恵みを無駄にしてはならないのは、貴い犠牲が背景にあるからです。
恵みには、人には決してなしえないことを可能にする力があります。
恵みを無駄にしてはならない[Ⅱコリント6:1-10]
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【ノート】
1節。1節の神の協力者は別訳では、神と共に働く者だ。神が誰かと共に働く必要があるか?神に協力者が必要か?必要ない。神は御自分おひとりですべてを完璧に仕上げることができる。それでも、神様は不完全な私と共に働きたい、協力してやっていきたいと願っておられる。そして、神が私と共に働いてくださるなら、私は気楽だ。たとえ、私の能力がそこそこだとしても、神は私の不十分な部分をカバーしてあまりある全能のお方だ。ただ私は、神様に全面的に信頼して、自分の分を果たしさえすればよいのだ。そうすれば、最高の結果が必ずついてくる。
想像してみよう。あなたの仕事のパートナーが神様だったら、どうなるか?どんなプロジェクトをでも絶対にうまくいく。まさにそれを現実として体験できる。あなたが主にあって奉仕をするとき、あなたは神と共に働く者だ。大成功が保証されている。じゃあ神と上手に協力して働くにあたって必要なことは何か。まず、神と共に働く者だということを忘れてはならない。自分一人で奉仕をしているのだと思ってはならない。最高のパートナーがいるのに、一人で突っ走ったらうまくいかない。また、神の分と自分の分があることを心得なければならない。神の分は知恵と力だ。私の分は実行だ。私は聖書を開いて神にどうすればよいか聞いて、その通りに実行する。実行するとき神の御力が炸裂する。ブレーンとパワーが神様。実行部隊が私ということ。
そして、「わたしたちはまた」とあるのは、5章20節のキリストの大使であるということを受けている。キリストの大使であり、神と共に働く者として勧めるということだ。キリストの大使も、神と共に働く者も、どちらも神の御心をよくわかっていないと務まらない。だから、御心に従って、人を建て上げる勧めをすることができる。
勧めの内容は「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」だ。恵みは資格のない者に無償で与えられる神のご好意であり、自分では造り出せないもの。恵みはただで手に入るものだ。ただで手に入るものというのは、ただなので、ともすれば人がその価値をよくわからずに、ぞんざいな扱いをしてしまうことがある。しかし、恵みを無駄にしてはいけないのは、それだけ貴いからだ。日本では、出された食事は完食することが推奨されている。お残しをしたら、もったいない、SDGsに反するということだ。その食事の背後には、農家が丹精を込めて作った作物などを、料理人が愛情を込めて調理したなどという背景がある。だから、捨てるのはもったいない、もったいない。では、神からいただいた恵みにはどのような背景があるのか?イエス・キリストの十字架だ。神の御子が私の罪のために、苦しみ、血を流し、すべての呪いを引き受けて死なれた。最高の犠牲、最高の愛から恵みは流れている。恵みを無駄にするということは、私のために死なれたイエス様の十字架の死を、無駄死にしてしまうことを意味する。そんなことは絶対にあってはならない。恵みは無駄にしてはならない。
それでは、恵みを無駄にすることはどういうことを指すのか?第一に、恵みを無駄にすることは、イエス様を信じて受け入れないことを指す。福音を聞いても受け入れないことは、恵みを無駄にする最たる状態だ。せっかくイエス様が死んでくださったのに、イエス様を信じれば体験できる罪の赦し、永遠の命、新しく創造されること、聖霊様の内住を体験できない。しかし、コリントの信徒たちは、クリスチャンなので、さすがにこの点はクリアできていたと思われる。
第二に、恵みを無駄にすることは、与えられている恵みを悟らず、恵みにふさわしい生き方をしないこと。たとえば、Ⅱコリント5:17について考えてみよう。この恵みを悟れば、新しく創造された者として歩める。しかし、もう新しく創造されているのに、それを悟らずに、「まだ自分は古いもののままだ」と考えて生きる人もいる。
それは不健全で不気味な生き方だ。まるで、芋虫が蛹になり、蝶になったのに、まだ芋虫だと思い込んで、飛び立とうとしないようなものだ。いただいている恵みを悟り、その恵みにふさわしい生き方をしよう。罪赦された者として晴れ晴れとした心で歩もう。神の子として権威を持って歩もう。永遠の命を持つ者として恐れずに歩もう。聖なる者として世に染まらずに歩もう。
2節。恵みを無駄にしてはいけませんと使徒パウロが勧めるのは、恵みは常に差し出されているからだ。受け取ろうと思えば、すぐに受け取れる。イエス様はすでに十字架で死なれて、贖いの業を成し遂げられたので、救いの恵みが私たちに差し出されている。神の子として権威を持って生きる恵みも、新しく創造された者として生きる恵みもすでに差し出されている。後は、私たちが受け取って、その通りに歩んでいくだけなのだ。そうであれば、私たちはいつ恵みに対して信仰によって受け取ればよいだろうか?今すぐだ。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と書いてある。恵みは、それが与えられていると知った時に、すぐに信仰によって受け取ることが神様の御心だ。先延ばしにすればするほど、その分、恵みを無駄にしてしまう。いつか、すべての準備が整ったら、その時に受け取ろう、と思うかもしれないが、そのいつかが訪れる保証はない。神様の側はいつも喜んであふれんばかりの祝福を私たちに注ぐ準備ができている。私たちはああだこうだと自分の都合を並べることはやめよう。イエス様を信じて受け入れる祈りをささげたことのない人は、今、信じて受け入れよう。新しく創造された者とされている事実を悟っていない人は、今、信仰によってその御言葉を黙想し、口ずさみ、自分が新しく創造された者だと宣言し、この事実を自分のアイデンティティーとし、この恵みに歩む者になろう。恵みは今差し出されているので、恵みを受け取るのは今だ。
恵みを無駄にしない生き方をしたらどうなるか?多くの働きができる。Ⅰコリント15:10。使徒パウロは、すべての使徒よりも多くの教会を開拓し、多くの人々を救いに導き、多くの御言葉を語り、多くの奇跡を行った。何がそれを可能にしたのか?神の恵みだ。恵みには、自分の力では決してできないことを可能にする力が込められている。恵みとして与えられているものを悟り、この力を体験し、多くの働きをする者になろう。多くの働きは結果だ。恵みを無駄にしない生き方の中身にふれていこう。
3-10節は、恵みを無駄にしない生き方の実例。どんな状況でも神に仕える者として一貫性のある態度をとることについて。3-10節。3節では「罪の機会を与えず」と書いてあるが、新改訳では「つまずきを与えず」と訳されている。どんな事にも、あらゆる場合にもつまずきを与えない、御言葉に立った首尾一貫とした生き方をしているということだ。一貫性を追求する。その動機は「奉仕の務めが非難されないように」することだ。未信者がクリスチャンを見る目は厳しい。未信者は、クリスチャンであれば、普通の人と違った生き方ができるはずだと考える。それなのに、もしクリスチャンが大変なことに遭遇すると絶望してしまうのを見たら、「ああ、彼らの信仰はこの程度の苦難も乗り越えられないのか。それであれば、信じるには値しない」とみられてしまう。変わりやすいものは信頼に値しないのだ。しかし、逆に、非常に苦境に立たされているにもかかわらず、希望を失わず、御言葉で教えられている通りにふるまうクリスチャンの姿は、未信者に対して証しとなる。そういう意味で、大変な状況こそ、証しの絶好のチャンスだといえる。自分の信仰が、本物だと証明しやすくなる。クレームを言いたくなるとき、理不尽な出来事を嘆きたくなるとき、すべてを投げ出したくなるとき、肉では当然そうしているはずのところ、信仰を発揮し、それでも希望を持ち、それでも愛するときに大きなインパクトを与えることができる。
そのことは未信者の心を打ち、信仰者を奮い立たせる。神様もその信仰に報いてくださる。Ⅰペトロ1:7。
4節後半から5節は、パウロが遭遇したクリスチャンらしくふるまうことを困難しうる状況のリストだ。リストは九つに渡り、三つに分類できる。苦難、欠乏、行き詰まりは、内的戦いだ。鞭打ち、監禁、暴動は、クリスチャン生活の外的艱難だ。労苦、不眠、飢餓は、奉仕に伴う献身だ。つまり、内にも外にも戦いがあり、しかも奉仕のための大変な労力と犠牲が要求されている状態だということだ。これらを克服することができるのは、忍耐だ。忍耐すれば、どんな試練に遭っても私たちは逸れないし、ぶれない。ヤコブ1:4ではあくまで忍耐しなさいと命じられている。忍耐はここまでなら耐えられるけど、これ以上は無理と限界を決めてはならず、どこまでもとことんするものなのだ。ルカ8:15ではイエス様は良い土地のものは、「忍耐して実を結ぶ人たちである」と言われた。忍耐すれば、実が豊かに結ばれる。逆境の中でも、とことん忍耐して実を結ぶものになろう。
続いて、6-7節では逆境の中でも常に変わらず身に付けるべき神様から恵みによってクリスチャンに与えられた霊的なものが九つ列挙されている。困難な状況も、神から恵みによって与えられたものも、同じ九つ。神様は私たちがあらゆる困難に対抗するための恵みをすでに十分に備えてくださっているということだ。困難の数だけ恵みがある。困難がやってきたら、それに対抗する恵みが与えられていることを思い出して神を賛美しよう。ハレルヤ。これも三つに分類できる。純真、知識、寛容は精神に与えられたもの。親切、聖霊、偽りのない愛は感情を中心とした心に与えられたもの。真理の言葉、神の力、義の武器は宣教のために与えられた装備。純真は、非の打ち所のない清さという意味を含むハグノテースという言葉が使われている。知識には、霊的な洞察力という意味も含まれている。寛容は人々に耐える忍耐を表すマクロテュミアという言葉が使われている。人が残忍で侮辱的でも、なお耐え忍ぶことができる偉大な力だ。寛容は個々の戦闘に敗れることがあっても、戦争全体のける敗北を決して許さない人の持つ性質だ。最後の左右の手の義の武器は右手の攻撃用の武具と左手の防御用の武具を意味する。霊的戦いにおける攻撃と防御の手段を、神は恵みとして私たちに与えてくださっているのだ。
8節前半。上げられて、落とされて、また上げられてということが書いてある。手のひら返しという言葉がよく使われるが、昔から人はそういうものだった。人の評価はころころ変わる。また、どんなに神様の御前に正しく歩んだとしても、すべての人から好かれるわけではない。むしろ、イエス様は「あなたがたはすべての人から憎まれる」と言われた。もし人からどう思われるかに執着していたら私たちはいつも不安定な精神状態になる。好評を博するときにのぼせあがったり、悪評を浴びて傷つき意気消沈したり、また悪く思われるのではないかと恐れたりしなければならなくなる。私たちは好評に感謝し、悪評からも学びつつも、私に呼びかける御声にこそ耳を傾けるのだ。「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ。」そうすれば、安定した歩みができる。
8節後半から10節は恵みによって与えられている逆説的な伝道者の在り方だ。まず「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」。伝道者は未信者の救いのためなら、その未信者と同じ立場になることをいとわないし、未信者を説得するためのあらゆる知恵を駆使する。蛇のように賢くなる。それで一見詐欺師のように饒舌だが、その動機は愛であり、真実で理に適ったことだけを語る誠実な在り方なのだ。
次に「人に知られていないようでいて、よく知られ」。イエス様は、「見てもらおうと人前で善行をしないように注意しなさい」と山上の説教で言われた。だから、伝道者であっても、クリスチャンは自分のしていることを積極的に表に出さない。また、伝える内容はイエス・キリストの福音であって、自分ではない。それでも、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」本人が自分のことを宣伝しなくても、主が知られるようになさり、意図せず多くの人に知られるようになる。「死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されておらず」。伝道者は旅につぐ旅という過酷な生活をする。旅には危険がつきものだ。また、迫害の矢面に立つことになる。犯罪者のように扱われることがある。そして、イエス様は「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」と言われたように、やり返すことは許されない。それで、死んでしまうかもしれないという状況にまで、追い込まれることはある。しかし、死なない。神様が命を守ってくださるからだ。神様は御自分に仕える者が、その使命を果たす前に天に召されるようにすることはない。神様はサタンにヨブの命をとることをお許しにならなかったように、伝道者が使命を果たす前にサタンが命をとることを決してお許しにはならない。私たちが死ぬ時は、主が召された時なのだ。
「悲しんでいるで、常に喜び」。伝道者は、滅びゆく人々のために嘆き悲しむ。罪がはびこり、神様の御心がなされていないことに嘆き悲しむ。イエス様が悔い改めないエルサレムのために涙を流されたように、失われた世界を見るとき、御心を心として悲しまずにはいられない。本気で信じる者は一度ならず涙したことがあるだろう。しかし、クリスチャンは世ではなく、御国に根ざしている。聖霊様を通して神の国の喜びが心に常にわき上がってくる。私は救われている!それが喜びの源泉だ。
最後に「貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有して」いる。どうしてそんなことがありうるのか?これは肉的に見るか、霊的に見るかによる。肉的に見れば、伝道者はじり貧だ。最低賃金に満たない働き方をしている人が少なくない。しかし、霊的には、すべてのクリスチャンがそうなのだが、エフェソ1:3にある通り、天のあらゆる霊的な祝福で満たされている。ただのお金持ちが持っていない御霊の実や賜物が満ち溢れて他の人々を豊かにするのだ。そして、何か必要があれば、食べ物であれ交通費であれ、何でも主がその都度満たしてくださる。家の戸の前に誰かが食べ物を置いてくれる。財布を開いたらないはずのお金がある。赤の他人がそうせずにはいられないと、ちょうど必要な交通費を満たしてくれる。こういうことが完全に主に頼って伝道していると起こる。お父さんが万物の支配者なので、私もすべてのものを所有しているも同然なのだ。
これが神の恵みが私たちにもたらす効果だ。恵みによって私たちは一貫性のある、逆境に打ち勝つ力強い生き方ができる。神様はイエス様の十字架から流れるこのような恵みを私たちに差し出している。もし、まだこの恵みを受け取っておらず、恵みを無駄にしてしまっていたら、今、信仰によって受け取る者になろう。イエス様を信じていない人は今信じよう。恵みを無駄にする生き方をしていた人は、今、信仰によって御言葉で約束されている恵みを受け取ろう。
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