新しい契約は、古いものよりもはるかに優れています。
その契約に仕える務めは、栄光に満ちたものです。
栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられる[Ⅱコリント3章]
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【ノート】
パウロは2:14-17で、自分たちのことを、キリストの勝利の行進に連なる者であり、キリストを知るという知識の香りだといった。これは信仰に基づく正しい認識だ。謙遜というのは、自分を卑下することではなく、正しく見ることだ。正しい基準は聖書にある。聖書によると、私は何者か?神の子だ!聖なる者だ!輝かしい勝利者だ!神に愛され、選ばれている者だ!王の系統を引く祭司だ!この真理をそのまま宣言することは、高慢なことではない。真理に基づく正しい認識を持っているのだ。クリスチャンはそのように、真理に基づいて肯定的な自画像を持つこと、堂々としていること、正しいアイデンティティーを持つことが大事だ。 しかし、そのことをわからない人たちが穿った見方をすると、自画自賛ともとらえかねない。高慢だ、自己推薦だともとらえかねない。
そこで、パウロは1節で自問自答する。1節。もし自己推薦が説得力に欠けるというなら、他人からの推薦状が必要ということになるのだろうか?当時、誰かのための推薦状を書くということは良く行われた。推薦状は、身分や資格の証明書のような役割を果たした。教会でも、働き人が初めて教会を訪問する際には、推薦状を使うということが行われていた。ローマ16:1-2はパウロがフェベを推薦する内容だ。どうして教会で推薦状が用いられたのか?クリスチャンは鳩のように素直だ。だから、クリスチャンを対象とした詐欺師に騙されてしまうということがあった。2:17で言及されている「神の言葉を売り物にする」人々の中には、そういう詐欺師も含まれる。推薦状は、詐欺師ではなく、本当に神に仕える人だということを証明する。パウロも、誰かからの推薦状を書いてもらおうとすれば、いくらでも書いてもらえただろう。初代教会の柱と目される3人の主の弟ヤコブ、ペトロ、ヨハネからの推薦状だって手に入っただろう。しかし、パウロはあえて新たに推薦状を書いてもらう必要性がなかった。パウロにはすでにそれがあった。
2-4節。この内容から、私たちが本当に神に仕える者なのかどうかを証明する最たる身分証明書が何なのかがわかる。それは、私たちを通して救われた人々だ。救いの実は、キリストが私たちを用いるのでなければ決して結ばれることはない。救いは、人間の知恵や力によらず、聖霊様が人の心に与えられることを通してなされる御業だからだ。人々はコリントの信徒たちが救われて、変えられた姿を見て、パウロたちがキリストに用いられたことを知った。もし、私たちを通して救われる人々がいれば、それは即キリストが私たちを用いてくださったということなのだ。私たちをキリストが伝道者や牧会者に立ててくださっているということなのだ。そういう意味で、パウロにはすでにたくさんの推薦状があった。しかもそれは、キリストが書いた推薦状だった。キリストが書いた推薦状がたっぷりあるのに、新たにほかの人が書いた推薦状が必要だろうか?いらない!だから、パウロはキリストによって立てられているという確信を神の御前で抱いており、誰から非難されたり疑いの目を向けられたりしても、平気だった。キリストが書いた推薦状以上のものはありえない。何々神学校を卒業したとか、何々先生から按手を受けたとか、そういうことを重視する人もいる。そういうことも多少は指標になりえる。しかし、このキリストが書いた推薦状の方がずっと価値がある。あなたはキリストが書いた推薦状を一枚でも持っているか?あなたを通して救われた人が一人でもいるか?もしいれば、あなたの働き人としての資格はキリストによって証明されている。もし一人もいなければ、どの神学校に入るか云々よりも、キリストにこの推薦状を書いていただくことに尽力しよう。
5-18節はパウロが仕える新しい契約が、古い契約と比べていかに優れているかの説明だ。すばらしいことにイエス様を信じる者は皆、新しい契約にあずかる者だ。
5-7節。古い契約は石に刻まれた文字によって人を殺すが、新しい契約は心に与えられた聖霊様によって生かす。石に刻まれた文字が死をもたらすとはどういうことか?律法を代表する十戒は石に刻まれたものだ。石というのは律法の変更を許さない性質を表している。もし人が律法を破れば、その人は罪に定められ、罪が支払う報酬は死だ。そこで、人はその文字を読んで、律法の内容を部分的に理解して、行おうとする。問題は、行おうとしても行えないことだ。人には罪を犯す性質があるからだ。律法には何が罪かを教える力はある。人を罪に定め、死に至らせる力はある。しかし、律法には人の性質を変えて、罪を犯さないようにさせる力はない。だから、古い契約は罪人を死なせるものでしかないのだ。旧約は死刑宣告をするものでしかない。そこで、新しい契約が待望された。新しい契約が律法を心に与えるものであることは、エレミヤ書に預言されている。エレミヤ31:31-34。新しい契約は、聖霊様によって律法を心に書き記す。律法の石は人間の外にあるが、聖霊様は人間の内側に、心に入って来られる。それで、それまでは律法を部分的にしか理解できなかったが、もっと完璧に理解できるようになる。御言葉をお与えになった神様御自身の霊をいただいているので、御心がよくわかるのだ。律法学者の作ったがんじがらめの施行細則を導入して杓子定規に守ろうとするのではなく、イエス様のように御心をわきまえて状況にあわせて臨機応変に守れる。聖書にはすべての行動や状況について、何が罪で何が神様に喜ばれることか網羅的に書いてあるわけではない。しかし、聖霊様に満たされていると、善悪の判断について迷うことなく、何が神様の御心かすぐにわかるのだ。そして、聖霊様は御言葉を悟らせると同時に、守れる力をも一緒に与えてくださる。御言葉を悟って、守っていくと、私たちは祝福される。生き生きとした歩みをする。これが新しい契約が聖霊様によって人を生かすということだ。そして、新しい契約が死をもたらすことはない。エレミヤ書の預言通り、クリスチャンはイエス様の十字架の贖いの恵みによってすべての罪が赦されているので、罪を犯して死んでしまうことを恐れることはない。ただ、救いの恵みに感謝して、神様を愛して御言葉を行っていくのだ。
7-13節。ここでも古い契約の限界と新しい契約のすばらしさが対比されている。古い契約の栄光は、モーセの顔が光り輝いていた出来事に現わされた。臨在の幕屋で主と顔と顔を合わせて御言葉を聞いた後、幕屋を出ると、モーセの顔は光り輝いていた。人々はモーセの顔を見て恐れにかられた。すると、モーセは自分の顔に覆いをかけた。どうしてそうしたのか?モーセは自分の顔が輝くという現象は、一時的なものであると知っていた。主の栄光の輝きは、やがてモーセの顔から消え去るに違いなかった。その輝きが消え去る瞬間をイスラエルの人々に見せたくなかったのだ。イスラエルの人々に「私たちが結んだ契約の栄光は、つかのまの栄光だったのか!」と、がっかりさせたくなかった。そうやって神様に対して落胆失望させたくなかった。旧約の栄光はつかのまのものだ。旧約では、ほんの一部の人だけが、ほんの一時的に、神様の栄光を垣間見ることができるにすぎなかった。そして、旧約に仕えることは人を死に定める務めをすることだった。その契約期間も、モーセから聖霊降臨までのほんの一時的なものだった。新約の栄光は、永続する。イエス様を信じるすべての人が、絶えず、世の光として用いられる。神様の栄光を現し続けることができる。新約に仕えて人を義とする務めは、栄光に満ちるものだ。私たちは、心配しなくてよい。やがて栄光が失われてしまうのではないかと心配しなくてよい。栄光は永続する。
いつか新約の契約期間が終わってしまうのではないかと心配しなくてよい。イエス様を信じたときから、その契約は永遠に有効である。いつか聖霊様が私たちのもとから去ってしまうことは心配しなくてよい。ヨハネ14:16-17。聖霊様は永遠に私たちと一緒にいてくださると約束されている。今は御霊の実が結ばれているが、いつか実を結ばなくなってしまうのではないかと心配しなくてよい。聖霊様は実を結ぶことをやめない。今は御霊の賜物が現れているが、いつかなくなってしまうのではないかと心配しなくてよい。御霊の賜物は現れ続ける。新約の栄光は永続するからだ!アーメン。
新約にある私たちは後退することを心配しなくてよい。では、良い状態にとどまるのか?いや、むしろ、どんどん良くなっていく、どんどんイエス様のレベルの栄光に造り変えられていく。その内容が書いてあるのが13-18節だ。私たちは栄光から栄光へと主と同じ姿に造り変えられる!ハレルヤ!18節で「これは主の霊の働きによることです」と書いてあるので、聖霊様の働きだとわかる。この働きに豊かにあずかる者とされたい。聖霊様にどんどんイエス様に似た者に造り変えていただき、イエス様の栄光のレベルまで引き上げていただきたい。それでは、聖霊様はどのようにしてそれを行ってくださるのだろうか?まず、旧約の問題点を考えてみよう。古い契約にある者には覆いがかけられている。14節。今でも、正統派のユダヤ人たちはこの通りだ。彼らはシナゴーグで旧約聖書の朗読を聞き、自らも繰り返し読み、トーラーに至っては暗唱してしまうほどだ。旧約聖書の御言葉にものすごく熱心なのだ。しかし、それほど熱心なのに、旧約聖書に啓示されているイエス・キリストについては少しも悟ることができない。旧約聖書で予告されている新しい契約については悟ることができない。覆いがかけられているからだ。キリストによる新しい契約にある者は、聖霊様によってこの覆いを取り除いていただける。つまり、聖霊様によって御言葉を悟れるようにしていただけるということだ。私たちはどのくらい聖書の御言葉を悟れているだろうか?ただ知識として知っているのと、悟っているのとは違う。悟っている人は、その御言葉を確信している人であり、その御言葉の意味を正確に理解している人であり、その御言葉を行う人であり、その御言葉の力を体験する人だ。人によっては、何度もメッセージで聞いたことがあっても、全く悟れていないということがありうる。私たちは、どの程度聖書の御言葉を悟っているか、自問自答してみよう。聖霊様の方を向くと、覆いが取り去られ、私たちは御言葉を悟れる!イエス様は御言葉を聞いて悟ると、30倍、60倍、100倍の実が結ばれると言われた。すさまじいことが起こるのだ。18節で言われているのは、覆いを取り除かれて御言葉を悟ると、私たちは鏡のようにイエス様の栄光の輝きを映し出す者になる。もう栄光と落胆のジェットコースターではない。栄光からより優れた栄光、さらに優れた栄光へと主と似た姿に造り変えられていく。聖霊様は御言葉を悟らせることによって、それをしてくださる。
そして、17節には「主の霊のおられるところに自由があります」とある。聖霊様が覆いを取り除けて御言葉を悟らせるとき、私たちは必然的に自由にされる。悪魔の嘘から解放される。否定的な自画像から解放される。悪い考えから解放される。なかなかやめることができなかった依存症、習慣から解放される。もし聖霊様によらずに聖書の御言葉を行おうとするなら、つらい。束縛を感じるかもしれない。しかし、聖霊様に満たされて御言葉を悟ると、自由な心をもって喜んで御言葉を行うことができる。ハレルヤ。聖霊様に満たされて御言葉を悟り、自由にしていただこう。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えていただこう。すでにあなたはその途上にある。イエス様の満ち溢れる豊かさに至るよう祝福する。
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