わたしの霊をすべての人に注ぐ[使徒2:14-21]

使徒言行録
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新約時代の特徴は、すべての人に聖霊様が雨のように注がれ、すべての人が預言をするということです。

わたしの霊をすべての人に注ぐ[使徒2:14-21]

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【ノート】
ペンテコステの日に新約時代が始まった。祈っていた120人の弟子たちの上に、聖霊様が降られた。その結果、弟子たちは他の国々の言葉で神を賛美しだすというしるしが起こった。新時代の幕開けのしるしが起こったのだ。次いで、今回の箇所で新約時代とはどういう時代なのかという説明が旧約聖書の預言を引用してなされる。

直面の13節では嘲る者が「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っぱらっているのだ」と言った。聖霊充満な人をお酒充満と勘違いしてしまうほど、世の人は霊的なことがわからない。見る目がない。Ⅰコリント2:14。私たちが最高の状態の時に、世の人は最悪の状態にあると解釈してしまうほど何も悟れない。主と共に歩んでいるのに、世の人から誤解されたり、悪く思われたりすることはあるだろうか?それはごく自然なことだ。驚いたり、落胆したりしてはならない。「可哀想に。霊的な事柄に盲目なのだな」と憐れんであげよう。そして、ペトロのように弁明する機会として用いよう。Ⅰペトロ3:15。ペトロはここで自分が書いているように、いつでも弁明できるように備えていた。この場面では人から説明を要求された時ではないが、実は批判された時も、良い弁明の機会なのだ。使徒言行録を読むと、ステファノもパウロも、激しい反対にあっている時や尋問を受けている時にすばらしい説教が飛び出すのを見ることができる。悪く言われているときこそ、福音を語る機会ととらえよう。

14-16節。ペトロは理路整然と説明しだす。まず、ペトロは14節で、耳を傾けるように呼びかける。御言葉を聞いて悟れば実を結ぶからだ。このメッセージもぜひ耳を傾けていただきたい。聞いて悟れば、新約時代にふさわしい実が結ばれる。

15節は嘲る者に対する反論だ。私たちは、霊的に盲目な人々からとんちんかんな批判を受けたら、真っ向から反論をしてよいのだ。黙って耐えるのが御心なのではない。朝の9時に飲み会を開いて酔っぱらうようなことはない。朝の9時であれば、居酒屋もまだオープンしていない。だから、酒に酔っているのではない。酒に酔っている人はペトロのように理路整然とした弁明ができない。ペトロといえば、もともとしらふであってもこんな弁明はできなかった。ペトロは考える前から何でも口にしてしまう人だった。ルカ9:33。このペトロが、理路整然と話し、この後大説教をすることができたのは、聖霊様に満たされることによる恵みだ。伝道をしてみたいけど、舌足らずだとか、話すのが上手ではないという人は、心配しなくてもよい。聖霊様に満たされれば、何でも必要なことを話すことができる。聖霊様は知恵と啓示の御霊であり、理路整然と、しかも世の人が絶対に悟ることができない奥義を話すことができるようにあなたを強めてくださる。

そして、16節は預言者ヨエルを通して預言されていたことが、まさに、今、私たちに実現したのだという宣言だ。預言を受け取る際に、重要なのはこの認識だ。聖書を読むとき、いつ、誰に、何を語るのだろうか?このことがわからないと、聖書をいくら読んでも何も悟れない。いつは常に「今」だ。誰は常に「私」だ。何は常に「私を造り上げ、励まし、慰めること」だ。これは遠い昔にアブラハムに、モーセに、ダビデに、ペトロに語られた。あるいは、これは遠い未来について預言されたもの。確かにそれはそうで、その観点からも研究するのだが、神様は「今」読んでいる「あなた」に語りたい。神の言葉が生きているというのはそういうことだ。今の自分とは無関係であるかのように御言葉を受け取ってはならない。エゼキエル12:21-25。
そして、気をつけなければならないポイントとしては、新約の預言は、基本的には造り上げ、励まし、慰めるものだ。Ⅰコリント14:3。これは旧約の預言とギャップを感じる。旧約では厳しい裁きの預言が多い。北イスラエルの滅亡の預言やバビロン捕囚の預言だ。どうして新約ではそういう預言が少ないのか?イエス様がすべての裁きを十字架の上で引き受けてくださったからだ。もはや私たちはイエス様にあって裁かれることのない者とされている。だから、新約の預言といえば、基本的に造り上げ、励まし、慰める。良いものだ。夢や幻を解き明かすときにもそういう観点で見ないと、神様の御心と真逆のことを語ってしまうおそれがあるので、要注意だ。神様は今、私に、造り上げる御言葉を語られる。それを、信仰を持って受け取る者になろう。アーメン。

17-18節。終わりの時に、と書いてある。ペンテコステの聖霊降臨は終わりの時の始まりだ。そして、今もまだ終わりの時に属する。終わりの時がもうすでに2千年続いているのだ。今は終わりの時の中でも聖霊降臨から教会の携挙までの教会時代にあたる。教会が天に引き上げられたら患難期が始まり、患難期の末期にイエス様の地上再臨がある。ここまでが終わりの時だ。その後は千年王国が始まり、その後が新天新地と新しいエルサレム、つまり永遠の世界へと続く。今は教会時代。教会がイエス様の大宣教命令を受けて、地の果てまでイエス様の福音を伝え、すべての民をイエス様の弟子にするミッションを遂行する時代だ。神様はこのことを必ず成し遂げられる。初代教会の聖徒たちは、自分たちが生きているうちにすぐにでも携挙があると思っていた。そのようにイエス様がすぐにでも来られることを期待するのは正しい。花婿なるイエス様は「私はすぐ来る」と言われた。その約束を受けて花嫁なる教会も「来てください」と切望する。私たちもイエス様がすぐにでも来ると信じて、忠実に備えるべきだ。しかし、教会時代は初期のクリスチャンたちが予想していたよりもずっと長かった。なぜか?大宣教命令がまだ成就していなかったからだ。一人でも滅びてしまうことは主の御心ではない。Ⅱペトロ3:8-9。神様は私が悔い改めるまで忍耐してくださった。神様の御心を心として、すべての造られた者に福音を宣べ伝え、すべての民をイエス様の弟子にするよう励もう。それこそ、イエス様の再臨を備えることだ。
「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と書いてある。旧約では一部の預言者だけが聖霊様を受けられた。新約ではすべての人だ。すべての人であればあなたは含まれるか?含まれる。ペンテコステの時点では、たったの120人のガリラヤの人々だけに聖霊様が注がれた。全然すべての人ではない。これは始まりだ。教会時代を通じて聖霊様の火が燎原の火のように全世界に燃え上がることが神様のご計画だ。イエス様はそのために来られた。ルカ12:49。宣教は聖霊様の火を燃え広がらせるということでもある。聖霊様の火はどうすれば燃え広がらせることができるか?聖霊様を受けた私たちが燃えていればよい。火は、消火されない限り自然に燃え広がる性質がある。私たちが燃えてさえいれば、特別なことをしなくても、聖霊様の火は自然に私たちの周りにいる人に燃え広がる。私たちが燃えているためには、主に仕えることだ。ローマ12:11。聖霊様は主に仕えるために与えられている。主に仕えなければ、燃えている必要がなくなるので、消えてしまう。その他に、聖霊様の火を消火しないようにするにはどうすればよいか。Ⅰテサロニケ5:16-22。真ん中に霊の火を消してはいけませんというのがある。この前後が霊の火を消さないために気をつけることだ。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することは聖霊様の火の燃料になる。また、預言も燃料になる。預言は吟味が必要な部分がある。預言は神様から啓示されることではあるが、そのまま受け取ってはならないこともある。どういうことか?
第一に、神様の啓示は完全だけども、預言者の解釈が間違っていることがある。
第二に、預言者の抱えている問題が、預言に反映されてしまうことがある。お金の問題を抱えている人が、預言にお金を投影してしまう。性的な問題を抱えている人が、預言に性的な事柄を投影してしまうということがある。
では、どうやって吟味するのか?まず、聖書に照らして、吟味する。聖書こそが最高の預言だ。聖書と調和しているか、それとも何かしら違和感があるかで判断する。次に、内住する聖霊様に照らして吟味する。すべての信仰者には聖霊様が与えられている。だから、クリスチャンが皆成熟していればいるほど、クリスチャンは一致することができる。預言の言葉に聖霊様が喜んでおられるか。喜んでおられないなら、自分自身に問題があるか、相手の預言に問題があるかのどちらかだ。いずれにせよ、預言をおおざっぱに全否定しないように書かれている。良い部分があれば、それは大事にするのだ。

17-18節を見ると、新約時代の特徴はすべての人が預言するということだ。預言、幻、夢と書いてある。預言は言葉として与えられる神様からの啓示だ。幻はイメージとして与えられる神様からの啓示であり、夢も神様がメッセージを掲示する方法の一つだ。息子と娘、若者、老人は三世代を表している。つまり、神様はあらゆる世代の人に、様々な方法で語られるということを示している。条件は何か?聖霊様を注がれたかどうかだ。あなたは聖霊のバプテスマを受けたか?もう受けたのであれば、神様はあなたに様々な方法で語ってくださる。特別な人だけに与えられるのではない。聖霊降臨の預言の前に雨が与えられるということが書いてある。ヨエル2:23-24。雨は誰に与えられるか?善人だけか?特別な人だけか?そうではない。イエス様は父なる神様のことを善人にも悪人にも雨を降らせてくださる愛をお方であると言われた。主は私たちを愛するあまり、すべての人に聖霊様を注ぎ、すべての人に預言を与えてくださるのだ。あなたは預言し、幻を見、夢を見る。このことを悟るとき、御声が聞こえて来るようになる。これまでは御声を聞く機能があってもそれがあることを知らずに使っていなかったかもしれない。パソコンやスマートフォンには私たちが知らない機能がいろいろとある。それらの機能があっても、あることを知らなければ使うことができない。知ったら使うことができるようになる。御言葉は私たちのスイッチを入れる。御声を聞くことができると悟ったら、聞けるようになっていく。
全員が預言をするようになったら、教会はどうなるか?次々と造り上げ、励まし、慰めることが語られ、未来のことまで預言されるようになる。次のパンデミック、次の地震はいつ起こるか、YouTubeであらかじめ預言する。全員がいま主にあってどういうシーズンなのか、主がどのように導いておられるのか悟っている。人間関係について、仕事について、結婚について、どうすればよいか御心を悟っている。ある人が神様の御心を明らかにしたら、別の人がその実現を励ます幻と夢を語る。誰かがつまずいたり、心が弱ったりしたら、全員がそれに気づいて励ます。未信者に対しても、その人がどのような問題を抱えているのか、どうすれば解決するか、正確に言い当てる。預言による大リバイバルが起こるだろう。部分的にはマナ教会でもすでに起こっている。それが全員について、より濃い密度で現れるようになる。
17節でもうあらゆる世代が預言するようになると言われているように。18節では、あらゆる世代とは別に、「わたしの僕やはしため」に聖霊様を注ぎ、彼らは預言するようになるとある。あらゆる世代の中に僕やはしためも入っているのではないか。なぜこの人たちは別枠なのか?僕、はしためとはどういう人々か?僕はドューロスだ。一時的に雇用されている人ではなく、24時間365日ずっと主人の下にいる奴隷を指す。
はしためはドューロスの女性系だ。ここから一つには最下層の身分の人も含めて、身分を問わず、神様が聖霊様と預言を与えてくださるということが言える。神は人を分け隔てなさらない。しかし、それだけではない。使徒言行録では「私の僕や私のはしため」とある。神の僕なのだ。バプテスマのヨハネは、キリストについて、「私はその方の履き物をお脱がせする値打ちもない」と言った。履き物を脱がせるのは奴隷の仕事だ。自分はキリストの奴隷にも満たないといったのだ。仕える相手が偉大だと、奴隷すらも大いなる者となる。神の僕といえば、モーセやダビデだ。偉大に用いられた人々だ。ここでいう僕やはしためは完全に献身した者ということ。牧師や伝道者、そうでなくても会社員として、主婦として完全に献身した者だ。この御言葉から、女性でも牧師や伝道者になることができる聖書的根拠を見ることができる。そして、すべての人に神は御自分の霊を注がれるが、神に完全に献身する人々には、別枠で聖霊様の注ぎと預言を与えてくださるということでもある。特別な働きには特別な力が伴う。

19-20節。使徒言行録では「主の偉大な輝かしい日」とある。これは旧約聖書で繰り返し預言されていた主の日のことを指している。でも、ヨエル書では「主の日、大いなる恐るべき日」とある。いったい輝かしいのか、恐ろしいのかどちらなのか?どちらも正しい。人によっては裁きの日であり、人によっては輝かしい勝利の日なのだ。主の日はいわゆる七年間の患難期のことだ。その日を迎えることは、イエス様を信じていない人々にとっては恐ろしい裁きに遭うということだ。しかし、イエス様を信じて聖霊様をいただいているクリスチャンにとっては輝かしい勝利の日だ。復活の新しい体を得て、主と顔と顔を合わせてまみえることになる。イエス様にあって裁きが勝利に変えられたことを感謝しよう。旧約聖書を読むときにはそのように読み替えることが肝要だ。ここで挙げられているしるしというのは、患難期の直前のしるしということだ。その時には天にも地にもしるしが現れる。地のしるしは、血と火と立ち込める煙だ。これは血みどろの戦争を表しているだろう。しかし、人類史を見れば常に戦争はなされてきた。イエス様は戦争のことを、「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と言われた。だから、ここでいう血みどろの戦争は預言の成就として起こるエゼキエル戦争などといった特別な戦争を指しているのだろう。天のしるしは太陽が暗くなり、月は血のように変わるという部分だ。日食や月食のことだと考える人もいる。皆既月食の際の月は赤くなるので、ブラッドムーンと呼ぶ。しかし、ただの皆既月食であれば数年に一度は起こる。珍しいことではない。イエス様が十字架にかかったとき、全地が暗くなった。それは単なる自然現象ではなかった。日食の時期ではなかった。そのため、患難期前のこのしるしも単なる自然現象ではないだろう。現時点では何が起こるのか確かなことはわからない。しかし、そのしるしが現れるときには多くの人がそれに気づく。そのしるしが現れるときは、世界規模で聖霊様が降って、大勢の人々が預言をするようになった後だ。預言者たちは天変地異によるダイナミックなしるしを見逃さない。その意味を解き明かす。そのときには、世界中で預言者たちが「これこそがヨエルが預言した主の日の前のしるしだ」と宣言することになる。そのときには未信者の悔い改めは待ったなしだ。戦争、天体、誰でも簡単に目にすることができるものがしるしとして選ばれた。戦争、天体の異変、それは時々起こることだ。すべてが必ずしも主の日の直前のしるしとは言えないが、それらを見るとき、主の日が近いしるしとして気をひきしめ、携挙の備えをする機会としよう。

21節。終わりの時に共通して言えることだ。御名とは、イエス・キリストのことだ。他の誰によっても救いはない。イエス様の御名を呼ぶことは誰でもできる。終わりの時は恵みの時。誰でも、今すぐ救われることができるように主が手を差し伸べておられる。主の日を輝かしい日として迎えるべくイエス様の御名を呼んで救われる者になろう。

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