用に特別に造られた祭壇。それまでの祭壇は全部焼き尽くす献げ物をささげる祭壇だった。青銅の祭壇では日ごとの献げ物と5種類の献げ物が献げられた。
◆材質
それでは、なぜアカシア材と青銅が使われたのか?アカシア材については後で説明する。
青銅は、祭壇自体だけでなく、祭壇に付属する灰をとる壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具も全部青銅が使われ、さらに、洗盤、杭、留め金、柱の台座、臨在の幕屋で使われる主要な金属は青銅だった。当時すでに鉄の精錬技術はあった。なぜ鉄でなく青銅なのか?青銅の方が長持ちするからだ。たとえば、民数記に出てくる青銅の蛇はヒゼキヤ王の時代まで約700年間存在し続けた。鉄は強度が強い。だから武器や日用の道具として鉄が優れている。しかし、鉄はさびてだめになりやすい。神への礼拝は一時的なものでなく、永続的なものである。私たちは人生のほんの一部の期間だけ礼拝をして、あとはさびてボロボロになるような信仰であってはならない。一生礼拝する、永遠に礼拝する信仰者になろう。
また、青銅のもう一つの特徴は加工しやすいこと。霊的な適用としては、自分の型にはまってしまうことなく、神が望まれるならば、どのような者になることもどのような用いられ方をすることもいとわない。そういう人が貴く用いられる。
◆構造
祭壇の四隅には角がつけられていた。角は力を象徴する。その力とは、血の力だ。レビ4:25。贖罪の献げ物をささげるとき、この四隅の角に生け贄の血をぬった。角が4つのあるのは、血の力が、全世界のすべての人に及ぶことを示している。残りの血は祭壇のもといに流された。これにはどのような意味があるか?マタイ26:28。祭壇の下部には、青銅の網目づくりの格子があった。格子は十字架がいくつもはりめぐらされたもの。青銅の祭壇は十字架を表している。贖罪の献げ物の血は十字架の上で流れるキリストの貴い血を啓示するものだった。イエス・キリストの血には力がある。ヘブライ10:19。イエス・キリストの血は全世界のあらゆる人に対して効力がある。Ⅰヨハネ2:2。
◆聖別
祭壇で重要なのは、形や材質だけでなく、聖別の儀式だ。聖別しなければ、形状と材質が整っていても祭壇は祭壇として使用することができない。最初聖別するにあたって七日間の罪の贖いの儀式が必要。出エジプト29:37。これは祭壇だけ。ほかの祭具は聖別の油を注げばよかった。七は完全数。完全な贖いを経験することによって祭壇は祭具として聖別された。しかも祭壇はそれ自体が聖別されるだけでなく、祭壇に触れるすべてのものまで聖なるものとした。私たちは、たとえどれだけ有能であっても、それだけでイエス様に用いられるわけではない。イエス様の血潮による完全な贖いを信じることによって聖別された者として歩むことができる。さらには、私たちに触れるあらゆるものを聖なるものにする。私たちの礼拝、奉仕、献金、仕事などあらゆるものは聖なるものとなる。人に手を置いて祈るなら、その人は癒され、元気になる。新約においてもそのことを確認しよう。ヘブライ9:12-14。信仰によって完全な贖いを経験しよう。聖別された者として歩もう。
◆用途
祭壇はどのように用いられたのか?まず、日ごとの献げ物がささげられた。出エジプト29:38-43。日ごとの献げ物の目録としては、雄羊、オリーブオイル、小麦粉、ぶどう酒が書いてある。これらを朝夕の二回忠実に献げなければならなかった。そして、これらを献げるとき、主はイスラエルの民と出会い、語りかけてくださった。私たちは、イエス様が唯一の生け贄として十字架で死なれたので、もうこれらのものを献げる必要はない。私たちはイエス様を通して、毎日主と出会い、主の語り掛けを聞くことができる。生け贄だけでなく、オリーブオイルに象徴される聖霊様の油注ぎも、小麦粉に象徴される御言葉も、ぶどう酒に象徴される血潮による贖いの力も、全部主が与えてくださっている。私たちが提供するのは時間だけだ。それでは、私たちは毎日主と出会い、主の語りかけを聞いているだろうか?朝晩、そうしているだろうか?日ごとの献げ物を献げなければならなかったのは、神の民が毎日主と出会い、主の語り掛けを聞かなければ、真っ当に神の民として生きることができないからだ。私たちは、せっかくイエス様の贖いを通してフリーパスで主と出会い、主の語り掛けを聞けるのだから、その恵みに感謝して、ディボーションをしよう。御名によって祈ろう。最低朝晩2回、主と出会い、語りかけを聞く時間を持とう。
祭壇では5種類の献げ物が献げられた。レビ記の1章から5章には、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物が出てくる。これらは人間が神様に進み出る手順とみるなら、神様に近い順、より価値がある順に書かれている。人間の側から見るなら、賠償の献げ物から始まり、焼き尽くす献げ物で終わる。それらはそれぞれ何を象徴しているのか?
5種類の献げ物はすべて祭壇で火を使って焼く。穀物の献げ物以外の4種類の献げ物は血を注ぎだす生け贄だ。生け贄となる動物は牛、羊、山羊、鳩だ。これらは貴重な財産だ。しかも、どの献げ物も傷、しみ、病気、障害などがあってはならない。不要なものや価値のないものを神は献げ物として受け入れない。価値のあるものに奉納者は手を置いてほふり、自分の身代わりとして神に献げる。特に動物の肉のうち脂肪を神のものとして献げる。それは、脂肪が肉のうち最上の部分だからだ。穀物の献げ物も上等のものでないといけない。価値あるものを神に献げることは、神にそれだけの価値があるということを表すことでもある。
礼拝は、神こそが自分にとって最高の価値があるお方であることを表すもの。日曜日を礼拝に献げること、若いうちから主に献身すること、朝や夜自由に過ごせる時間を祈りに献げること、これらはいずれも価値あるものを献げることによって、神の最高の価値を表すことだろう。
神に近づくことは賠償の献げ物と贖罪の献げ物から始まる。これらはどちらも礼拝者が義務として絶対に献げなければならないもの。賠償の献げ物は過ちの赦し、贖罪の献げ物は罪の赦しのために行う。生け贄をほふり、血を流して献げることによって、過ちと罪の赦しを得て、神との関係を回復することができる。私たちは青銅の祭壇で献げられた贖罪の献げ物よりも優れた献げ物を持っている。それは、十字架で血を流して死なれたイエス・キリストだ。誰もイエス様の十字架で流された血潮なしに神に近づくことはできない。十字架の血が流されることなしには、私たちはみな呪われた罪人だ。罪には必ず報いが伴う。罪が支払う報酬は死だ。罪の赦しのためにはどうしても血が流されなければならない。ヘブライ9:22。なぜ血がなのか。血のうちに命があり、命を贖うためには命が必要だからだ。レビ17:11。罪深い私のために誰が死んでくれるか?仮に誰かが身代わりに死ぬことを名乗りでてくれたとしても、その人が義人でない限り、罪を贖うことはできない。罪を贖う資格は、罪を一度も犯したことのない正しい方にしかない。つまり、罪のないイエス様以外にその資格はない。資格のあるイエス様は人間となってこの世に来てくださり、罪人だった私たちを愛して、十字架の上で死んでくださり、罪の贖いを成し遂げられた。イエス様が神殿の外で十字架につけられた。幕屋でいうところの門の外。ところが、これも律法の通り。贖罪の献げ物にはこう書いてある。レビ4:11-12。ヘブライ4:11-13。
任意で自発的に献げる献げ物が三つある。和解の献げ物は、神と人との間の喜びと平和を象徴する。和解の献げ物は神様からの恵みに感謝して献げられる。焼き尽くす献げ物と違うのは、生け贄の全部を焼くのではなく、脂肪と腎臓だけ焼き、残りは祭司と献げ物を献げた家族が食べることができる。和解の献げ物は、主と主にある家族と喜びの食卓を囲み、愛の交わりをする機会ともなる。今では愛餐会がそれだ。神との和解が成り立っていることに感謝して、心から礼拝と愛餐を喜び楽しもう。
穀物の献げ物は、へりくだって仕えることを象徴する。レビ2:13。塩とは何か。キリストに由来する良い性質のことだ。塩は当時貴重なものであり防腐作用があり、味付けをすることができ、畑の肥料としても役に立つ。替えの利かない、なくてはならないものだ。塩気がなくなったら何の役にも立たず、踏みつけられてしまう。塩気は、神様との愛の交わりによって育まれる。塩気を保つ方法は、穀物の献げ物の内容で示されている。上等の小麦粉、オリーブ由、乳香だ。小麦粉は御言葉、オリーブ油は聖霊様を象徴する。特に小麦粉でパンを作るときはパン種を入れてはならないと書いてある。これは罪が少しもあってはならないということ。乳香は祈りを意味する。私たちの奉仕は独りよがりのものではなく、塩気を保ち、御言葉に基づき、聖霊様の導きを求めて祈りつつ行うものでなければならない。
最後は焼き尽くす献げ物。すべてをあますところなく燃やすことから、全き献身を象徴する。焼き尽くす献げ物は、主体的に自覚的に献げることが必要。奉納者は主に受け入れられるようになる。レビ1:3。神様は奉納者を喜び、迎え入れてくださる。ローマ12:1。イエス様は私たちのためにすべてを献げてくださった。イエス様はまさしく焼き尽くす献げ物なる方。この方の愛に答えて私たちも自発的にすべてを献げて仕える者となろう。
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