あなたがたは力を受ける[使徒1:1-11]

使徒言行録
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それは、あなたをイエス様の証人とする力です。
あなたはイエス様に命をかけられるほど、確信に満ちるようになります。
この力を受けて、伝道を始めましょう。

あなたがたは力を受ける[使徒1:1-11]

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【ノート】
1-2節。使徒言行録はルカが書いた。第1巻であるルカによる福音書の続編の第2巻として書かれている。使徒言行録は、福音書と書簡をつなぐ橋渡し役となっている。もし使徒言行録がなかったら福音書とパウロ書簡のつながりがなくなってしまう。福音書から見れば続編だし、書簡から見れば内容を理解するための背景を提供している。

執筆目的は第1巻と同じだ。ルカ1:1-4。執筆目的は、読者に教えが確実なものであることをよくわかってもらうためだ。この教えということの中には、イエス様が直接語られたことはもちろん、パウロが教えていることも含まれている。パウロの使徒職について、疑いの目を向ける人々もいた。しかし、使徒言行録を読めば、私たちはパウロが使徒であることがよくわかる。使徒言行録を通して福音書とパウロ書簡が、神の御言葉であり、絶対的な権威があることをますます悟ろう。ルカは執筆目的を実現するために、詳しく調べ、順序正しく書いた。福音書について、自分自身が見聞きすることを書くことはできなかったので、信頼にたる人々にインタビューした結果を書いた。使徒言行録もまたインタビューによる部分もあるが、ルカ自身が途中から宣教に加わって見聞きした部分も含まれている。途中で主語が「私たち」になっている。ルカがそうしたように、私たちも宣教に加わるならば、聖書を単に自分とは無関係な第三者の話としてとらえるのではなく、「私たち」が体験したこととして語ることができるようになる。

使徒言行録はいつ書かれたか。使徒言行録には紀元64年の暴君ネロによるローマ大火の記述がないし、ローマ帝国からクリスチャンが迫害されたということは全く書かれていない。むしろ、使徒言行録ではローマの官憲は常に使徒たちの働きを罪なしとしていた。迫害はユダヤ教からだった。そのため、ローマ大火よりも前、遅くとも紀元63年頃には使徒言行録は成立していた。使徒言行録は28章でパウロがローマに到着したところで終わっている。使徒28:30-31。この出来事の後に使徒言行録は書かれたのだ。しかし、なんでこんな中途半端なところで終わりなのだろうと思えるかもしれない。パウロはそのあとどうなったのか、宣教はそのあとどのように進められていったのか、知りたい。それは自然な思いだ。まだ地の果てまでイエス様の証人となっていない。大宣教命令が成就してイエス様が再臨していない。使徒言行録の主題である宣教は今もなお続けられている。書物というものはその性質上どこかで終わりを迎えなければならない。だから、使徒言行録は28章でとりあえず終わった。しかし、ある意味、私たちは今も使徒言行録の延長線上にいる。私たちは使徒言行録を自分たちの伝道を通して書き続けるように召されている。聖書は2千年前に書かれた書物だが、生ける神の御言葉だ。私たちは現実に体験できる!使徒言行録のような生き方をする者になろう。アーメン。

使徒言行録はテオフィロという人物にあてている。書物を誰かに献呈するということはよく行われていた。テオフィロは当時ありふれた名前だった。おそらくは実在するローマの上流階級の人物であり、ルカが書物を書くのを支援したのだろう。テオフィロは神の友達という意味の名前だ。ヨハネ15:14-15。私たちはイエス様の命じることを行う者だろうか?そうでありたい。そうであれば、私たちもまたイエス様の友達であり、つまるところ神の友達だ。使徒言行録はテオフィロにあてたものであると同時に、神の友達である私たちにあてたものなのだ。

3節。イエス様は御自分が生きていることを数多くの証拠をもって示された。死んだはずの人が復活したということは、当の本人を目の前にしてもなかなか信じがたいことだったのだ。イエス様は使徒たちの不信仰に忍耐し、手やわき腹を触らせたり、一緒に食事をしたり、使徒たちが納得するまで何でもやってみせた。使徒たちがイエス様の復活を信じるようになるためだ。私たちは、イエス様を信じたことによって霊が復活した。霊的に死んでいたのに、生きる者となった。このことについても、未信者にとってはにわかに信じがたいことだ。私たちはイエス様が忍耐強く御自分が生きていることを示されたように、未信者に対して自分が霊的に生きる者となったことを数多くの証拠をもって示そう。信じる前と後での変化によって示すことができる。イエス様を信じない者から完全に信じる者となっていることを示そう。考え方が変わったことによって示そう。語る言葉が変わったことによって示そう。無償の愛によって示そう。高ぶる者からへりくだって仕える者にされたことによって示そう。アーメン。
イエス様は40日にわたって神の国について話された。最初の話題も、次の時の話題も、その次に現れた時の話題も神の国だった。御心が天でなされているように、この地でもなされることについて語られた。イエス様の狙いは何か。ルカ12:31。イエス様は、ただ、神の国のことばかり求める心を使徒たちに与えようとされた。40日は、完全な変化に要する期間だ。イエス様は、使徒たちの頭を世の国での思い煩いのことばかり考える頭から、神の国のことばかり考える頭にシフトさせたのだ。そして、これが聖霊のバプテスマを受けるための準備でもある。私たちも、来る日も来る日も神の国のことを話題にし、リバイバルについて話すようにしよう。そうすれば、神の国を何よりも求めるようになる。そして、世で生きていくのに必要なすべてのことも与えられる。

4-5節。エルサレムを離れず、父の約束された聖霊のバプテスマを待ちなさいと言われている。聖霊のバプテスマを受けないまま、エルサレムから離れてしまってはならない。まず、約束の実現をあきらめて去っていってはならない。神の約束は必ず実現するし、多くの人が考えているよりも早く実現する。実際、使徒たちが待ったのはほんの十日間だった。約束はすぐにでも必ず実現すると信じて、信仰から離れず、祈り求めることから離れないようにしよう。あきらめて離れてしまわず、もう少しの信仰、もう少しの祈り、もう少しの忍耐を発揮する者になろう。また、聖霊のバプテスマを受ける前に伝道に出て行ってはならない。うまくいかなくて挫折することになるから。伝道は人間の知恵や力によってはできない。神が定めた手順は、水のバプテスマと聖霊のバプテスマを受けてから世界を勝ち取るミッションを遂行すべく出ていく。たとえ良いことであっても、神様に聞き従ってやらないと、惨憺たる結果になる。神様の指示に従おう。神様が待てと言われるときは待ち、行けと言われるときには行こう。そうすれば、使徒たちのように豊かに実を結ぶことができる。

6-7節。使徒たちは、イエス様が語られた神の国のことを、イエス様を王とする地上のイスラエル王国というふうに想像した。聖霊のバプテスマをイエス様による新時代の幕開けのようにとらえた。完全な間違いではない。使徒たちが想像したことも、やがてイエス様の地上再臨の時に千年王国という形で実現することになる。そのことは大事なことなので、天のお父様御自身がその時期を、権威を持ってお定めになっている。しかし、それはまだ先のことだった。そして、それがいつなのかは、誰も知ることができない。使徒たちがそうだったように、私たちもやがて必ず起こる世の終わりの出来事を確信し、それを待ち望むようにしよう。それは大きな励ましになる。しかし、そのことに熱狂し、うつつをぬかすことはクリスチャンのすることではない。世の終わりを迎える前に、クリスチャンはやることがある。果たすべき使命がある。
地の果てまで福音を伝えることだ。

8節。聖霊のバプテスマについての約束だ。聖霊のバプテスマを受けると、力を受ける。神様は無茶なことを命じられない。どんな命令であれ、命令と共に力を与えてくださる。ダイナマイトの語源のデュナミス。ダイナマイトのような爆発的な力。ダイナマイトは主にトンネルの掘削に使われる。日本は山が多いので、トンネルがたくさんある。トンネルを通るとき、どうやってこんなに掘ることができたのだろうかと不思議に思うことはないか?トンネルを掘削するとき、堅い岩盤にぶつかることがある。そういうときにはダイナマイトを使うことがある。ダイナマイトで岩を粉々に吹き飛ばすのだ。もしダイナマイトを一切に使わずにスコップだけでトンネルを掘らなければならないとしたらどうなるだろうか?不可能ではないにせよ、多くの時間と労力を要することになる。聖霊のバプテスマなしに伝道するというのは、ダイナマイトなしに岩盤を掘るようなものだ。
聖霊のバプテスマを受けると、イエス様の証人となるための力を受ける。聖霊のバプテスマを受ける前にも、イエス様から派遣されて宣教したとき、使徒たちはイエス様から与えられた権威によって癒しや悪霊の追い出しについてはできた。でも、イエス様の証人としての力はなかった。それで、ペトロはイエス様を三度否定してしまった。聖霊のバプテスマが、イエス様の証人として揺るぎない力を与える。どのくらい揺るぎないのか?命を捨てるくらい揺るぎない。証人には殉教者とも訳されるマルトゥースというギリシャ語が使われている。聖霊のバプテスマはそれを受ける人に、必要あらば殉教もいとわないほどの確信に満ち溢れさせるのだ。
エルサレム、ユダヤとサマリア、地の果てと書いてあるが、これはほぼそのまま使徒言行録の目次のようになっている。エルサレムでの宣教は2章から7章、ユダヤとサマリアの全土での宣教は8章から12章、地の果てに至るまでは13章からだ。いきなり地の果てに行こうとせず、まずはエルサレム、つまり自分の周りから伝道を始めるということを教えられる。自分の家族や友人知人にイエス様を証しするのだ。ユダヤとサマリアは日本全国、地の果ては海外宣教になぞらえることができる。あなたにとってエルサレムにいる人は誰か、その人たちに証ししているだろうか?その人たちに十分証しをしてから次の段階に進もう。
イエス様は8節を命令として語っていない。これは預言だ。聖霊のバプテスマを受けたらイエス様の証人になる。悲壮な決意をかためなくても、イエス様の証人は地の果てまでイエス様を証しするのだ。そういう存在だからだ。せずにはいられないのだ。

9-11節。イエス様は雲に包まれた。雲とは、神の栄光の臨在だ。モーセの臨在の幕屋には雲の柱があった。ソロモンの神殿の奉献式では、神の栄光が雲のように神殿に満ちたので祭司たちが奉仕を続けられなくなった。イエス様が山の上で姿を変えたとき、雲に包まれた。そして、イエス様はやがて地上に再臨されるとき、雲に乗って来られる。
弟子たちはずっと天を見つめていた。イエス様との別れを惜しんでいたのだ。すると二人の天使が弟子たちに、イエス様がまたおいでになると約束した。心配しなくても、やがてイエス様と顔と顔とを合わせて会うその日が必ず来るのだ。だから寂しくない。そして、その際、イエス様は天に行かれるのと同じ有様でいらっしゃる。再臨は昇天の巻き戻しのように起こる。イエス様は復活の栄光の体のまま来られる。だから、まるでキリストが最初に来られたように、改めて人間の赤ん坊として生まれて来ると教えるのは全部異端であり、嘘だ。イエス様はナザレのイエスという人間であることをやめることはないのだ。聖霊のバプテスマを受け、イエス様の証人となって、再臨に備えよう。

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