神様のご計画は人間に依存するものではありません。
人間がふさわしくなくても、神様はほかの方法で御自分の計画を成就してくださいます。
神様が私を用いなくても良いのに、あえて用いてくださるということは、大変光栄なことです。
その務めはほかの人が引き受けるがよい[使徒1:12-26]
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【ノート】
12節。オリーブ山からエルサレムまでは、安息日に歩くことが許される距離だと書いてある。安息日には働くことが禁止されていた。律法学者たちは歩くことも制限すべきだと考え、安息日に歩くことが許される旅行距離は2千アンマまでと定めた。アンマではなくキュビトと書いてある訳もあるが、キュビトはラテン語由来であり、アンマの方がヘブライ語に忠実だ。1アンマは45cmくらい。2千アンマは900mくらいだ。使徒たちはから歩いてすぐにエルサレムに戻ることができた。私たちは今やイエス様にあってこういう制限を受けずに神様に仕えることができることを感謝しよう。土曜日に旅行するときは900mしか移動してはならない。大変な制約だ。律法の呪いから解放されていることを感謝しよう。私たちはいつでも教会に集まれるし、全世界のどこにでも行って福音を伝えることが許されている。
13-15節。使徒たちが十日間にわたる祈り会を開いた場所と顔ぶれを見ることができる。集まっていたのはおそらくマルコの家だと考えられている。上の部屋というのは屋根裏部屋のような場所で、そこは食事をしたり、祈ったり、くつろいだりする場所として使われていた。教会の交わりの場所としては、もってこいの場所だった。15節によるとそこには120人が集まることができたので、かなり広い部屋だったに違いない。マナ教会の場合、まさにこの部屋が上の部屋にあたる。このような場所が与えられていることを感謝しよう。また、もし大きな家に住んでいる方がいれば、この上の部屋にあたる場所を用意すれば、マルコの家のように教会の交わりに用いられるようになる。教会に一度も来たことのない方の中に、自分の借りている部屋を教会用に使ってもらいたいという人がいる。ましてや私たちはもっと積極的に自らの家を家の教会として開放するようにしよう。
顔ぶれを見ると、まず、イスカリオテのユダ以外の11人の使徒がいる。使徒たちはイエス様が行くところどこでもついていった。今や、イエス様は天に昇られて、天にまでついていきたいところだが、それはまだかなわない。これからは、イエス様が命じられたところに行くことが、イエス様についていくことになる。イエス様がエルサレムから離れず、父が約束されたものを待ちなさいと言われたので、それを待つのが、イエス様についていくことになる。実は、待たなかった人たちもいたかもしれないのだ。Ⅰコリント15:6ではイエス様の復活は500人以上の兄弟たちが同時に目撃した。しかし、この祈り会の場所にいたのは120人だけだ。後の380人はいったいどこに行ったのか?自分の行きたいところに行ったのだ。その結果、聖霊降臨による教会の誕生という歴史的大事件の当事者になる栄誉を失った。あなたはイエス様についていっているか?あなたはイエス様が命じられる場所に行くようにしているか?それとも、自分が行きたいところに行っているか?イエス様についていこう。イエス様から離れないようにしよう。
次に婦人たちがいる。その中には七つの悪霊からの解放を受けたマグダラのマリアがいただろう。婦人たちはイエス様の教えや癒しの御業に感謝して、陰ながらイエス様一向の奉仕し、経済的なサポートしていた。イエス様が天に昇られた後も、今度は使徒たちをそれまでと同じように支えていたのだ。それは、イエス様御自身に奉仕することに等しかった。マタイ10:40-42。婦人たちは大いに報いを受けたに違いない。使徒たちと違って注目されない奉仕だったが、天の報いが与えられるときには天国中に名前が知らせられることになる。私たちもこの婦人たちのように陰での奉仕を大切にする者になろう。
最後に、そこには、イエス様の肉における家族がいた。母マリアと兄弟たちがいた。兄弟たちはイエス様を信じていなかった。マリアも、一時期、人々の噂話を信じてしまい、イエス様のことを気が狂っていると思い、イエス様のことを取り押さえようとしていたことがあった。しかし、十字架の死と復活を通ったとき、彼らは変えられた。イエス様の弟のヤコブとユダは手紙を書いているが、イエス様のことをキリストと告白し、自分をその僕だと紹介している。自分の家族が頑なでなかなかイエス様を信じようとしないと悩んでいる方はいるだろうか?イエス様もそうだった。しかし、十字架と死と復活の福音の中を通るとき、どんな頑な人でも変えられる。しかも、ただクリスチャンになるだけでなく、イエス様の僕としてへりくだって仕える人に変えられる。福音にはその力がある。そのことを信じて、家族に福音を伝える者になろう。
彼らは心を合わせて熱心に祈っていた。誰もペトロがイエス様を三度否定したことを非難したり、使徒たちがイエス様を見捨てて逃げてしまったことを裁いたり、イエス様の兄弟たちがもともと信じていなかったことを槍玉にあげたりしなかった。祈りは、クリスチャンの間で聖霊様による一致を生み出す。祈りは過去の罪、不義、咎、過ち、傷を乗り越えることができるようにする。彼らは何を熱心に祈っていたのだろうか?主に聖霊様が約束通り降って来られるように祈っていただろう。神様は約束を破ることがない方なのに、約束の実現を祈る必要はあるのか?ある。約束はいわば、神の祝福への招待であって、私たちの信仰による応答によって天になるごとく地上で現実化する。信仰の祈りによって、御言葉の約束に応答していこう。
16-20節。ここでペトロは、イスカリオテのユダのことを裁いていないということに注目しよう。ユダを仲間の一人だと認めている。そして、事実をありのままに語っている。しかも、ユダの死は聖書の預言の成就のために、仕方ないことだったのだという弁護までもそこに含まれている。ユダはある意味で預言の成就に用いられた。もちろん、イエス様を裏切ったことは18節にある通り不正だし、預言の成就におけるユダの用いられ方というのはサタンのような用いられた方だ。それでも、ペトロはユダを悪く言わずに弁護している。それであれば、私たちも、イエス様を裏切るようなことをした人々を悪く言わないようにしよう。
この箇所は、マタイ27:3-8との兼ね合いで、どういうことかわからなくなってしまう人がいる。一見ユダの死に方や畑がどういうふうに扱われたのか食い違っているように見える。聖書で一見矛盾するような二つの記事を検討するときは、基本的に矛盾なく解釈することで事実を把握することができる。矛盾なく解釈するとどうなるか。まず、イスカリオテのユダはイエス様を銀貨30枚で裏切った。銀貨30枚は奴隷一人の価値に等しい。それは史上最もひどい安売りだ。これはイエス様の受けた軽蔑の大きさを表す。それと同時に、イエス様がへりくだって、罪の奴隷だった私たちと等しい価値になってくださったことを示している。ユダはイエス様が捕まった後、後悔して祭司たちに金を返し、木で首を吊った。その木は崖の上に生えていた。その後、ユダの首吊りに使った縄は切れて、ユダの死体は崖の下の畑に落下し、そこではらわたがみんな出てしまった。祭司たちはユダからの返金でユダの死体が落ちた畑を買い、それを外国人の墓地にした。それをペトロは結果的にユダが買ったも同然とみなして語った。ユダはユダヤ人、神様から選ばれた特別な民だったが、イエス様を裏切ったことで、異邦人のようにされたということ。イエス様を裏切る者はそうなる。私たちはイエス様に最後まで着いていき、クリスチャン、天地創造の前から選ばれた者、神の子としてのアイデンティティーを守り抜こう。
この話を聞いて、首吊をした後に畑に落ちてはらわたが出るなんて、そんなことがあるのか、と思われる方もいるかもしれない。しかし、矛盾なく解釈するなら、確かに首吊をした後に畑に落ちたに違いないのだ。G・アーチャーという神学者は、そういう仮説を立てた。ある時、聖地旅行に行って、伝統的にユダが死んだ土地だとされる場所にいった。すると、なんとその場所はエルサレム郊外の崖の下にあったのだ。聖書には矛盾がない。矛盾があるように思えてしまうのは、私たちの無知によるものか、間違った解釈によるものだ。聖書にはありのままの事実が書いてあると信じよう。
21-26節。ユダに代わる使徒が選出されている。神様は代わりの者を与えてくださるお方。アベルの代わりにセトを与えてくださったように、ユダの代わりにマティアを与えてくださった。神様の計画は揺るぎない。神様の計画は人間に依存していない。私がいないとできないことというのは神様にはない。私がふさわしくなければ、神様は別の方法でご計画を成し遂げることができる。だから、神様から何かに用いられるということはこれ以上ない栄誉なのだ。神様は私を用いなくても良いのに、あえて私を用いてくださっている。神様から与えられた任務をいい加減にしてはならない。中途半端に投げ出してはならない。誠実に、心を尽くして行う者になろう。
使徒の資格と使命が明らかにされている。使徒の資格はイエス様といつも一緒にいた者だ。成熟したクリスチャンは、いつもイエス様と交わりを持つ。いつも、イエス様が共におられることを意識する。私のこの空間にもイエス様がおられる。私のこの思いもイエス様は知っておられる。私のこの会話もイエス様が聞いておられる。私のこの行動もイエス様を見ておられる。その事実を意識する。イエス様に対しては何のごまかしもきかない。そのことを悟るなら、牧師の前だけ、クリスチャンの前だけ、日曜日だけクリスチャンらしくする偽善的な宗教人を卒業することができる。そして、イエス様がいつも共におられることは心強いことであり、楽しいことだ。私たちが信仰によって生きるとき、イエス様は私たちと共に働いてくださる。そして、毎日、ディボーションをする。つまり、毎日、イエス様の御言葉を聞き、その通りにする。神の子が、神の口から出る一つ一つの御言葉によって生きるのだと悟っている人は、ディボーションをする。毎日、イエス様の御名で祈る。毎日、イエス様にその日あったことを報告し、感謝と賛美をささげる。そのように、いつもイエス様と一緒にいるようにしよう。
資格がある者は、使徒的な使命を担うことができる。使徒の使命はイエス様の復活の証人だ。私たちはイエス様について証しをするのではなく、イエス様を証しする者である。主は本の中の人物でも、お墓の中の人物でもなく、生きておられる力ある神の子だ。その方が私を罪から救ってくださった。その方が私の人生を変えてくださった。その方が私を通して力ある業を行ってくださった。そのことを証しするのだ。大胆に証しするイエス様の証人になろう。アーメン。
バルサバかマティアかを選ぶ上で、くじが用いられた。神様がすべての事象を完全に支配しておられるので偶然は一つもない。くじで御心を知ろうとすれば知ることができるという理屈だ。でも、福音書ではくじを用いることはなかった。イエス様が徹夜で祈られた後、これと思う者を選んで使徒として任命した。そして、使徒言行録でもこの1回限りで、他にくじを用いることはなかった。パウロとバルナバを宣教旅行に派遣するときには、聖霊様がそのことをお命じになった。くじは旧約的な方法だ。くじは御心がよくわからないことを前提にしている。新約では、神様が私たちに直接語ってくださるので、くじはいらない。誰を任命すればよいのか、誰にどの働きをまかせればよいのか、聖霊様が明らかにしてくださる。当然、会議を開いて人間の知恵で決めるようであってはならない。聖霊様の命令に聞き従って教会を運営する霊性を持つ私たちになろう。
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