天から与えられる住みかを着たい[Ⅱコリント5:1-10]

コリントの信徒への手紙二
スポンサーリンク

人生はキャンプを楽しみながら、最高の家に向かって歩んでいく道のりです。道のりが険しければ険しいほど、イエス様から労いとご褒美がもらえます。

天から与えられる住みかを着たい[Ⅱコリント5:1-10]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
生きているのがつらいという人はいるだろうか。1-10節では、私たちの地上の人生がどういうものなのかを説明している。この説明は4:16-18の内容を展開したものだ。このことを理解すると、人生は楽しくなり、楽になる。大変なことがあってもゴールを目指して進み続けることができるようになる。

1-4節。幕屋と建物が比較されている。幕屋は、私たちの今の肉体のこと。4章では土の器、外なる人と表現されている。建物は、私たちの復活の新しい肉体のこと。それぞれの特徴と違いについて考えてみよう。

幕屋は移動するものであり、建物は定住するものだ。ここでの幕屋というのは、結局のところテントのことを指す。キャンプをしてテントで宿泊したことがあるだろうか?野外でテントを張って寝るというのは、わくわくする体験だ。非日常を味わえる。大自然の恵みを味わえる。もちろん、家と違って不便なところはある。落ち着かないところはある。食事は簡単に食べられない。虫が出たり、場所によっては熊が出たりする危険性もある。寝心地もよくない。しかし、そういう不便さを差し引いてでも楽しいのでわざわざ行くのがキャンプだ。家に帰りたいと思ったら、テントは一時的な寝床に過ぎないので、テントをたたんでしまって、帰ればよい。でも、もし家がものすごく遠くにあると、すぐに帰り着くことはできない。何度もテントで野宿を繰り返しながら、移動する。過酷な道のりだ。しかし、やがては家にたどりついて、落ち着くことができる。ふかふかのふとんで寝て、豊かな食事にあずかり、虫や動物を心配しなくても良くなる。地上での人生は、いわば目的地である家に向かって、テントで野宿しながら移動し、少しずつ近づいていく旅路のようなものだ。この肉体には不便さがある。天国ほど快適ではない。しかし、私たちはこの肉体というテントをもって毎日天国に近づいているのだ。この地上での日々をキャンプとして楽しもう。人生で遭遇する大変なことは、キャンプの醍醐味のようなもの。子供のような心を持って、酸いも甘いも楽しもう。不便さはいつまでも続くものではない。私たちは安息を得られるわが家に着実に近づいている。その家にたどりつくことを楽しみにして歩んでいこう。私たちの主もそういう歩みをした。ヨハネ1:14。「宿られた」と訳されている言葉は原語ではテントを張ったという意味のスケノーというギリシャ語が使われている。イエス様は天国と比べたらあきらかに不便な地上でのテント生活を全うされた。イエス様はその生活について不平不満をつぶやかなかった。私たちもイエス様のように、テント生活を全うしよう。

ここでは、幕屋と建物のことを、服のようにも表現している。2-4節で脱ぐ、着るという言葉が繰り返されている。服は、何度も着るとほつれてきたり、しわくちゃになったりする。やがては破れてしまい、着ることができなくなる。この肉体はそのようなものだ。肉体は服のようなものだ。服は、私ではない。服は、私とは別のものだ。テントも私ではない。私はその中にいるものだ。そのように、肉体も私の本質ではない。私たちは肉体の中に住んでいるが、肉体は私自身ではない。肉体の中に住んでいる霊が私の本質だ。この霊で私たちは神様と交わりを持つ。霊で礼拝し、霊で御言葉を悟り、霊で祈る。霊には良心があり、霊は物事を考えたり、意思決定をしたりこともできる。だから、肉体についてコンプレックスを抱く必要はない。悩みすぎることはない。慎重が高いか低いか、肌の色が何色かはそこまで重要ではない。肉体はあなたではないからだ。健康に気を遣うに越したことはないが、いつかは脱ぎ捨てるのが肉体だ。
むしろ、あなたの本質である霊にもっと焦点をあてよう。霊で神様と交わりを持つのだ。御言葉の糧を食べるのだ。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、主が言われたのはそういうことだ。霊が養われなければ生きていけない。だから、毎日必ず御言葉を食べる。そして御言葉はおいしい。しかし、時にはあまりおいしいと感じられないときもあるだろう。気が乗らないときもあるだろう。それでも食べる。栄養満点の食事が自分の食べたいものだとは限らない。それでも、その食事が体を作ると知っているので食べる。同じように、気乗りしようがしまいがとにかく御言葉を食べるのだ。食べる習慣を身に付けていくようにする。霊が養われる必要性がわかっていると、飢え渇きが出てきて、無理なくその習慣を身に付けられる。霊が養われると、魂も安息を得て精神状態が安定する。神様からの語りかけを受け取りやすくなる。欲求不満に陥ることがなくなる。聖霊様に満たされ、霊によって、魂と体を統制して、罪を避け、神様の御心を行うことができるようになる。

服がぼろぼろになって破けたらどうすればよいのか?新しい服と交換すればよい。3節で「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」と書いてある。「それ」とは地上の幕屋である今の肉体のことだ。肉体を脱いだら、つまり肉体的に死んだら、霊と肉体が分離され、肉体は塵に返り、霊だけの状態になる。しかし、霊だけの状態はいつまでも続かないということだ。しばらくは霊だけの状態になる。クリスチャンの霊は、第三の天にあるパラダイスで過ごすことになる。やがて、イエス様が空中再臨し、そのときに生きているクリスチャンが携挙されるとき、先に眠りについたすべてのクリスチャンの霊は新しい復活の体を得ることになる。私たちの霊が、服のように復活の体を着る。それが2節の「天から与えられる永遠の住みか」のことだ。復活の新しい体は死ぬことがなく、古びることがなく、罪性がなく、強く、栄光に輝く体だ。霊が養われているクリスチャンは、その新しい体を何としても着たいと切望する。その切望のあまり、苦しみもだえ、重荷を負ってうめている。苦しみもだえ、うめくというと、そんなに人生が苦痛なのか、そんなに早く死にたいのかというとそういうことではない。4節に「地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」と書いてある。自殺願望を持つということでは決してないのだ。ここでいう切望は全く否定的なものではない。むしろ、天から与えられる住みかを着ることがあまりにもすばらしいことだと悟っているので、切望するあまりうめくのだ。死にたいのではなく、肉体の復活にあずかりたいのだ。命に飲み込まれてしまいたいのだ。それだけ大きな希望を持っているということだ。将来の希望が大きすぎるあまり苦しむということ。嬉しい苦しみだ。

5節。私たちに天にある永遠の住みかを与えられるようにしてくださったのは、神様だ。私たちが善い事をしたからでも、有能だったからでもない。すべては恵みとして与えられたのだ。天にある永遠の住みかが与えられることは、地上での幕屋生活全体を貫く希望だ。それだけに確実な得られることが確実でなければならない。そうでなければ、過酷な幕屋生活を生き抜くことは難しい。保証が必要だ。神様は聖霊様を保証として与えてくださった。1章でもお伝えしたが、保証はギリシャ語ではアラボーン。手付金だ。手付金は、残りのお金を後で受け取れることの保証だ。霊が贖われていることが、肉体の贖いの手付金として与えられている。私たちは霊的に成長すればするほど、復活の新しい体が与えられることについて確信を深める。以前は霊的に死んでいたのに、聖霊様によってイエス様のように変えられる。すると、手付金を確かにいただいていると悟り、新しい体についても約束通り与えられることを確信するのだ。

6-8節。クリスチャンがこの世で置かれている三つの状態のことが書かれている。
第一に、聖霊様が保証として与えられているので、いつも心強い。6節と8節で心強いと繰り返されている。心強いという言葉は勇気を持つとか、大胆になるという意味のサレオーというギリシャ語が使われている。いつも恐れることなく、大胆に神様の御心を行うことができるのだ。たとえ、肉体が死んでも、天から与えられる永遠の住みかを着れる。死も恐れるに足りない。ただより良い服への交換だ。死が恐ろしくないなら、何も恐ろしくない。いつも心強い。いつも勇気がある。どんなときも落胆しない。

第二に、主から離れている。いや、主は私たちと共にいるではないか?5節の通り、私たちには聖霊様が与えられている。さらにはヨハネ14章を読むと、父なる神様もイエス様も私たちの内に住んでくださっている。そして、神は「私は決してあなたから離れず、あなたを置き去りにはしない」と約束しておられる。だから、霊的には主は私たちと共におられる。ここでいう離れているというのは肉体的にはという意味だ。天のお父様は第三の天の御座に最も臨在しておられ、イエス様の御体はその右の座に座っておられる。この事実は肉眼では見えないが、信仰は見えない事実を確認するものだ。信仰に生きる私たちはそのことを知っている。霊的にはゼロ距離だが、肉体的には遠距離なのだ。この矛盾するような状態が葛藤を生む。霊肉ともに一緒になることを求めさせる。
ということで、第三に、体を離れて、主のもとに住むことを切望する。私たちはキリストの花嫁だ。愛するキリストと霊的に一つであるだけでなく、肉体的にも一緒に住むことを望むのは当然のことだ。この体を離れれば、主が御体を持っておられるパラダイスに行ける。生きるとは、聖霊様にあって心強いこと。肉体が死ぬことは、主の御下に行けること。どちらもすばらしいことだが、キリストへの愛が、主のもとに行くことを切望させる。こういうわけで、私たちは肉体に住んでいても離れても、どちらも幸せだが、主の御下に行くというより良い状態に向かっているのだ。クリスチャンライフはこのように永遠に最高の歩みだ。

9-10節。9節の内容から、私たちは霊であり、霊は不滅なので、私たちの人生は体を離れた後も、ずっと続いていくのが当然だとわかる。このことを悟っていると、やがて離れることになるこの体やこの世のことにとらわれすぎなくなる。一貫して大事になってくるのは、ひたすら主に喜ばれることだ。
10節でいう裁きとは、黙示録20章に出てくる大きな白い玉座の裁きとは別物だ。大きな白い玉座の裁きは、命の書に名が記されているかどうかについての裁きだ。クリスチャンは全員名が記されている。そもそも、もしかしたら地獄に落ちるかもしれない裁きであったら、もだえ苦しむほど切望することはできないだろう。むしろ、恐ろしいと思い、できればこの裁きを避けたいと願うだろう。ひたすら主に喜ばれることを願うというよりは、ひたすら主の憐れみを請わなければならなくなるだろう。これは10節に書いてあるとおり、「キリストの裁き」。クリスチャンがキリストのもとに集められ、天の報いをどれだけいただけるかについての裁きがなされるということだ。主に喜ばれることをたくさん行った者は、天の報いが豊かに与えられ、そうでない者は、天の報いが少ししか与えられない。そして、天の報いは特に4:17のようにキリストのゆえに艱難を受けた者にこそ豊かに与えられる。クリスチャンとして信仰を貫いて生きていくことに困難を感じている人はいるか。やがて、すべてキリストが報いてくださる。だから、聖霊様に満たされて勇気を出して、困難なテント生活を全うしよう。永遠の住みかを切望しつつ、そこを目指して前進し続けよう。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました