慰めを豊かにくださる神[Ⅱコリント1:1-11]

コリントの信徒への手紙二
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あらゆる苦難は、神様の慰めを体験する契機となります。
その慰めによって苦難を乗り越えると、他の人たちを慰め、救いに導くことができるようになります。生きる望みすら失ってしまう苦しみの中であっても、神様にはいつでも希望を見出すことができます。神様は必ず、あなたを苦難から救い出してくださいます。

慰めを豊かにくださる神[Ⅱコリント1:1-11]


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【ノート】
コリントの信徒たちは多くの問題を抱えていた。その問題を解決するため、パウロは一通目の手紙を送った。しかし、一通の手紙ですべての問題の解決には至らなかった。その後の手紙のやり取りやテトスの派遣によって、やっとコリント教会は悔い改めつつあった。コリントの信徒への手紙第二は、すべての問題に幕を下ろすためのものだ。教会が抱える様々な問題に終止符を打つ秘訣をこの手紙から学ぶことができる。パウロの叱責はコリントの信徒たちに悲しみを与えた。そこで、パウロはまず神による慰めを語り始める。そして、悔い改めを喜び、悔い改めた者に対する赦しと和解を求める。また、パウロの使徒職の内容と正当性を語る。ここまでが1-7章だ。さらには、8-9章でエルサレムの聖徒たちのための献金を募る。悔い改めと並んで献金の問題が書かれているのはつながりがあるからだ。真に悔い改めをしたかどうかは、経済を惜しみなく献げられるかどうかによって現れる。最後に、10-12章でもう一度パウロの使徒としての特別な体験を語り、13章の結びに至る。
こう見るとパウロの使徒としての権威の主張が、手紙の大部分を占めることがわかる。悪い見方をすると、自分の権威を主張してばかりに終始してしまっていることになる。パウロは思いあがっているのか?自分を高めようとしているのか?権威によって信徒たちを支配しようと思っているのか?もしそのようにとらえてしまうなら、パウロの使徒性を疑っていた人々と同じとらえ方をしてしまっていることになる。悔い改めが必要だ。牧師が権威に従わなければならないということについて語ったからといって、すぐに拒絶反応を示してはならない。もちろん、権威を振り回すということは良くない。しかし、神が立てた権威に従うということは神を畏れる者として基本中の基本だ。聖書のそこかしこにそのことが書いてある。これが崩れてしまうと、すべてが崩れてしまう。もし、パウロの使徒としての権威を認めないなら、パウロが語った神の御言葉もすべて否定されてしまう。同じように、牧師のことを神が教会に立てた権威であるということを認めないなら、その牧師のメッセージはすべて聞けなくなってしまう。神様に聞き従うことができなくなってしまう。全く実を結ばない者になってしまう。そんなことがあってはならない。神が教会に立てた人々の権威を認め、よく聞き従う者になろう。そうすれば、御言葉を聞けるようになるので、教会のほとんどの問題が解消する。
では、牧師以外の、現代において使徒や預言者と名乗る人々についてはどうとらえるべきか。いたずらに批判をしないことだ。もし本当に神が立てた人の場合、批判すると罪を犯すことになる。その人を通して受けられたはずの祝福を失うことになる。

1節。まず、パウロが使徒であるということが反論の余地がなく示されている。使徒は遣わされし者という意味。誰から?イエス様から遣わされた者だ。教会で、聖徒たちを整えるために、神は、使徒、預言者、福音宣教者、牧師、教師を立てた。使徒はその中でも最高の権威を持つ。神の子たちの中でも最高だということは、人間がなることのできる存在として使徒を超える者はない。パウロはただの自称使徒ではなく、神の御心によって、イエス様の使徒とされた。ということは、パウロの書いていることに背くなら、神の御心に背くことになり、パウロを遣わされたイエス様にも背くことになる。パウロ書簡で語られている御言葉によく聞き従う者になろう。アーメン。
もう一人は兄弟テモテだ。コリント教会の人々にとっては顔なじみの人物で、パウロの代理人としてコリントに滞在したこともあった。パウロはテモテを手紙の共同の執筆者に加えることを躊躇しなかった。テモテの貢献は大きかったからだ。貢献する者の名前をとりあげることは良いことだ。自分を謙遜にし、相手のモチベーションを上げる。
3-11節までの苦難について、すべて「私」ではなく「私たち」となっている。苦難の時、テモテもそこにいたのだ。パウロにとって、いつも共にいる人間の仲間は苦難の時にどれほど大きな支えになるだろうか。誰もがパウロのようになれるわけではない。パウロは特別な召命をいただいていた。しかし、私たちは、たとえ自分自身がパウロのようでなかったとしても、テモテにはなれる。つまり、神によって立てられた人のそばにずっといて、その人を支えることはできる。そして、どんなに強いと思われる人物、規格外の信仰の持ち主であったとしても、そういう支えは必要だ。人には人による支えが必要だ。苦難の時、仲間と共にいて支える者になろう。

手紙の宛先はコリント教会だけでなく、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへとなっている。これは第一の手紙では言及されていないことだ。そこにはパウロが訪れたアテネで回心した人々も含まれるだろう。そして、コリント教会を通してイエス様を信じて別の地域の人々も含まれるだろう。パウロの一見失敗したかのように見えたアテネ宣教の実は着実に結ばれていった。また、問題だらけでどうしようもないと思えたコリント教会を通しても、彼らの悔い改めによってだろうか、救いの実が結ばれていたのだ。一生懸命がんばったのに、失敗だった、何の実も結ばれなかったと早合点しないようにしよう。パウロはそんな考えをしなかった。問題だらけで心が折られそうなコリント教会に対する手紙でパウロは何と書いたか?Ⅰコリント15:58。苦労は決して無駄にならない。時間がかかることはあるが、神様は必ずあなたの苦労に報いてくださる。

2節。この祝福の挨拶はどのパウロ書簡にも登場する。恵みと平和とある。恵みはギリシャ風の挨拶。「おはようございます」というのと同じ感覚で、「恵み」と言った。ギリシャ語ではカリスであり、好意、喜び、感謝、魅力、愛情、善意、親切などという意味がある。恵みは神がイエス・キリストを通して与えてくださる賜物であり、私たちの魂に聖なる影響を与える。恵みはクリスチャンの信仰、知識、愛を保たせ、さらに強め、神の御心を行うように燃え上がらせる。恵みは十字架の贖いに最もよく示されている。

平和はヘブライ風の挨拶。ヘブライ語ではシャローム。そこには平和以外に健康、安全、安息、繁栄、幸福、静けさという意味がある。平和はイエス様を通して神様との関係が回復することによって得られる。もはや神様は恐ろしい方ではない。神様が自分を導いてくださっているので、人生は大丈夫だ。そして、救いの保証されている。死後は天国に行けるので死も恐れるに足りない。それで、心に平安があるという状態だ。
必ず恵みと平和という順番になっている。十字架の贖いの恵みを体験した人が、神様との関係を回復して平和を体験するようになるからだ。

3-7節。この中に慰めという言葉が9回も出てくる。パウロは自分が苦難の中で体験した神の慰めについて語っている。それと同時にコリントの信徒たちもこの慰めにあずかるように招いている。コリントの信徒たちについては、パウロと違って神に仕える上で直面した苦難というよりも、罪を犯したことによる懲らしめによる苦しみもあった。誇らしいものではない。当然受けるべくして受ける苦しみだ。それでも、神の慰めはあるのだ。4節に「あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる」とある。私たちの人生で経験する苦しみの多くは、自ら招くものだ。自ら人間関係を破壊し、自ら依存症に陥り、自ら経済的困窮に陥ってしまう。しかし、3節にある通り、慈愛に満ちた父なる神様はそんな私たちを見捨てず、慰めを与えてくださるのだ。
慰めとは何か。普通の意味としては、相手の苦痛をやわらげるような同情を意味する。しかし、ここで使われている慰めという言葉は、それ以上の意味がある。パラクレーシスというギリシャ語が使われている。傍らに呼ぶという意味がある。神様が私たちに同情し、私たちに温かい言葉をかけ、さらには私たちの傍らに来て、肩を抱き、頭をなでて慰めてくださる。このパラクレーシスが人格化された方がパラクレートス、慰め主とか、弁護者と訳される聖霊様だ。聖霊様は私たちの傍らに呼ばれた者。私たちと苦難を共にしてくださる。苦難を経験するときというのは、私たちはいつも以上に強く聖霊様が共におられることを体験するときでもあるのだ。
5節。パウロは、クリスチャンであるがゆえの苦難を経験した。イエス様を信じてクリスチャンになるということは、苦難を覚悟するということでもある。十字架を覚悟するということでもある。しかし、怖気づいてはならない。苦難は苦難で終わらない。クリスチャンはキリストと霊において一体とされているので、キリストが通られたところをすべて通る。キリストの苦難と、それを乗り越えるための慰めをも通るのだ。それは一つにはキリストと同じところを通る栄誉にあずかっているという慰めである。苦しみはそれだけ主から認められているということであり、豊かな報いを用意されているということだ。また、イエス様御自身が、苦難の中にある者を御力によって助けるという慰めでもある。ヘブライ2:18。苦難の中にある時には、そうでない限り経験できない御助けまで期待できる。
そして、すべての苦しみは益とされる。ローマ8:28。苦難と慰めを体験した人は他の人の慰めと救いに用いられるようになる。4節,6節。長く、辛い、人生に大きな影を落とす苦しみの日々を通ってきた人たち、いつまでもその中にいる必要はない。イエス様があなたと共にいてくださる。慰めを受けて立ち上がろう。そして、同じ苦しみを経験した人たちを助けよう。崩壊した家庭で苦しんだ人は、崩壊した家庭で苦しむ人を慰め、救いに導くことができる。愛する人の死別を経験した人は、愛する人の死別を経験した人を慰め、救いに導くことができる。大きな事故や病気を経験した人は、大きな事故や病気を経験した人を慰めることができる。依存症で苦しんだ人は、依存症で苦しんだ人を慰め、救いに導くことができる。異端やカルトで苦しんだ人は、異端やカルトで苦しんだ人を慰め、救いに導くことができる。それは、あなたしかできない特別なミッションだ。

3-7節で苦難に際しての慰めについての神の一般的な御働きを語った。8-11節でパウロとテモテの苦難と慰め実体験を語っている。8-11節。読んでみると、生きる望みすら失ってしまうほどの大きな苦難だということはわかるが、具体的に何があったのかはよくわからない。ほかの手紙を読んでもわからない。パウロは詳細を語っていないのだ。人というものはちょっと足にとげがささった程度の痛みでも大げさに言葉を連ねて同情を集めようとすることがあるものだが、本当に大きな苦しみを経験したパウロは多くを語らない。なぜか?もう神様から慰めを受けたので、あえて同情を呼びかける必要がない。また、私たちが声高に叫び、人々の注目を集めるべき苦しみとは、自分の苦しみではなく十字架につけられたキリストの苦しみだ。その苦しみと比べて、私の苦しみは取るに足りないものだ。私の受難ではなく、十字架の苦しみこそ声高に叫ぶ者になろう。

この記事から驚かされ、慰められることがある。8節にある通り、使徒パウロすら、生きる希望さえ失ってしまうほどに追いつめられることがあったということだ。もしあなたが生きる希望を失ってしまうことがあるとすれば、そんなに恥じることではない。
使徒パウロも同じ状況に陥ったことがある。そして、すばらしいことにパウロはその状況を打破することができた。あなたも、パウロのようにすれば、生きる希望を失ってしまったその状況を打破することができる。では、生きる希望を失ったらどうすればよいのか?自分に頼るのをやめて、神に頼ればよい。自分に頼れば、すぐに限界にぶつかる。しかし、神は死者を復活させてくださる。だから、神に頼るなら、常にどんな状況でも生きる希望が湧いてくる。パウロは生きる望みを失っていたはずなのに、10節では、「わたしたちは希望を神にかけています」として希望を取り戻している。神様にあっていつも希望がある。

そして、神は状況をひっくり返してくださる。にっちもさっちもいかない、どうしようもない、打つ手なし、もう詰みだという状況のように見えても、神は全部をひっくり返すことがおできになる。私の人生の中でも、追い詰められた人が真剣に祈ったときに、神様が状況を一変させてくださるのを何度も見た。迫害をしてきた人々が急に手のひらを返して好意的になる。パワハラをしていた人たちが全員クビになり、会社が完全に新しい体制になる。ひそかに行われていた悪事が暴かれて、裁かれる。そういうことが起こる。神様が状況をひっくり返してくださることを信じよう。

そして、素晴らしいことに神様による救いは続けて起こる。過去、神が救ってくださったという事実は、将来、同じように救ってくださるに違いないという根拠になる。神様の御業には、再現性があるのだ。だから、「また同じ状況になったらどうしよう」などと心配する必要はない。そうしたら、また、神様が同じように救ってくださる。何度でもそうしてくださる。しかし、私は過去に一度もそのような劇的な御業を体験したことがないと思う人もいるかもしれない。あなた自身が体験したことがなくても、あなたがこの箇所を読んで、神がパウロをこのように救ってくださったということは、私もこのように救ってくださるに違いないと信じればよい。そうすれば、あなたに対しても同じことが何度でも起こるようになる。ほかの人々の証しについてもそうだ。誰かから証しを聞くときも、「この人は特別だからこのように祝福されるのだな」ではなく、「神は私にもこの人のようにしてくださるに違いない」と確信しよう。そうすれば、その通りになる。他の人の証しを聞くたびにあなたはアップグレードされる。そのように、神様に対して希望をかける者になろう。

11節では、パウロは祈りによる援助を求めている。執り成しの祈りには力がある。ヤコブが殉教し、ペトロが牢に入れられて、処刑されそうになっていたとき、教会では、熱心な祈りがささげられていた。その祈りのお陰で、ペトロは天使によって牢から出ることができて助かった。そういうことが起こると、祈りを通して与えられた恵みについて、神様に対する感謝と賛美がささげられることになる。主の栄光を現されることになる。祈ろう。特に教会の中で、重要な働きを担う人々のために祈ろう。アーメン。

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