不釣り合いな軛につながれてはならない[Ⅱコリント6:11-7:1]

コリントの信徒への手紙二
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神からいただいた恵み、生ける神の神殿とされ、神の子とされていることを無駄にしないために、クリスチャンは聖別された生き方をするように召されています。あなたにいつもつまずきを与える個人やグループとの深い関わりがあれば、この機会に断ち切りましょう。

不釣り合いな軛につながれてはならない[Ⅱコリント6:11-7:1]


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【ノート】
11-12節。使徒パウロは率直に語った。あなたは率直な話をすることができるか?率直に話すことは、建設的なコミュニケーションのために必要なことだ。しかし、日本人は特に得意ではない人が多いかもしれない。言葉をきれいに飾り、当たり障りのない話、上辺ばかりの話をし、本心を隠して建前ばかり語る、あるいは何も語らず沈黙する。そうしたら、相手との衝突を避けることができるが、何も生み出さない。心を通わせることができないし、心がこもっていないので何も伝わらない。ただ惰性でだらだらと話しているだけの感じになってしまう。そういうコミュニケーションはただ疲労感ばかりが蓄積されて喜びがない。イエス様はよく「はっきり言っておく」と語られた。イエス様はいつも率直に語られた。私たちも恐れることなく、率直な話ができる者となろう。

また、使徒パウロは心を広く開いてコリントの信徒たちを受け入れていた。広く開かれた心は、相手を受け入れやすい心だ。たとえ、相手が苦手なタイプの人であったとしても受け入れる。たとえ、相手が自分とは違う意見を持つ人であったとしても受け入れる。たとえ、相手が自分の思い通りの行動をしてくれなかったとしても受け入れる。さらには、相手が自分のことを批判してくる心の狭い人だったとしても受け入れる。事実、コリントの信徒たちはパウロを批判していたのに、パウロは彼らを受け入れていた。
ここでいう、受け入れるというのは、原語を見ると、愛を持って相手を自分の心に抱くことだ。広く開かれた心であれば、たくさんの人をその心に抱くことになる。イエス様がそうしておられる。イエス様の御心は果たしなく広くその御心の中には常に私もいる。罪から救われる前、私は余裕がなくて、自分のことしか考えることしかできなかった。イエス様を受け入れ、罪から解放され、イエス様の愛の広さを知ると、私たちの心も広くなり、他の人を抱くことができる余裕が常にあるようになる。

しかし、コリントの信徒たちは心を狭くしていた。パウロは心を広く開いていたのに、コリントの信徒たちは心を狭くしていた。こういうことは起こるものだ。コミュニケーションは双方の心の歩み寄りで成り立つ。一方がひたすら全面的な受容の姿勢でいても、他方が貝のように心を閉ざしていたら、健全なコミュニケーションは成立しない。それは神様と罪人の間でも見られる。神様はイエス様にあってどこまでも広い御心で、どんな罪人をも受け入れようとしているが、それを知りつつも心を閉ざし続ける罪人は常に存在する。狭い心とはどういう心か?相手をなかなか受け入れない心、余裕のない心だ。相手に対する押し付けや決めつけがそこにある。相手にいろいろな注文をつけて、自分の望み通りにしてくれなかったら、受け入れない。猜疑心にかられて相手の言葉や行動を悪だと決めつけ、受け入れない。そして、相手に対して勝手に作った自分の理想像を押し付け、少しでもずれていると、批判や不満が噴出する。コリントの信徒たちの間にパウロ批判が多かったのはそのためだ。そういう人は、本当に変わらなければならないのは自分自身だと気づかなければならない。

13節。子供たちに語るように「心を広くしてください」と語っている。ということは、パウロはコリントの信徒たちの父として語っているということだ。父が子に語るように語るということには二つの意味がある。親密な愛と権威だ。「あなたがたは悪いものでありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている」とイエス様は言われた。父は子を愛して良いものを与えるものなのだ。しかし、もし子供の方が心を狭くして、父親を受け入れなかったらどうなるだろうか?
せっかく父親が良いものを与えようと準備していても、それを受け取れなくなる。そして、父親というのは、神様が家族の中で権威を与えて立てたものだ。だから、父親の権威に従うことは神様に従うことであり、祝福される。しかし、父親に反抗ばかりしていたら、それは神様に背くことでもあり、祝福されない。使徒パウロは、父として権威をもって、最高に良いものである神の恵みを子であるコリントの信徒たちにしっかりと受け取ってほしかった。6章1節で「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」と勧めている。しかし、コリントの信徒たちはパウロに対して心を狭くしていたせいで、神の恵みを無駄にし、祝福を受け損ねていた。あなたは、自分の父親や霊的父のような立場として立てられている自分の教会の牧師に対して、心を広く開いているか?心を狭くしたら、祝福されないのは、自分自身だ。心を広く開こう。

14-18節。「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と勧告されている。軛とは、二頭の牛が荷を引くために一緒に組にしてつなぐための器具のことだ。軛をつける場合、熟練している牛と不慣れな牛をセットにする。そうすると、熟練している牛の方が不慣れな牛を導いて、同じように動くことができる。軛は似たもの同士でなければ成り立たない。力の強い牛と弱い牛、背の高い牛と低い牛を軛にするとどうなるか?弱い方、低い方が遅く歩き、背に乗せた荷が前進する代わりにぐるぐると円を描くだけになる。牛が釣り合わない軛で繋がれると、仕事ができず、互いに反対の方向に進む。イエス様は私たちに、「私の軛を負い、私に学びなさい」と言われた。イエス様とクリスチャンであれば、軛は成り立つのだ。熟練したイエス様が導き、クリスチャンはキリストの導きに従うのだ。ところが、クリスチャンと未信者は全く違う原理に基づいて生きている。クリスチャンと未信者が軛につながれているかのように同盟を結び、深い関わりを持ったらどうなるだろうか?いつも別の方向に進もうとして主導権を争い、葛藤が絶えなくなる。一致することはありえない。何をしてもうまくいかない。そして、何か大変なことがあったときに、苦しまなければならなくなるのは、クリスチャンの方であって、未信者ではない。クリスチャンは世にあっても、世から完全に聖別されていなければならない。

それは、世の人と一切関わりを持たないということなのか?そうではない。それは第一の手紙で触れられている。世の人とは日常生活の中で関わることになる。Ⅰコリント5:9-10。私たちは未信者のお店で何かを買っても良いし、未信者の会社で働いてもよい。そういうことまで禁止されているわけではない。また、世の人とは、伝道をする中で関わる。主はすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさいと言われた。未信者と関わりを持たずに宣べ伝えることはできない。むしろ、パウロは未信者の救いのためなら、相手の目線に合わせてへりくだることまでした。Ⅰコリント9:19-23。

では、どういう点で未信者と関わってはならないのか?14-16節で未信者側のものとして言われている点についてだ。「正義と不法にどんなかかわりがありますか。」何の関わりもない。義とされている私たちが未信者と一緒になって犯罪行為に走ることはありえない。それは軽犯罪であっても同じことだ。「光と闇とに何のつながりがありますか。」何のつながりもない。世の光である私たちが未信者と一緒になって恥ずかしくて公にできないようなみだらなことや貪欲なことをすることはありえない。

「キリストとベリアルにどんな調和がありますか。」ベリアルとは、サタンの別名で、無価値な者という意味の言葉だ。当然、何の調和もない。キリストを主とする私たちが、サタンが支配する堕落した世の風潮に流されることはありえない。「信仰と不信仰に何の関係がありますか。」何の関係もない。信仰者である私たちが、不信仰な人々の哲学や論説に同意することはできない。「神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。」何の一致もない。過去にイスラエルでは主の神殿に偶像を導入するということが行われたが、その結果はバビロン捕囚だった。生ける神の神殿たる私たちが、未信者に誘われたからといって無感覚になって異教の儀式に参加したり、オカルトに関わったりすることはありえない。もしこれらのことをしながらも、告白していないことがあれば、今告白して清めていただこう。

17節では「あの者どもの中から出て行き」と書いてあることから、特に不釣り合いな軛が自分の所属しているグループである場合は、そのグループから出るということが必要だ。その人が異教の団体に属していたら、そこを脱会する。
悪い友達付き合いのグループであったら、そこから抜ける。たとえば、違法なドラッグやみだらな遊びをするグループに所属していた人が、クリスチャンになることがある。その人はそのグループに所属したまま、聖別した者としての歩みができるだろうか?絶対にできない。「あの者どもの中から出て行け」と言われる。
会社であればその会社をやめる。風俗、ギャンブル、居酒屋など、人駄目にしてしまういかがわしいビジネスに関わる会社がある。そのビジネスによって、罪を犯したり、人生が破滅したりする人がいるのに、「生きていくために、背に腹は代えられぬ」などと言いわけをしながら、そのビジネスを続けてよいだろうか?良いわけがない。やめなければならない。農業をしたり、食糧を備蓄したりしない空の鳥をも神様は養っておられる。それであれば、鳥よりも価値のあるあなたが、聖なる生き方をするためにその会社をやめたとして、養ってくださらないことがあるだろうか?ありえない!神様は必ず養ってくださる。
家族が猛反対したら、自分から縁を切るというわけではないが、適度な距離を置き、信仰については決して妥協をしない。イエス様は「家族の者が敵となる」と言われた。イエス様を信じるがゆえに、勘当されてしまうということは今でもありうる。家に入れてもらえないこともある。学生なら仕送りを停止し、学費を払わないと脅されることもある。それでも、不釣り合いな軛につながれないのは当然として、それを耐え抜くことだ。

どうして聖別された生き方をするのか?それは、私たちが生ける神の神殿であり、神の子とされているからだ。不釣り合いな軛につながれると神の神殿を汚し、神の子にふさわしくない歩みをすることになる。神からいただいた恵みを無駄にしてはならない。私たちは、自分が何者であるのか、自分のアイデンティティーを知らなければならない。アイデンティティーは自分で造り出すものではなく、神様が与えてくださる。神様が私たちを聖霊様が宿る神殿とし、神の子としてくださっている。このことを悟ると、それにふさわしい歩みをするようになる。そうではない世の人と同じように歩むことはできないことがわかる。声に出して宣言しよう。「私は生ける神の神殿だ。私は神の子だ。」

1節。清さがどのような内容、動機、程度において求められているかがわかる。「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」と書いてある。
清さの内容は肉と霊のあらゆるということからすべての面でということだ。怒り、嫉妬、貪欲、高慢、敵意、情欲、偶像崇拝、魔術、不信仰など、霊肉のあらゆる汚れを取り除く。「神を畏れ」と書いてある。清さを求める動機は神への畏れだ。神様が共におられる。また、やがて神様の御前に立つ。そのことが自分を清めるようにと私たちを駆り立てる。「完全に聖なる者となりましょう」と書いてある。程度は完全だ。

神様は私たちがあらゆる面で神様を畏れて、完全に聖なる者となることを望んでおられる。そう望んでおられるということは、私たちはそうなることができるということだ。私たちはすべての面で清められ、完全に聖なる者となることができる。人間である限り、完全になれないとか、いつまでも汚れがあるのだということは、聖書は教えていない。聖書はあくまでも完全を説いている。イエス様は「人間にはできないが神にはできる。神には何でもできるからだ」と言われた。神に何でもできるなら、当然、私たちを完全に清くすることができる。そのことを確信して、自分を清めていこう。

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