古い人はもうお亡くなりになっています。お葬式をして、完全に亡くなったことを悟りましょう。
古いものは過ぎ去り、行方不明になっています。新しいものとは、イエス様のようなものです。神の子としての権威をもって、キリストのために生きることができます。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた[Ⅱコリント5:11-21]
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【ノート】
11-14節前半。この箇所から、まず、パウロの奉仕には2つのモチベーションがあったことがわかる。この2つはすべてのクリスチャンが持つべきモチベーションだ。何が私たちを駆り立てる原動力なのか?
第一に、主に対する畏れだ。11節前半に「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます」とある。これは10節のキリストの裁きの座とつながっている。それは天国か地獄かという裁きではなく、賞の裁き、どのくらい天の報いをいただけるかについての裁きであるが、審判者として主が意識される。私たちが永遠の世界をどのように過ごすのかは、キリストが全権を握っておられて、そのときに確定的なものとして宣告されることになる。罪に問われ、罰せられるわけではないが、そのとき、私たちの行いのすべてが裁きにかけられることになる。いや、そもそも、いますでに主は私たちの行いをすべて知っておられる。罪についてはすべて知っておられる上で、イエス様の贖いゆえにすべて見逃してくださっている。本来、その一つでも永遠の罰に値する罪をすべて見逃してくださっている。良い行いについても、すべて覚えられていて、最終的に報いられることになる。主はそのように私のすべてを掌握しておられる。そのことを思うとき、私たちは主に対する畏れを感じる。この畏れを知っていたら、本当は怠けていたのに、本当はやろうと思ったらできたはずなのに、自分自身を欺いて「できなかったのだ」とか、「私は最善を尽くした」などということはできなくなる。箴言24:12。それで、パウロは人々にイエス様を信じるように説得した。すでに信じている人には熱心に信じるように説得した。畏れというのは、神様を神様として知る上で最初の一歩として必要なことだ。畏れという土台なしに万物の支配者に正しい態度で近づくことはできない。神様を知るというのは最高の知識だ。だからこそ、畏れは知恵の初めだ。箴言1:7。あなたは主に対する畏れを知っているか?この知恵がある人は、慎みを知る。試練のときにも、神様に対して不遜なことを一切口にしなくなくなる。そして、他の誰に言われるまでもなく、自ら主が喜ばれることを積極的に行うようになる。
第二に、キリストの愛だ。14節前半に「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです」と書いてある。主を畏れることは知恵の初めであり、主の愛を悟ることは知恵の完成だ。私は聖書を書き加えているわけではない。エフェソ3:14-19。愛を悟ることが完成だとよくわかる。畏れと愛は矛盾しない。私たちの原動力は畏れを土台とした愛なのだ。畏れを知る者だけが本当の意味で愛を知る。本来は、私は呪われた罪人であり、当然の報いとして永遠の刑罰を受けなければならなかった。神様の御前に立つときに絶望的な者だった。弁解の余地は何もなかった。そんな私をも愛してイエス・キリストが代わりにすべての呪い、苦しみを背負い十字架で死なれたことを思うとき、愛の大きさがわかる。罪の女がイエス様の足を涙でぬらし、髪でぬぐったとき、人は赦される程度に応じてイエス様を愛するようになるとイエス様は言われた。それは赦される程度に応じて、イエス様の愛の大きさを悟るからだ。多くの罪を赦されたと悟る人は、その分だけキリストの愛の大きさを悟るようになる。パウロの場合は、教会を迫害してきた罪を赦されたことを悟った。キリストの愛が知りたいか?自分がどれだけ多くの罪を赦されてきたかを悟れ。キリストの愛が知りたいか?キリストの十字架を見上げよ。聖書の十字架の御業に関する聖句を読み、キリストがどれだけのことをしてくださったのかを知れ。愛が知りたいか?キリストの愛が知りたいか?聖霊様に満たされよ。聖霊様は絶えずあなたの心に愛を注いでくださるようになる。ローマ5:5。パウロはこの畏れを土台とした愛に駆り立てられて、奉仕にやみつきになった。
11節後半~12節では、外面によって判断することなく、神がそうであるように内面によって判断することが勧められている。外なる人は衰える。地上の住みかである幕屋はいつか滅びる。内なる人が本質であり、永遠だ。そういうことが語られてきた。目で見える外面で判断するということの愚かさを知ることができる。その点、コリント教会はそれまで、推薦状を使って、外面を誇っている人々に弱かった。〇〇神学校卒、〇〇先生の推薦。そういうネームバリューで人を判断してしまっていた。一方で、推薦状を持っていないパウロに疑い目を向けた。大事なのは、そんな外面的なことではなく、内面だ。内面について言えば、パウロは畏れを土台とした愛という純粋な動機を持って奉仕に励んでいた。内面がすばらしかった。神はそのことを知っておられた。だから、コリントの信徒たちも内面を見抜いてほしかった。そうすれば、パウロが優れた働き人であるとすぐに見抜いて、絶賛することができたはずだから。内面を含む霊的なことを見抜けるかどうかというのが、その人が成熟したクリスチャンか、聖霊充満かどうかの一つの指標だ。Ⅰコリント2:15。外面によらず、聖霊様に満たされて、人の内面を見抜いて判断できる者になろう。
13節では、正気でない場合と正気である場合について論じられている。コリントの信徒たちの中にはパウロが正気かどうか疑う人がいた。あまりにも熱心で献身的すぎて、おかしくなっているのではないかと思われたのだ。正気でないとすれば、神のためとある。神様のことを思う時、クリスチャンは、はたから見れば、気が狂ったように見えることがある。本当は正気だけれども、誤解されてしまいうるということだ。神様の偉大さを思うとき、手を挙げて大声で感謝と賛美をささげずにはいられなくなる。神様の愛の大きさを思うとき、感動のあまり涙が止まらなくなり、また喜びが爆発する。踊りだしたくなる。飛び跳ねたくなる。十字架の贖いを思うとき、主が私のためにすべてをささげてくださったのだから、私も喜んで主のためにすべてをささげようと思う。それは、実はごくごく正常な反応だ。神様もそれを喜び、栄光をお受けになる。ローマ12:1。しかし、未信者にはわからない。なんだか恐ろしいと思うこともある。それで、総督のフェストゥスも「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と大声で言った。また、一部の信仰者にも理解されない。コリントの信徒たちの中にはそういう人もいた。だから、他の人々を思うときに、正気であるようにする。常識的なふるまいをするようにし、いたずらにつまずきを与えないように気遣うのだ。私たちもパウロのようにどちらの性質も備えていると良い。神様に対しては、思いを無理におさえずに爆発させればよい。しかし、周りの人たちがつまずいてしまわないように、最低限の気遣いが必要だ。
14節後半~15節。すべての人と書いてある。キリストはすべての人のために死なれた。まだ、信じていない人たちのためにも死なれた。その人たちにも早急に福音を伝えなければならない。キリストの死は、すべての人のためなので、すべての人に効力を及ぼす。すべての人がキリストの死にあやかるようになる。このことはキリストを信じた瞬間に適用される。つまり、キリストを信じる前の自分はもう死んでいるのだ。あの罪深い性質はもう死んでいる。肉の欲はもう死んでいる。ガラテヤ5:24。死んでいる者は、私たちの人生に何の影響も及ぼさない。これまで救われる前の性質がまだ残っていて、それによって悩んだり、葛藤したりすることがあるとすれば、それはもう救われる前の自分がお亡くなりになっているということを悟っていなかったからだ。このことを悟るとき、肉によってもたらされる葛藤から解放される。昔の自分のお葬式をイメージしよう。もう死んだのだ。
自己中心のむなしい人生はもう終わった。そして、キリストと共に死んだ人は、キリストの復活にもあやかり、新しい人生が始まる。その人生の目的はキリストのために生きることだ。キリストが私のために死んで復活してくださったから、そこまで愛してくださったから、その愛に駆り立てられてキリストのために生きる。キリストの喜びが私の喜びだ。キリストが望まれることが私の望みだ。キリストの生き方が私の生き方の最高の模範だ。これぞ人生だ。有意義で、永遠に残る者を積み上げる人生だ。
16節。肉に従って知ろうとするというのは外面によって知ろうとすること。キリストと共に死んで、キリストのために生きるというのは、完全にクリスチャンの内面における霊的な変化だ。これは外面によっては全くわからない。内面の霊がどういう状態なのかが大切だ。肉に従って知ろうとすることが大きな間違いにつながるのは、肉に従ってキリストを知ろうとするときによくわかる。パウロはかつてキリストを肉に従って知っていた。そのとき、キリストといえば、新しい教えを唱える宗教指導者だった。ファリサイ派の神学からは到底受け入れられない人物、排除しなければならない人物だった。私たちの中にも信じる前に、かつて肉に従って表面的にキリストを知って、それがすべてであるかのように考えて、拒否していたことがあるかもしれない。私はそうだった。信じなければ地獄に落ちるという断片的な情報だけをとらえて、都合の良い宗教をこしらえた人物として受け入れようとしなかった。キリストの内にある知恵と知識の宝を見ようとも知ろうともしなかった。そんな間違いを犯すことのないように、今後はキリストについても、すべての人についても外面的、表面的見方をせず、御言葉により、聖霊様によって洞察しようとする者になろう。特にクリスチャンに対して、自分や他の人どういうふうに見るべきかが17節。
17節。キリストと結ばれる人とは、キリストを信じる人のことだ。私たちはキリストを信じるとき、キリストとの結びつきができる。それは、キリストと霊において一つとなるほどの強固な結びつきだ。そのことがここで言及されている。キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者だ。クリスチャンは、救われる前の自分を神様に改造していただいてできあがるものではない。創造は、無からなされる。ゼロからなされる。過去の自分との連続性は全くない。過去のあなたがどうだったかは全く関係ない。クリスチャンは霊的に完全に新しく創造されているのだ。では、新しく創造された中身はどのようなのか?キリストのようだ。神の子として創造されている。御国の権威がある者として創造されている。罪のない者として創造されている。聖なる者として創造されている。では、過去の古い自分はどうなったのか?過ぎ去った。どこに行ったのか?行方不明なのだ。新しい創造については、新天新地を考えるとよくわかる。黙示録20:11,21:1。去って行ったきり、もう古い天地は行方不明になり、永遠に戻ってこない。このことを悟るとき、私たちはキリストのように生きるようになる。サタンは、このことを信じさせまいとし、私たちの記憶から、過去の古くて弱い自分を再現させ、まるで生きていて存在しているかのように信じさせようとする。その手に乗ってはならない。宣言しよう。私は新しく創造された者だ。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じたと。
18-21節。パウロは神からキリストによって世を御自分と和解させる奉仕を任務として担っていた。神と人類は和解が必要な状態にある。和解はどういう状況で必要か?もともと仲が良かった二人の友人がいる。しかし、ある口論をきっかけに、互いに口をきかなくなり、急速に疎遠になるということが起こる。
そういうとき、和解なしに関係を回復することはできない。和解は壊れた関係を回復するために必要なものだ。神と人類はもともと良好な関係だった。人は神の子であり、神に似せて造られた最高傑作品だった。神は聖なる方だから、関係の破壊は私たち人間の側によって発生した。私たち人間が意図的に神に背いて、神から離れてしまったのだ。和解させていただく前、人間は神とどういう関係だったのか?ローマ5:10。敵だ。神に敵対して勝てるだろうか?絶対に勝てない。すぐにでも和解しなければならない。和解とは普通当事者の双方が譲歩してなりたつものだ。私たち人間が神に背いたのが原因、10対0で人間が悪いのだから、本来は人間が特に神と和解するために努力をしなければならない。しかし、人間は自力で罪の問題を解決して、神様との関係を回復することは不可能だった。そこで、憐れみ深い神様が神様は人間との和解のために、全面的に譲歩してくださった。キリストによって人の罪の責任を一切問わないことにされた。しかし、神様は義なる方であって、罪を有耶無耶になさる方ではない。罪の責任はキリストがすべて背負われた。すべての人は罪人だったが、キリストは神が人間となられた方なので、唯一無二の罪のないお方だ。神はこのキリストと私たち人間の位置を交換なさった。私たちの持っていたすべての罪をキリストが負われ、キリストの義を私たちが得たのだ。罪はキリストの十字架で完全に贖われ、キリストの義は私たちにある。それで神が私たちをご覧になるとき、何の罪も見いだせず、キリストの義を見出すことになる。それで神と私たち人間との関係はキリストによって、愛に満ちた親子の関係に回復したのだ。私たちが悪かったのに、神がすべての犠牲を払って和解の道を開いてくださった。こんなすばらしい和解はない。後は私たちがキリストを信じることによって、神様が指し伸ばしておられる御手をにぎるだけなのだ。この救いを受け取らないのは、大きな損失だ。
この和解のために奉仕する任務は貴い働きだ。このことを20節の「キリストの使者」という言葉で表現しているが、これは原語で見ると、「キリストの大使」と訳すこともできる言葉が使われている。私たちはキリストの大使だ。大使は、ある国の代表として外国に遣わされている人だ。日本の大使とは日本語以外の言語を話し、日本とは違う習慣を持つ人々に囲まれて長い年月を過ごす。しかし、日本の大使は、どれだけ長い年月その外国で過ごそうとも、自分が日本人であることを忘れない。クリスチャンも同じだ。クリスチャンはこの世で長いこと暮らし、この世で仕事をする。しかし、クリスチャンの本国は天であり、天国の市民であるということがこの世の国の人であるということよりも優先的なアイデンティティーだ。大使は、自分の国を代表して発言する。キリストの大使は天国を代表し、キリストに代わって、和解のメッセージを届ける。人々は大使を見て、その国のことを判断する。「日本人はあんなふうに話、あんなふうに行動するのだな」と判断する。だから、その国の名誉は大使次第だ。神の栄光を現すか汚すかは、クリスチャンの生き方次第だ。特に日本では今はまだどこにいってもクリスチャンが少ないので、多くの場所ではあなただけが大使であって、あなたを通してクリスチャンがどういう人々なのか、はては、キリストは信じる価値があるのかないのか、判断するしかない場合が多い。責任重大だが、もちろん私たちはこの務めを立派に果たすことができる。私たちは新しく創造された者だ。キリストの大使としてキリストから任命されているのは、キリストを表す者としてキリストのように生きることができるからだ。私たちはキリストの大使として、神の国のすばらしさを、キリストの愛を表していく者になろう。人々が私たちを見て心打たれ、世の国から神の国への移住を決意する、そういうことが起こるようになる。
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