宝を土の器に納めている[Ⅱコリント4章]

コリントの信徒への手紙二
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「私は落胆しません。」
神様の真理に目をとめて、そう宣言しましょう。

宝を土の器に納めている[Ⅱコリント4章]


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【ノート】
1節。パウロは、「落胆しません」と宣言する。「落胆しません」という宣言は16節でも繰り返されている。落胆しない信仰がこの章の主題だ。落胆させるような困難に取り囲まれていても、パウロは落胆しなかった。落胆せずに自分が与えられている使徒としての召命に生きた。もしかしたらあなたは直面している困難によって落胆しているかもしれない。自分の召命について、奉仕について、身分について、役割について、信仰生活について、落胆しているかもしれない。神の子らしくない、なかなか聖なる者にふさわしいきよい歩みができていない、地の塩としての塩味がない、世の光として輝いていない、王の系統を引く祭司として働きができていないと、実が結ばれていない、試練に勝利できていないと、祈りが答えられていないと、この歩みについて、落胆することがあるかもしれない。パウロは落胆しなかった。私たちも宣言しよう。「私は落胆しません」と。パウロがなぜ落胆しなかったのか、その理由を確認して、今一度奮い立とう。パウロの信仰に学び、落胆しない者になろう。

どういう理由でパウロは落胆しなかったのか?「憐れみを受けた者として」とある。落胆しないのは、憐れみを受けたからだ。私たちは皆、本来呪われた罪人として、永遠の地獄の苦しみにあって当然の者だった。そのことについて、神様の御前で弁解の余地がなかった。それが、神様の憐みにより、イエス・キリストが私の罪の罰を身代わりに受けて、十字架で死んでくださった。イエス様がすべての呪いを引き受けてくださった。イエス様を信じた後も、日々尽きない主の憐れみを受けている。主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。大変なことがあっても主が憐れんでくださるので「私は落胆しません。」アーメン。

次に、落胆しないのは、この務めが偉大だからだ。この務めとは、キリストを知るという知識の香りを放つ務めであり、キリストに推薦状を書いていただく務めだ。結局のところイエス様の福音を宣べ伝える務めということだ。それは栄光に満ちた務めだ。モーセのように人を石に書かれた律法によって死に至らせる務めではなく、聖霊様によって命を与える務めであり、つかのまの栄光ではなく永続する栄光であり、覆いがかかったものではなく覆いを除かれて主の栄光を映し出して栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえる務めだ。大いなる務めを与えられているのに落胆している場合ではない。そして、大いなる務めには、その務めを担うための力も同時に与えられる。私たちの召命はどれも大いなるものである。私たちにはその務めを担うだけの大いなる力が与えられている。この世をつまらないものかのようにとらえて、すぐに携挙が起こることやすぐに天国に行くことばかり考えるのは不健全だ。大いなる務めが与えられているので、「私は落胆しません。」そのことを光栄に思い、信仰をもってそれを全うする者になろう。

パウロが「落胆しません」と繰り返すのは、落胆させようとすることが起こるからだ。何がパウロを、そして私たちを落胆させようとするのだろうか?
第一に、誹謗中傷があっても落胆しない。2節。パウロはこういう非難を受けていた。卑劣な隠れた行いがあるとか、悪賢く人をだますとか、神の言葉を曲げて語っているとか言われていた。全部嘘だ。パウロは神の言葉によって真理を明らかにしていた。務めを与えてくださった神様の御前でそう断言できた。神様はパウロの心をわかってくださっている。神様はあなたの心をわかってくださっている。それで十分だ。
人々からどう思われるかについては人々の良心の判断にゆだねればよい。人々は無慈悲でも神様は憐れみ深い。人々から理解されなくても、務めを与えてくださった神様があなたの心をわかってくださっている。誹謗中傷を受けても、「私は落胆しません」。
第二に、人々がキリストの福音をすぐに受け入れなくても落胆しない。3-4節。福音はイエス・キリストの栄光を放っている。福音の内容はすばらしいので、少しでも霊的な分別ができれば、すべての人がすぐにでも応答して喜んで信じるべきだ。それでも、信じない人がいる。そういうとき、落胆しそうになる。どうして信じないのかと。それは福音に問題があるからではない。それを聞く人々の心に覆いがかけられているからだ。それは、「この世の神」と書いてあるサタンがかけた覆いだ。この覆いによって人々は福音の価値がわからなくなってしまっている。逆に、悪魔に属する教えや宗教に光があるかのように惑わされてしまっている。だから、私たちが福音を伝えても、人々がすぐに応答しようとしないことがあるのは、仕方のないことなのだ。想定内だ。人々が信じようとしなくても福音は変わらずにすばらしい。だから、落胆すまい。では、どうすれば覆いを取り除けるのか?それは3章で扱った。聖霊様の方を向くと覆いは取り去られると3:16-17に書いてある。サタンがかける覆いは、聖霊様の力によって取り除かれる。つまり、伝道する側がいかに聖霊充満かどうかということが問われるということ。すぐに人々が福音を信じなくても、「私は落胆しません。」落胆せずに、聖霊様の力で人々の心の目にかけられた覆いを取り除く者になろう。アーメン。

5-6節では、福音を伝える務めの高尚さがさらに語られている。福音宣教がすばらしいのは自分自身ではなくイエス・キリストを宣べ伝えることだ。自分の名声を高めることを目的とした活動であってはくだらない。それは創造された目的に反した倒錯した者になってしまう。高慢の罪を犯すことになる。私は罪からの救い主ではない。私は完全な人生を送って人類のために十字架にかけられた者ではない。へりくだろう、自分は僕として仕える者に過ぎない。自分は宣べ伝えるには及ばない。宣べ伝えるのは、私を罪から救ってくださったお方、主であるイエス・キリストだ。完全な人生を送られた方、唯一の罪からの救い主、最も高いところに昇られた方、あらゆる名にまさる御名を与えられた方、王の王、主の主、この方の御名を宣べ伝えること以上に意義深いことはない。この上ない方を宣べ伝える務めなので、この務めは高尚な務めだ。
しかも、この務めは誰も担うことができるものではない。6節にある通り、聖霊様によって「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」が与えられた者だけが、担う特権を得る。福音を悟った者だけが福音を宣べ伝えることができる。あなたは福音を悟ったか?その光を与えられたか?それであれば、主であるイエス・キリストを宣べ伝える特権はあなたのものだ。悟っていない者は、そういうすばらしい務めを行いたくても、できないのだ。与えられた特権を用いてこの務めを全うしよう。

7-15節。土の器の中に、偉大な力を秘めた宝が納められている。土の器はクリスチャンの肉体を表している。実際、人は土によって造られた。このことは私たちを謙遜にさせる。宝は福音の光だ。土の器と宝というと、大きなギャップがある。どうしてそのようなギャップがあるのか?自分がもっと貴い器だったらと、器に落胆している人がいるかもしれない。もっと若かったら、もっと健康だったら、もっと有能だったら、もっと美人だったらと。黄金の器に宝が入っていた方がマッチするのではないか?真珠の器に宝が入っていた方がマッチするのではないか?どうして土の器というもろくて壊れやすい、価値の乏しい、輝きのない器を神様は宝を納める器として用いるのか?
なぜ神様は信じた瞬間に霊的に新しく生まれるだけでなく、体も栄光の復活の体に変えてくださらないのか?そのギャップが宝の価値を明らかにするからだ。宝は器に入っているので、外からぱっと見何が入っているのかわからない。もし器がすごすぎると、「あの人があんなにパワフルなのは、あの人自身がすごいからだ」と思われてしまう。器が土の器であれば、私たちは人間としての様々な限界に苦しめられることになるが、それは内に秘められた福音の光が輝く機会となる。その時、「あの人は普通の人と同じはずなのに、何か私にはないものを持っている」と、その人の中には偉大な力が眠っているということを人々が知るようになる。パウロは苦しめられたが、超自然的な福音の光の力によって助けられた。その内容が8-9節だ。それで、絶体絶命の状況でも果敢に宣教ができた。それは単に強靭な精神力の持ち主だというだけでは説明できない、イエス様の命の力によるものだ。その時、人々はイエス様の御顔に輝く神の栄光を見る。誰もが、「あの人が持っているものを私もほしい!どうすればよいのか」と飢え渇きが与えられる。クリスチャンはその信仰が励まされ、燃え上がり、未信者は悪魔の覆いを取り除けられて福音を素直に信じるようになる。それは土の器だから起きることなのだ。

ここに落胆しない理由を豊かに見出すことができる。土の器だからこそ、福音の光が神から出たことを示すことができる。だから、土の器であっても「私は落胆しません。」人間の限界に直面して苦しめられることがあっても助けていただけるので「私は落胆しません。」そのことによって人々が福音の光を見て信じて神様に栄光を帰すようになるので、「私は落胆しません。」

16-18節で落胆しない極意が一気に3つ語られている。16節。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていく。外なる人は肉体だ。内なる人は福音を信じることによって復活した霊だ。人間には老いというものが確かにある。もちろん、それに抵抗することはできる。アンチエイジングだ。適度な運動、栄養のバランスのとれた食事、良質な睡眠などは、健康で長く用いられる者になる上で有用だ。パウロ自身、「体の鍛錬も多少は役に立ちます」と書いているし、「すべてにおいて節制します」と書いている。また、イエス様の御名で祈れば、病気は癒される。神様が医療を用いられることもある。しかし、どうしても、私たちは老いるということ、死に向かっているという事実自体を完全にくつがえすことまではできない。遅らせること、先送りにすることはできるが、完全にやっつけてしまうことはできない。そういう点で、肉体は落胆の種になりうる。しかし、内なる人は日々新たになる。日々、新たになるということは、老いたり、死んでしまったりすることがないということだ。むしろ、内なる人は限界なく成長し続けることができる。日々、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられることができる。昨日よりも今日、今日よりも明日、よりイエス様に似た者、よりイエス様を愛する者、隣人を愛する者になることができる。だから、「私は落胆しません。」
そのためにはもちろん聖霊様に協力することが必要だ。死ぬべき外なる人のためだって、私たちは食事や睡眠や運動に気を遣う。内なる人のためならなおさらそうすべきだ。内なる人への投資は無駄にならない。祈って戦おう。罪を告白して清められよう。御言葉の糧をいただこう。感謝と賛美をささげよう。教会での健全な交わりを持とう。内なる人がすくすく成長するように、励もう。アーメン。

17節。一時の艱難は比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらすと書いてある。艱難は、それだけを見ると、大変なことだ。
パウロは1章で「生きる望みさえ失う」ほどの艱難に直面したという。11章では具体的にもっといろいろな艱難がリストアップされている。一つでも直面したら根を上げてしまいそうな内容ばかりだ。もし、その艱難にあるときに、艱難のことに集中していたら、その艱難を果てしなく長くて、耐えがたい苦しみのようにとらえるしかない。艱難に直面したら、それによってもたらされる栄光と比較してみよう。7-15節で扱った、土の器が苦しむことによって、宝である福音の光が輝き、人々が罪から救われ、神の栄光が現れることだ。それは永遠の報いを豊かにもたらすことになる。永遠に比べたら、艱難の長さはどの程度だと言えるか?永遠に比べたら、地獄以外の苦しみはすべて一時の苦しみだ。どれだけ苦しくても終わりがある。トンネルがある。その先には栄光が待っている。受けた苦しみにはるかにまさる永遠の栄光だ。イエス様があなたの頭に栄冠を置き、あなたを労ってくださる。そのことを思うとき、どんなに苦しいことだって耐え忍ぶことができる。だから、「私は落胆しません。」

18節。見えるものではなく、見えないものに目を注ぐとある。見えないものにどうやって目を注ぐのか?信仰によってだ。ヘブライ11:1。見えるものは過ぎ去る。土の器は過ぎ去る。外なる人は過ぎ去る。人々が書く推薦状は過ぎ去る。トロフィーは過ぎ去る。地上の富は過ぎ去る。そればかりかやがて万物が過ぎ去る。見えるものを得ようが失おうが、良かろうが悪かろうが、大きな問題ではない。見えない永続するものにこそ価値がある。内なる人は永遠に続く。福音の光は永遠に輝き続ける。キリストの推薦状たる救われた人々は永遠に生きる。天の報いや天に積まれた富は永遠に残る。天国は永遠の王国だ。信仰の目をそれらに注ぐなら、私たちがすでにどれだけ祝福されて豊かにされているかがわかる。それらは、私たちがどんな艱難に直面したとしても、失われることはない。むしろますます豊かになるのだ。だから、「私は落胆しません。」

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