悲しみの原因となった人を赦す[Ⅱコリント2章]

コリントの信徒への手紙二
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キリストの御前で、サタンにつけ込まれないために、赦します。

悲しみの原因となった人を赦す[Ⅱコリント2章]


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【ノート】
1-4節。この箇所は悲しみについて語っている。パウロはコリントを訪問するつもりだった。そのことを第一の手紙に書いていた。しかし、パウロは、ようやく悔い改めようとしていたコリントの信徒たちに追い打ちをかけて悲しませたくなかったので、1節にある通り、コリント訪問を避けた。パウロは不必要な悲しみをもたらしたくなかったのだ。不必要な悲しみは絶対に避けなければならない。愛する人々が悲しむことを誰があえて望むだろうか?望まない。それでも、望まないはずの争いをしてしまうことがあるだろうか?私たちは自分の短気やわがままによって、愛する人々と衝突して、不必要な悲しみをもたらすということはあるだろうか?言わなくてもよい小言、愚痴、嫌味を言って衝突する。そういうことを絶対に避ける者になろう。
しかし、どうしても必要なら、パウロは罪を戒めるために、厳しく叱って悲しみをもたらすことをいとわなかった。パウロがそうしたのは、できれば厳しい態度をとりたくないけども、ほかに方法がなかったからだ。相手を罪の束縛から解放するために、どうしても厳しい態度が必要になることがある。愛するがゆえの厳しさだ。パウロの方がつらかった。パウロは怒りの感情にまかせて手紙を書いたのではなく、4節にある通り「涙ながらに手紙」を書いた。罪を戒められるよりも、愛ゆえに戒めなければならないことの方が実はずっとつらい。そのことを理解しよう。何かで戒められているときは、戒めている人の心の痛みを理解しよう。そうすれば、素直に聞き従うことができる。

ここで問題とされている人には、おそらく第一の手紙で指摘されていた近親相姦をした人が含まれるだろう。Ⅰコリント5:1-2。性的に乱れた異邦人社会でも、さすがに近親相姦は避けていた。そういう罪をあろうことかクリスチャンが犯した。しかも、教会では誰もそのことを厳しく咎めようとはしていなかった。パウロはその罪を深く悲しんだ。そして、コリントの信徒たちにその罪を悲しんで、罪を犯した者を除外せよと命じた。罪とは、悲しむべきものである。パウロは、コリントの信徒たちの罪によって悲しい思いをした。コリントの信徒たちはパウロの厳しい叱責の言葉によって悲しい思いをした。双方が悲しんだ。何のために悲しんだのか?また、双方の悲しみを喜びに変えるものは何か?悔い改めだ。罪を悲しむ目的は、悲しみ自体にあるのではなく、悔い改めてその罪から離れて、みんなが真の喜びを体験するようになるためだ。罪が放置されているところに真の喜びも平和もない。それは偽りだ。偽装を取り除き、罪の惨状に目をとめて、悲しむことは悔い改めの第一歩だ。罪に対して無感覚になってはならない。罪を悲しんでいるか?あなたが悲しんでなくても聖霊様は悲しんでおられる。泣いておられる。もし聖霊様を悲しませる罪を犯していながら、無感覚になっていたら、悲しむようにしよう。涙を流して悔い改めるようにしよう。そうすれば、聖霊様による真の喜びを教会で共有することができる。

5-8節。5節に「その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです」とある。パウロは、問題を自分の個人的なものととらえず、神の教会の交わりや秩序に関するものとしてとらえた。問題を個人的な感情でとらえてしまうと、肉的で利己的な反応をしてしまいがちだ。問題を解決するどころか、かき回してさらに難しくて修復不可能なものにしてしまう。私たちは、問題に直面するときに、自分のプライドとか人からどう思われるかとか、そういうくだらないことに焦点をあてることはやめて、問題を教会全体のこととしてとらえ、教会が益となる道を探る者となろう。
ここにある悲しみの原因となった人は、第一の書簡を送ってもすぐに悔い改めなかったので、パウロは散々手を焼いた。パウロの使徒性を疑ったり、あらぬことで非難をしたりしたのも、同一人物かもしれない。パウロはその人が多数の者から罰を受けたということを知った。コリントの信徒たちの中には、このくらいの罰ではなまぬるい。もっと徹底的に罰して懲らしめようという人もいた。パウロは敵対者が罰を受けたことについて、手をたたいて喜ぶということをしなかった。ひそかにほくそ笑むということもしなかった。そうすると主が不愉快に思われる。むしろ、パウロはその敵対していた人を愛するがゆえに、もう十分だ、赦して、力づけて、愛するようにと呼びかけた。ハレルヤ!これは神様の御心に適っている。私たちは自分に敵対する人に対しても、公正に対処をする者になろう。ここに罰について学ぶことがある。

第一に、教会では、時に処罰が必要である。教会員が深刻な罪を犯したにもかかわらず悔い改めない場合、教会によっては、聖餐にあずかる資格を停止することがある。そのことを公表することがある。さらには、会員資格をはく奪することもある。それは、御言葉にのっとっている。マタイ18:15-17。Ⅰコリント11:27-29。Ⅰテモテ5:20。処罰は、本人の悔い改めのためにも、教会全体を健全に保つためにも、時に必要である。

第二に、教会では、処罰は罪の悔い改めに必要な範囲内でとどめなければならない。罰は復讐の手段ではない。罰は相手を絶望させてしまうほどのものであってはならない。罰は、あくまでも、相手が悔い改めて神様に立ち帰る目的の範囲内にとどまらなければならない。そして、その目的が達成されて、相手が悔い改めたら、いつでも赦して、力づけて、愛して、再び受け入れる余地がなければならない。

9節。パウロは、万事について従順かどうかは、罪に厳しく対処するかどうかによって明らかになると言っている。罪に厳しく対処することについて従順なら、ほかのすべてのことについては問題なく従順できるはずなのだ。罪を厳しく対処することには、乗り越えなければならない壁がある。ぬるま湯体質がある。事なかれ主義の誘惑がある。罪を厳しく対処するなら、相手と正面からぶつからなければならない。そのとき、波風を立てたくないという意識が邪魔になる。また、罰への恐れを背負わなければならない。誰かを処罰するということは、自分もいつか同じことをして罰せられるリスクを負うということだ。キリストのように生きたいと真剣に思わなければ、自分が罰せられないように、他人に対して甘くしようという誘惑に陥ることがありうる。こういう誘惑を乗り越えて罪に厳しく対処するという点について従順さを示す者になろう。コリントの信徒たちはすでにそれを示した。だから、パウロはもうそれで十分だとした。

10-11節。赦しの必要性について、キリストとサタンの二つの側面を見ることができる。これらを悟るとすんなり人を赦せる。パウロは、キリストの御前でコリントの信徒たちのために赦すという。十字架にかかられたキリストの御前に立ったことはあるか?キリストは私の罪のために十字架にかかられた。私自身が罪の赦しを必要としている者であり、そのためにキリストが代価を払ってくださった。それと同時にすべての人の罪のために十字架にかかられた。それによってすべての人が救いの恵みにあずかれるようになった。もし、誰かを赦さなければ、キリストの十字架を否定してしまうことになる。赦さなければ恵みがなくなってしまう。赦しは有益だ。赦すと、恵みが通りやすくする。赦すと、キリストの御前で平安が与えられる。赦しは常に御心だ。赦しは祝福であり、解放だ。
サタンのやり口とは何か。第一に、罪を犯させる。第二に、教会が罪を犯した人を赦せず、憎しみの心を持たせる。第三に、教会に罪を犯した人を過度に処罰させ、完全にキリストから離れさせてしまう。
第一の、罪を犯させるという点で、すでにサタンは勝利を得てしまった。深刻な罪が教会に入ってきてしまった。続いて、教会に憎しみを生み出させることと、違反者をキリストから離れさせる点においても、勝利を得そうだった。ここで対応を誤ると教会がサタンに乗っ取られて空中分解してしまいかねない。それをパウロは阻止するべく、赦しの必要性を説いたのだ。人を赦さないと、サタンにつけこまれるすきを与えてしまう。憎しみによって縛られ、サタンの奴隷になってしまう。サタンに用いられて兄弟姉妹たちを滅ぼしてしまう。赦さないならサタンの奴隷になる。サタンのやり口を悟ろう。キリストの十字架の御前に立って、赦す者になろう。

12-13節。トロアスは伝道にもってこいの環境が主によって準備されていた。救いの実が豊かに結ばれていた。しかし、パウロはコリントの信徒たちのことが気がかりで仕方なかった。派遣したテトスも戻ってこない。それで、パウロはトロアスでの成功とは裏腹に、不安な心を抱いたままマケドニア州に向けて出発したのだった。良い牧会者は、遠く離れていても、別の働きに取り組んでいても、迷える羊のことを心に止める。箴言27:23-24。羊たちが成熟したクリスチャンになり、優れた牧会者の手にゆだねているなら安心だが、そうでないなら、気に掛けるのは当然だ。あなたが伝道した人たちは今どうしているか?キリストに堅く結ばれているか?教会に通っているか?信仰を持って歩んでいるか?誰か気がかりな人がいる場合、執り成しの祈りをささげよう。久しぶりに連絡をしてみよう。牧会される側は、牧会者が不安を抱かなくても良いような成熟した信仰者に成長するように、恵みと信仰で励もう。

マケドニア州で、パウロはテトスと合流し、良い知らせを聞いて勝利の叫びをあげた。14-17節。パウロは不安を抱いていたが、それは杞憂だった。いらない心配だった。神様は御自分に仕える者たちを、いつもキリストの勝利の行進に連ならせてくださる。私たちの主は罪に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、死に打ち勝たれた。そのキリストと結ばれる私たちが勝利できないわけがない。私たちの勝利はゆるぎない。心配せずに神様を信じて従って歩んでいこう。この道を全うしよう。
キリストの勝利の行進は、ローマ軍の凱旋式になぞらえている。ローマ軍では凱旋式は、戦争を完全に平定させ、5千人以上の敵を撃退し、ローマ領が拡大された場合にのみ行われた。街中の人々が沿道に立ち並び、喝采をあげながら、凱旋行列を迎える。凱旋の行列の順序は決まっていて、まず官吏と上院議員たち、次にラッパ奏者たち、次に戦利品の数々が進み、次に捕虜たち、特に敵の王族や指導者が鎖につながれて晒し者になりながら進む。彼らの多くは凱旋式の直後に処刑される。次に鞭をもった囚人係、次に竪琴を手にした音楽士たち。その次に香りを放つ香炉を持った祭司たちが進み、最後に主役の凱旋将軍自身が戦車の中に立ち、人々の歓声にこたえる。
キリストこそが、まさに主役の凱旋将軍にあたる。神様はいつも福音のために労苦する人々をこのキリストの勝利の凱旋行列に加えてくださる。そのポジションは、祭司としてかぐわしい香りを放つことだ。凱旋行列にただよう香りは、同じ香りでありながら、それをかぐ人によって全く違う意味を持った。沿道で喝采する人々にとっては自国の安全と繁栄を約束する命の香りであり、鎖につながれた捕虜たちにとっては自分の死が確実に近づいていることを暗示する死の香りなのだ。
同じように、パウロたちは、キリストを知る知識の香りを福音宣教に献身することによってふりまいていた。あなたも聖霊様を受けてイエス様の証人とされているのであれば、キリストを知る知識の香りを漂わせる者だ。その香りはキリストを受け入れて救いの道を歩む者にとっては永遠の命の希望を輝かせ、キリストを拒んで滅びの道をたどる者には死に至らせる香りであり、確実に訪れる破滅を予感させる。死に至らせる香りというと物騒に聞こえるかもしれない。しかし、そもそも福音のないところには、全員が例外なく死に至るしかなかったのだ。すべての人が死の行進に連なっていた。キリストを知る知識の香りは、命か死かという選択肢を提供する。命か死か、どちらかを選べるなら、どちらを選んだら良いだろうか?命を選べばよい。命なるキリストを信じることを選択すればよい。ここで特徴的なのは、キリストを知るという知識の香りを漂わせるということだ。香りの特徴は何か?香炉の香りは絶えず発せられ、絶えず漂う。福音を伝えるということであれば、どんな長いメッセージにも終わりがある。聖書の学びにも終わりがある。しかし、香りを放つことにはどうやら終わりがない。私たちが存在する限り、ただ存在するだけでも、いつも絶えず、周囲にキリストを知らしめることができるのだ。私たちはキリストのような生き方を通して、愛に満ちた言動が、良い行いに現れる輝かしい光が、絶えずキリストを知る知識の香りをふりまく。そんな生き方ができるだろうかと不安になるか?心配しなくてもよい。香炉の香りが立ち上るというのは、祈りを象徴するものでもある。私たちが御助けを求めて祈るとき、キリストのように愛のある行動を取ることができるようになる。

いずれにせよ、死か命をもたらすというのは責任重大な務めだ。そのような重大な務めにふさわしいのはどういう人なのか?その答えは17節にある。多くの人のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、神の御前でキリストに結ばれて語る。

多くの人が神の言葉を売り物にしていた。伝道牧会をお金儲けのためのビジネスにしていた。牧師や伝道者を一種の生計を立てるためのただの職業とみていた。クリスチャンの多い国では牧師が人気の職業の一つになることもある。ただ人気だから、安定するから牧師になる、というであれば、神の言葉を伝える動機はお金だということになる。それは神に属する者というよりは世に属する者である。パウロはそうではなかった。ただで、神の言葉を語った。お金持ち相手でも、貧しい者相手でも、分け隔てなく誠実に語った。神の言葉はすべての人に救うからだ。命をもたらすからだ。パウロは神に属する者として神の御前で神を畏れる心を持って語った。キリストに結ばれて、キリストの代弁者として語った。あなたは、キリストの香りを放つ務めにふさわしいだろうか?私は、絶対に神の言葉を売り物にはしない。お金のために語る者ではない。私は人々にキリストを知らせたい。命を得てほしい。ゆるぎない希望を持ち、真実の愛を体験してほしい。その思いで誠実に、まっすぐ神の言葉を語る。

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