聖霊様は命を与えます。現象を引き起こします。
聖霊様が激しい風として、私たちの人生を劇的に変えることが御心です。
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた[使徒2:1-13]
YouTubeのチャンネル登録はこちらから!
【ノート】
1節。五旬祭とはどんな祭りか?ギリシャ語では、ペンテコステ。五十番目という意味。その意味の通り、過越祭から50日目に始まる祭りだ。律法書では七週祭と書いてある箇所もある。律法で定められている過越祭と仮庵祭に並ぶ三大祭の一つだ。だから、世界中のユダヤ人や神を畏れる異邦人がエルサレムに集まっていた。ペンテコステでは、シナイ山でモーセに旧約の律法が与えられたことを記念した。律法は、人を死に定めるものだ。人は律法に従わなければならないとわかっている。頭ではわかっているけど従うことができず、人は律法によって罪に定められて死んでしまう。最近いろんな人から「頭ではわかっているのだけれども」という話を何度も聞く。それは旧約に属することだ。私たちは新約に属することを追い求めよう。律法に代わって、新約のペンテコステでは聖霊様が与えられた。聖霊様は神様の御言葉を教えてくださる。それは魂に属する頭でわかることでなく、霊でわかる。悟る。御言葉が完全に自分のものになる。御言葉が私たちの内で働くようになる。そして、聖霊様はそれを守ることができる力までも与えてくださる。そのように、律法の文字は殺すが、聖霊様は私たちを生かす。
また、五旬祭では二つのパンがささげられた。レビ23:16-17。この主に献げられた二つのパンとは何を表すのか?ユダヤ人と異邦人だ。ペンテコステの時に誕生した教会は、ユダヤ人と異邦人が一つとなって神に献げられた。ユダヤ人と異邦人といえば、決して一つになれない存在を代表するものといえる。それがキリストの十字架によって教会で一つになるということは他のいろいろな違いのある二者もやはりキリストによって一つになれる。ガラテヤ3:28。キリストにあってあらゆる者が一つとなる。1節でも「一同が一つになって集まっていると」とある。聖霊様の賜物は一つになっている教会に与えられる。互いに裁き合うことなく、一つになっていた。そういう教会に、聖霊様が豊かに働いてくださる。
2節。「突然」とある。聖霊様が力強く働かれる前に、何の兆候もなかったということだ。弟子たちは祈っている中で、「今聖霊様のボルテージが30%まで上がった」とか、「神様からまもなく聖霊様が降られるという語り掛けがあった」とか、「不思議な夢を見た」といったことを何も体験しなかった。その瞬間が訪れるまで、よくわからなかった。では、何の兆候もないのにどうして信じて祈れたのかといえばイエス様の御言葉の約束があったからだ。1:4-5。何の兆候もなくても、御言葉の約束を信じ続け、その実現を祈り求めよう。そうすれば、何も感じなかったとしても、その時に近づいていることがよくわからなかったとしても、大丈夫だ。ある時、突然、その時が訪れる。自分が変えられる。人間関係に、経済に、奇跡が起こる。癒しが起こる。不思議な業が現れる。
激しい風が吹いているような音。現象を引き起こすのだ。イエス様は新生された人のことをどう表現したか?ヨハネ3:8。風は目に見えないし、どこから来てどこへ行くのかわからない。神秘的だ。そのように、新生された人は、内住する聖霊様によって不思議な現象が現れる。変化が起こり、普通の人とは違った性質が身に着く。信仰と希望と愛が与えられる。地の塩、世の光として周りにも良い影響力を発揮できるようになる。イエス様は新生については単に風と言われた。ペンテコステのときの聖霊のバプテスマでは激しい風だ。神様の御心は聖霊様が激しい風として私たちに働くことだ。救われる前とちょっと違う程度ではなく、明らかに違う。全然違う。全くの別人だ。力がみなぎっている。罪を打ち破ってしまう。病人を癒し、悪霊を追い出し、死人を生き返らせる。大勢の人々をイエス様に勝ち取る。聖霊様による激しい風の働きを信じて歓迎しよう。
3節。「炎のような舌」と書いてある。炎のようなということは、強いパワーがあるのだ。また、炎のようなということは清められているのだ。聖霊様によって、強いパワーがあり清められた霊的な舌が与えられる。聖霊様なしには舌は汚れていて、良いことをなす力が全然ないのだ。ヤコブ3:5-12。聖霊様に満たされた人の舌は、ただ神を賛美することに聖別されている。人間を呪うことがない。悪口や陰口が一切出てこない。聖霊様に満たされて、清められた力ある言葉を語る者になろう。
「分かれ分かれ現れ、一人一人の上にとどまった」と書いてある。同じ舌ではなかった。舌は一人一人に用意されていた。その結果、いろいろな国々の言葉が話された。聖霊体験は、一人一人違う。だから、他の人と全く同じ体験をしなくてもよい。全く同じ賜物の表れ方をしなくてもよい。違っているからこそ、クリスチャンは協力する。違っているからこそ、より多彩な方法で神様の栄光を現せる。同じでなくて大丈夫。
4-12節。聖霊様に満たされたしるしは何か?4節を見ると、ほかの国々の言葉で話し出す。これは異言。聖霊のバプテスマのしるしは異言だ。異言にはいろいろな種類のものがある。Ⅰコリント12:10では異言の賜物のことを「種々の異言を語る力」と書いてある。Ⅰコリント13:1では「人々の異言、天使たちの威厳を語ろうとも」と書いてある。人々の異言の中に外国語の異言も含まれるだろう。しかし、ほとんどの場合、異言は誰にもわからない言葉だ。Ⅰコリント14:2「それはだれにも分かりません」と書いてある。ここでは、神が働いておられるしるしとして、異言が用いられている。全世界のいろいろ言語の国からペンテコステを祝いに巡礼者たちが集まっていた。彼らにとって、ヘブライ語やギリシャ語よりも、自分たちの「故郷の言葉」を「わたしたちの言葉」と呼んで親しんでいた。そして、イエス様の弟子たちは服装や雰囲気をみれば、すぐにガリラヤ出身の者たちだとわかった。そのどう見ても明らかにガリラヤ出身の弟子たちが、急に「故郷の言葉」で神を賛美しだしたので人々は驚いてしまったのだ。現代では語学をしようとすれば、マイナーな言語であっても教材を買ったり、インターネットを使ったり、アプリを使ったり、いろいろな方法がある。
しかし、当時は公用語のギリシャ語やラテン語以外の言語を学ぶことはまずできなかった。それなのに、流暢に、ネイティブスピーカーとして話し出したのでびっくりしたのだ。異言がこのような力を発揮することがある。ペンテコステの時に限らず、こういう事例はたくさん報告されている。少年が自分の知らないはずのロシア語で賛美をささげたり、少女がヘブライ語で預言を語ったりする。私たちが異言を大事にし、よく用いていれば、時にしるしとしての異言で、人々を回心させるように導くこともあるだろう。あなたの口から知らないうちに外国語が出て、人々を驚かせて信仰に至らせるのだ。
聖霊様によって弟子たちがほかの国々の言葉で神を賛美した。これはバベルの呪いからの解放を暗示している。バベルは、罪人が結託して神様に反逆できないようにするために、神様が言葉を混乱させた事件だ。これは人の罪がはびこっている限り必要な措置だろう。しかし、もし神の民が神様に全面的に従うべく一つになっていたら、それ以上言葉を混乱させておく必要はない。天国では、言葉が違うことによってコミュニケーションが取れなくする意味がない。それでは、天国ではどういうふうにコミュニケーションをとるのかといえば異言のようなものだろう。相手の国の言葉を知らなくても通じてしまうのだ。まず、天国でもそれぞれの国の言葉は語られている。日本語がなくなってしまうということではない。
黙示録7:9-10。天上の礼拝の様子だが、言葉の違う民と書いてある。天国でも話す言葉は違うのだ。国語や外国語の勉強は無駄にならない。違う言葉は話されているが、みな自然と意味が通じる。言葉の違いを意識しないコミュニケーションが成立する。
13節。どんなすごいことが起きても、あざける者はいる。死人が生き返っても、それでも信じない者がいる。無理矢理、自然的に科学的に説明しようとする。新しいぶどう酒に酔ったら外国語が話せるか?ありえない!どう考えても超自然的なことが起こっているのに、明らかに神の奇跡が起こっているのに、屁理屈をこねて、不思議でも何でもない、驚くにはあたらないとする。あざける者は、五旬祭に出席している人の中にいた。あざける者は、神を信じる者のこともあるということだ。アズサストリートリバイバルが起こり、その場に集うすべての人々が聖霊のバプテスマを受けたとき、多くのクリスチャンがそれをカルトだ、狂信だと非難した。実際には、聖書に書いてあることが再現しているのに。あざける者はどうしてあざけるのか?共通して言えるのは、自分の経験に反することは起こらないに違いないという思い込みがある。そう思い込むことが賢いと思っている。無神論者は当然、超自然はないと信じる。クリスチャンであっても、自分の経験をもとに、間違った神学を構築してしまう。もしかしたら私たちの内にもそういう部分がまだあるかもしれない。しかし、聖書には何と書いてあるか?Ⅰコリント2:9-10。神様は、私たちの経験を超えた不思議なことをなさるお方。聖霊様がそのことを悟らせてくださる。神様のことを自分の経験で判断してあざけるのをやめよう。聖霊様によって、神様が見たことも聞いたこともないことを行われることを信じて期待する者になろう。
しかし、このあざける者から、もう一つ学べることがある。聖霊様は新しいぶどう酒のような性質がある。まず聖霊様は新しい方だ。聖霊様を体験したことのない人にとって聖霊様は世のどのようなものとも違う、全く新しい味わいを与えてくださる。ぶどう酒はカナの婚礼で出されたようにお祝い事でたくさん用いられる。聖霊様は人生にそれまで味わったことのない本当の幸せを与えてくださるお方だ。聖霊様に満たされていれば、酒はいらない。世のどんなものにも依存しなくて良くなる。
そして、聖霊様に満たされることは、酒に酔うことと似ている部分がある。酒に酔うと、嫌なことを忘れて、悪いことに大胆になる。聖霊様に満たされると、世の思い煩いや恐れを忘れて、神様の御心を行うことに大胆になる。
【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。
Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。
Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita
Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ
Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita
コメント