あなたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、メシアとなさった[使徒2:22-41]

使徒言行録
スポンサーリンク

最初の十字架の死と復活に関する福音説教です。
イエス様が奇跡を行われるお方だ、というところから始まります。

あなたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、メシアとなさった[使徒2:22-41]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
ペトロは、異言を聞いて驚いたり嘲ったりしている人々に対して、預言者ヨエルの預言の成就と14-21節で説明した。続いて、ペトロは福音を語る。人々がしるしに驚いているときは、福音を語る絶好のチャンスなのだ。聖霊様によるしるしと御言葉のコンビネーションでもある。この説教は、聖書に記載されているイエス様の十字架の死と復活に関する最初の福音説教だ。イエス様も福音を語ったが、それは神の国の福音だった。最初のものは、最後まで通じるというのが聖書の原則だ。つまり、このペトロの説教に流れる原則は今もそのまま力がある。この説教は説得力に満ちている。これらの内容を悟るなら、私たち自身が、福音の恵みにあずかることができる。私たちが未信者に福音を語るときにも、聖霊様に満たされてこの説教の原則をおさえよう。そうすれば、神の力によって、未信者たちが救われる。誰でも救われる。ローマ1:16。
まず今回の箇所は最初から最後までイエス様に関することが語られている。福音の主役はイエス様だ。詳しい内容としては七つのポイントに分解できる。

最初の福音説教はどこから始まるか? 22節。第一に、イエス様は奇跡を行われるお方だ。福音説教でイエス様が奇跡を行われるということを第一のポイントにかかげるのをほとんど聞いたことがない。でも、これほど必要な内容、説得力のある内容は他にない。未信者の興味関心を引き付けるのはミラクルだ。まず、ミラクルは証明のために必要だ。最初から心開いている人でなければ、未信者であれば、疑い深い。自分の人生観を180度変えてしまう話をそんなに簡単に信じない。だから、ミラクルによる証明が必要だ。イエス様はミラクルを起こすお方だ。水をぶどう酒に変え、5つのパンと2匹の魚を増やして五千人の群衆を満腹させ、どんな病気も癒し、死人を生き返らせる。だから、イエス様が神様から遣わされてきたお方であり、その方は信頼できる。
次に、ミラクルはすべての人の人生に必要だ。イエス様はあなたの人生にもミラクルを起こすことができる。あなたの今抱えている問題を完全に解決することがおできになる。だから、イエス様に心を開いてほしい。これが福音だ。もう最初のポイントから信じたくなる。ヘブライ13:8。今日も、イエス様が私の人生に、また私を通して、奇跡を起こしていることを信じて、体験していこう。また、そのことを証しする者になろう。イエス様は私の人生に奇跡を行われる。私を通して奇跡を行われる。

第二に、あなたはイエス様を十字架にかける罪を犯した。23節。「お定めになった計画により、あらかじめご存知の上で」と書いてある。イエス様の十字架の死についてまず言えるのは、それは神様のご計画に基づくものだったということだ。十字架の死は、たまたま交通事故のように発生してしまった予想外の出来事ではないし、ことの成り行きの中で緊急避難的にとった措置でもない。神様は未来のことも含めてすべてのことをご存知なので、予想外のことは何もない。そして、十字架は、天地創造の前から神様のご計画の中心にいつもあり、旧約聖書の中で預言や予型という形で示され続けた。最も古い部類について挙げるなら、そのことは創世記3:15の女の子孫が蛇の頭を砕くという預言や、アベルの小羊の初子の献げ物にも見出される。つまり、永遠の昔から、神様は人類を罪から救う方法をキリストの十字架の死と定めておられ、これに代わる方法は何もないのだ。十字架しかない。
次に、「あなたがたは十字架につけて殺してしまったのです」とある部分に注目しよう。このとき五旬祭にいた人々は、全員が全員イエス様の十字架刑に賛成していたわけではないだろう。
確かに5節にあるとおり過越祭から五旬祭までエルサレムにとどまり続けているユダヤ人たちもいたし、あるいはもともとエルサレムに住んでいたユダヤ人もいたはずで、彼らのうちの何人かはイエス様について総督のポンテオ・ピラトに対して「十字架につけろ」と叫んだ者たちもいたかもしれない。でも、大多数は無関係だっただろう。しかし、ペトロは無関係な話として語っていない。無関係なようで無関係だとは言えないのが十字架だ。肉によって見れば、イエス様を十字架にかけたのは、実行部隊のローマの兵士か、許可を出したポンテオ・ピラトか、ピラトに働きかけたユダヤ人の指導者たちか、指導者たちの扇動に乗った群衆たちか、そういう人々だと言える。しかし、霊によって見れば、イエス様が十字架にかけられたのは、私の罪のためだ。神に背いて自己中心に生きてきた私の罪のためだ。ということは、イエス様を十字架につけて殺してしまったのは、私である。私の罪が「十字架につけろ」と叫び、私の罪がイエス様の両手両足に杭を打ち込み、私の罪がイエス様を死に至らしめた。私がその張本人である。皆さんはどうか。罪人は誰も十字架と無関係ではない。イエス様を十字架につけて殺してしまったのは、私である。

第三に、イエス様は預言通りに復活した。24-32節。父なる神様がイエス様を死の苦しみから解放して、復活させられた。復活について、三つのことが説明されている。
復活についての一つ目の説明は、24節にあるとおり、イエス様が死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかった。死にすら、支配されたままではおられないということは、イエス様は何にも支配されたままでいることがありえないということだ。でもどうしてありえないのか?イエス様が神の子だからだ。神の子の在り方は、支配される者ではなく、支配する者なのだ。神様は神の子であるアダムに、産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよと命じられた。神の子が、何かに支配されたままでいることがありえない。神の子は、すべてを支配することができる。あなたは神の子か?今、あなたは何かに支配されているだろうか?習慣的に犯す罪があるだろうか?依存症に陥っているか?精神あるいは肉体の病気に支配されているか?それは一時的である。あなたは神の子なので、支配されたままでいることはありえない。神があなたをその支配から解放し、復活の勝利にあずからせてくださる。
復活についての二つ目の説明は、イエス様が預言通りに復活したということ。ペトロはダビデの詩編を引用して、それはイエス様についての預言だと解き明かしている。特に27節の「あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」が復活に言及している。この「私」というのはダビデ自身のことではない。ダビデは普通に他の人と同じように亡くなって、葬られている。ダビデは復活しなかった。これはダビデの子孫として来られ、永遠に王国を支配することが約束されているメシアであるイエス様についての預言だ。復活はイエス様が預言されていたメシアであることを示している。そして、復活もまた十字架と同じく神様のご計画の中にあり、起きるべくして起きたことなのだ。神様以外に誰も未来のことはわからない。十字架の死と復活が、聖書の預言がその通りに実現したものだということは、聖書は神の御言葉であり、福音は神から与えられたものであり、イエス様は確かに私の罪からの救い主であるということを証明している。
復活についての三つ目の説明は、32節にある通り、私たちは皆、そのことの証人だということ。本で読んだ知識や誰かからまた聞きしたことについて語っているのではない。自分が見聞きして体験した事実を語っているのだ。体験したことというのは、誰も否定できない。それだけに証しには力がある。
私たちも堂々と「復活の証人です」と言おう。私たちが御言葉の力や聖霊様の力を体験するならば、「復活したイエス様が今、私の内で生きて働いておられる」と証しすることができる。それは誰も否定することができない。

第四に、聖霊様が注がれる約束が成就した。33節。イエス様が復活なさった後、どこに行かれたのか、どうしてこの場所におられないのかを説明しなければならない。イエス様は天の父なる神様の右に上げられた。そして、約束された聖霊を注いでくださった。まさにその聖霊様の働きについて人々は見聞きしているところだった。そういう意味で、イエス様はその場所に聖霊様として使徒たちと共におられた。イエス様は御自分が去っていって、聖霊様と選手交代をすることは良いことだと言われた。かつて、イエス様がガリラヤ周辺やユダヤ、サマリアで伝道しておられたとき、イエス様はほんの少しの人々としか共におられなかった。世界は広いのに、イエス様だけが聖霊様に満たされて、イエス様の周りの限られた人たちだけが福音を聞いたり、病気を癒してもらったりすることができた。しかし、今や主が「わたしの霊をすべての人に注ぐ」という約束通りに、聖霊様が与えられている。イエス様がすべてのクリスチャンと共におられるようになっている。使徒言行録でクリスチャンたちがしているように、すべてのクリスチャンが、イエス様がなさったように御言葉を語ったり、病気を癒したりすることができる。皆聖霊様の力により、小さなキリストとして歩める。

第五に、イエス様は主であり、メシアである。34-36節。ペトロは詩編110編のメシア預言を引用している。イエス様が天に昇られたことも、旧約聖書の預言の成就なのだ。ここで、ダビデがイエス様のことを主と呼んでいる。イエス様はイスラエルの黄金時代を築いた王として尊敬されていたダビデよりも偉大な存在なのだ。神の右に座っているということは、神の権威、主権、力を持つ支配者となっているということだ。神に等しいお方だ。神に等しいお方を十字架につけて殺してしまうというのは、とんでもない罪だ。

ここでペトロの説教は人々の問いかけによって中断する。37節。聖霊様の爆発的な力によって語った御言葉は、人々の心を打った。人々は十字架が本当にわかったのだ。十字架がわかるとき、その心は刺し貫かれる。平気ではいられない。自分の罪深さを何とかしなければならないともがき苦しむ。ジョン・ウェスレーがメッセージを語ると、人々は罪の意識があまりにも強くなりすぎて、苦しみのあまり叫び出し、その叫びでメッセージが聞こえなくなってしまうことがよくあった。チャールズ・フィニーがソドムと比較されるような堕落した町で悔い改めのメッセージを語ると、そこにいたたった一人のクリスチャンの男性を除いて皆が罪の意識のあまりに地面にのたうち回って苦しんだ。「どうしたらよいのか。どうすればこの罪の意識から解放するのか。」悔い改め、イエス様を心にお迎えすればよい。イエス様を心に迎え入れるまで、苦しみは続く。

第六に、悔い改めの勧告。38-39節。悔い改めは、ヘブライ語ではシューブー。正しい方向に方向転換するという意味。ギリシャ語ではメタノイア。考え方や心や思いを変えるという意味がある。この二つを合わせるなら、悔い改めとは、考えを変えて、正しい方向に方向転換することだ。「私は自分中心に生きる」という考えを「イエス様は私の主であり、この方を信頼して従っていこう」という考えに変えて、自己中心の道からイエス様中心の道に方向転換するのだ。救われる時にこのことが必要だ。
そして、クリスチャンになった後も、個々の罪について、「このくらいは仕方ない」という考えを「これは聖霊様を悲しませることであり、御言葉によってただちにこの罪を断ち切ろう」という考えに変えて、方向転換する。悪魔から来る否定的な思考も、御言葉による思考に変えて、方向転換する。そして、私たちが正しい考えを持ち、正しい方向を向いているなら、行動も変わっていく。悔い改めにふさわしい実が結ばれていく。
イエス様を信じて生きていこうという悔い改めにふさわしい行動の第一歩は水のバプテスマだ。水のバプテスマはイエス・キリストの十字架の死と復活にあやかるもの。水に入るときにキリストと共に古い自分に死に、出るときに復活の新しい命に生きる。これは単なる儀式ではなく、霊的な力がそこにある。そして、約束が伴う。悔い改めて水のバプテスマを受ける者は、罪の赦しと聖霊様が与えられる。39節ではこの約束の対象が広く、そこに私やみなさんも含まれることがわかる。水のバプテスマがなければ、罪の赦しと聖霊様をいただけないということまでは言えない。しかし、水のバプテスマを受けることは正規の手順であり、ためらうことなく、すぐに受けるのが望ましい。

第七に、邪悪な時代からの救いの勧告。40節。この内容から福音には、信じて救われた後の勝利のクリスチャンライフを送ることまで含まれるものだとわかる。イエス様を信じて救われたら、罪が赦され、永遠の命が得られ、聖霊様が与えられる。しかし、まだその後で地上での人生がある。邪悪な時代で生きていかなければならない。伝道してイエス様を信じる人々がいたらすばらしいことだが、可能な限りアフターフォローをするようにしよう。邪悪な時代を信仰で生き抜くサポートをしよう。今日から高知に行くのもそのためでもある。邪悪な時代を生き抜くことを可能にするのは、やはり福音だ。イエス様を信じたので罪が赦されている。聖なる者とされている。神の子とされている。聖霊様が共におられる。罪に支配された古い自分はもう死んでいる。新しく命をいただいている。この福音の真理を悟るとき、邪悪な時代に染まることなく、世の光として生きることができる。

41節。まず、御言葉を受け入れた人々は、その日のうちに水のバプテスマを受けた。信じたらその日のうちに水のバプテスマを受けるというのは使徒言行録全体で共通している。何日間か教えてから、という事例は一つもない。水のバプテスマはそれだけ緊急性の高いものなのだ。罪を断ち切り、救いを確かなものにし、神の教会の一部となり、悪いものから守られる上で、水のバプテスマは大きな助けになる。まだ受けていない方はすぐに受けよう。また、信じて救われた人は3千人だった。いきなりメガチャーチができた。イエス・キリストの福音と聖霊様の力のなす業だ。五旬祭は何を記念する祭りだったかといえば、モーセがシナイ山で律法を受け取ったことだ。モーセが律法を受け取っているとき、イスラエルの民は金の子牛を造って拝み始めた。そこで、モーセは十戒の板を砕き、制裁として、レビ族に命じて自分の親族や友人の中で主に背いた人々を殺害させた。その時の犠牲者の数が3千人だった。旧約の律法を受け取る時には3千人が死に、新約の聖霊様が注がれる時には3千人が永遠の命を得た。旧約に対比する新約の命をもたらす性質を神様が示すべく3千人という数が救われたのだ。仲間になったということは、教会のメンバーになったということ。水のバプテスマを受けたら、普通はそのまま教会にも入るのだ。邪悪な時代から救われるためには仲間が必要だ。まだ教会に入会していない方は入会しよう。次回は初代教会の最高のライフスタイルについて見ていく。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました