使徒パウロの行動は多くの非難を受けましたが、何らやましいところのないものでした。
クリスチャンは非難をされることを覚悟しなければならないと同時に、非難をするということに慎重でなければなりません。
神の純真と誠実によって神の恵みの下で行動してきた[Ⅱコリント1:12-24]
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【ノート】
12-14節。パウロは、コリントの信徒たちの一部から非難されていた。それに対してここで弁明している。パウロは、まっすぐに弁明している。自分が潔白であり、何らやましいことがないと。この内容は神の言葉であり、真実だ。潔白だった使徒パウロが、非難されていた。ここから二つのことがわかる。
第一に、身に覚えのないことで非難をされるということは、クリスチャンにはつきものだということだ。我らの主は、罪のない方にもかかわらず、最悪の罪人であるかのように非難され、裁かれ、十字架にかけられた。そして、ここにまた世界宣教に用いられた使徒パウロが、何のやましいところがないにもかかわらず、非難されていた事実を見ることができる。パウロは、イエス様に従う者として、イエス様と同じ道を通っていたのだ。イエス様は「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と言われた。誰からそう言われるのかといえば、イエス様がそうだったように神様のことを全く知らない人々からではなく、神様のことをよく知っているはずの人々からだ。もし、あなたが、使徒パウロがそうしたように、イエス様の御言葉にどこまでも従い、イエス様と同じ道を歩むなら、あなたも、クリスチャンからすら、非難されるようになるだろう。そのことを覚悟せねばならない。そのことに直面したら、喜べばよい。マタイ5:11-12。
第二に、軽率に非難をしてはならない。当然、誰かが誰かを非難する言葉に軽率に同意してもならない。コリントの信徒たちは、パウロが遠く離れたところにいたので、パウロがどういう動機や意図で行動しているのか、何も知らなかった。何も知らないくせに、ああだこうだと勝手に悪い想像をふくらませてパウロを非難していたのだ。何も知らないくせに非難してはならない。何の根拠もない噂話を鵜呑みにしてはならない。インターネットでどこの誰が書いたのかもわからない無責任な悪口を読んですべてを判断してはならない。では、どういう場合には非難しても良いのか。ユダヤ人の教師とイエス様が言われたニコデモが教えてくれている。ヨハネ7:51。本人に事情を聞く。コリントの信徒たちは、パウロの事情を聞いてから判断することができたはずだ。手紙を送って確認したり、誰か使者を遣わして確認したりすることができた。今や、もっと簡単にできるだろう。たとえ相手が遠く離れた場所にいても、旅行が容易になっている。連絡手段が複数にある。まず本人に詳しい事情を聞こう。そうでない限り、一切の非難を控えよう。
パウロはどんな非難を受けていたのだろうか。12節に「人間の知恵によってではなく、神からの純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました」と書いてある。一部のコリントの信徒たちは、パウロの行動を、肉的なもの、不純な動機に基づくもの、不誠実なものと邪推した。しかし、実際にはパウロの行動は肉的なものではなく、神の恵みに支配されたものだった。人の行動が人間の知恵によるものか、神の恵みに支配されたものかどのようにしてわかるか?祈りと御言葉によって、神様の御心を知ろうとしているかどうかによってわかる。それは神の子のライフスタイルだ。ヨハネ5:19,30。神の子ならば、神の御心を見て、聞くことができる。もし自分なりのもっともらしい考えやいろいろな恐れや思い煩いの中で決めてとる行動であればそれは肉だ。そこには平安がない。しかし、ディボーションをする中で神様から答えをいただきとる行動であればそれは神の恵みによるものであり、豊かに実を結ぶことになる。そこには確信がある。
パウロの行動は神の純真によるものだった。パウロの行動には隠れた動機など何もなかった。密かに金銭的な利益を得ようとしたり、売名しようとしたりする動機はなかった。ただ純粋に神を愛し、隣人を愛することが動機だった。神の栄光を現すことが動機だった。
パウロの行動は神の誠実によるものだった。パウロの行動には不誠実な点もなかった。心に思ってもいないことを口にしたり、破るつもりで約束をしたり、自分勝手な都合で約束を反故にして相手を困らせたりすることはなかった。
さらに12節では、「このことは、良心も証しするところ」と書いてある。一部のコリントの信徒たちは、使徒パウロには何か後ろめたいものがあるに違いないと非難していたようだ。しかし、実際にはパウロの良心は全く責めを感じていなかった。良心というのは、善悪についての心のセンサーだ。すべての人が良心を持っている。良心は、神の律法を知らないはずの異邦人が、神の律法を知る上でのヒントを与える。ローマ2:15。人が何かの行動によって良心が責められるとき、それが罪であり、その向こうに地獄があることを警告する。しかし、生まれながらの人間の良心は、完全なものではない。だから、罪を犯しても何の良心の呵責も感じないということはありうる。逆に、罪ではないことについてまで、良心の責めを感じるということもありうる。それでは正確な良心を持つにはどうすればよいのか?イエス・キリストの血潮によって良心を清めていただければよい。ヘブライ9:14。こうして、成熟したクリスチャンは清められた良心を持つことができる。人から責められたら、私たちにはへりくだることが必要だ。良心が責められるなら御前に罪を告白しよう。しかし、もし人から責められても、良心が責められないのであれば、私たちはパウロのように堂々としていればよい。
13節で、「あなたがたが読み、また理解できること以外に何も書いていません」と書いてある。どうやら一部のコリントの信徒たちは、パウロたちが書いていることは本気ではない、そのままの意味のことではない、曖昧模糊としたことなのだと非難したらしい。実際には、パウロが書いていることは、そのままの意味である。これは聖書全体について言えることだ。単なる比喩とか、象徴とかではない。ある真理を強調するために比喩や象徴が用いられることはもちろんあるが、それは、よく読めばわかる程度の内容だ。聖書の原語には文字を数字に変換できるゲマトリアというものが意識されている。それでは、ゲマトリアを知っていなければ意味が全くわからないことだらけなのか?そんなことはない。聖書には修辞構造がある。最初から最後まですべてが神様の知恵によって緻密に書かれている。それでは、修辞構造を理解しないと聖書の意味が全くわからないのか?そんなことはない。聖書は複雑な暗号文ではない。まずはそこに書かれている誰でも理解できるその意味をそのままとらえ、そのまま信じればよい。本気で信じればよい。パウロを非難した人々のように、御言葉を本気にとらないようではいけない。聖書をまっすぐにとらえずに曲解してしまうのだとすれば、聖書に問題があるのではなく、読む人の心が曲がっているからだ。悔い改めて、子供のように素直に御言葉を受け入れよう。御言葉を本気で信じれば、信じた通りになるし、実践が伴うようになる。
15-18節。これは第一の手紙でパウロが書いたコリント訪問に関することだ。パウロの反対者たちは、その訪問の約束を反故にしたとパウロを非難した。パウロのコリント訪問についての言葉があてにならないなら、「然り」と同時に「否」というようなよくわからないものなら、パウロが教えたことや書いたこと全部があてにならない、とした。
どうしてパウロが自分の行動についてここまで弁護しなければならないのかがよくわかる。パウロ自身ばかりか神の御言葉の約束までも否定されてはならない。この非難は、パウロの言葉の一部を切り取るならもっともらしく聞こえる。パウロに約束を守らない信用できない人間というレッテルを貼れてしまいそうだ。現代でも、人の発言の一部を切り取って記事や動画にして炎上させようとする人々がいる。そういうものに惑わされないようにするには、発言の全部の内容を確認することだ。実際にパウロがどう書いたかを読んでみよう。Ⅰコリント16:4-7。これを読むと、パウロはかなり慎重に書いていることがわかる。「わたしも行く方がよければ」「たぶんあなたがたのところに滞在し」「主が許してくだされば」という言葉からそのことがわかる。パウロは決して軽率に計画を立てたのではなかった。しかし、神様の御心に従って宣教をしようとすると、どうしても計画通りにならないことがある。もし、使徒が神様から人生のスケジュールの全部を受け取って、「この通りに行動しなさい」と言われたのなら、パウロは少しも狂うことなく計画を進めることができただろうが、そういうわけにはいかない。神の計画と人間の計画にはどうしてもずれが生じる。人間の知識が制限されているがゆえに、どうしても神の計画の全部がわからず、後から計画がわかってスケジュールに変更を加えなければならないことが出てくるのだ。その良い例が使徒16:6-10。こういうことがコリント訪問についても発生した。「行ってはならない」という御心が明らかになり、パウロは自分の計画をそのまま遂行することを断念して神の計画に道を譲った。それは不誠実によるものではなく、従順によるものだ。私たちもパウロのように、神の計画が明らかになり、自分の計画とは違うことに気づいたときは、喜んで自分の計画をキャンセルし、神の計画に道を譲るものとなろう。また、他の人がそうするからといって不誠実だなんだと非難するのはやめよう。むしろ、その従順に学ぶ者になろう。アーメン。
パウロは神の御言葉の約束の確実さを二つのことを通して説明する。
第一に、神の約束はイエス・キリストを通して「アーメン」と唱えられる。19-20節。アーメンとは「はい、その通りです」とか「真実」「誠実」と言った意味がある。神の約束は、イエス様を通してことごとくその通りに実現した。旧約聖書の預言や予型は、イエス・キリストを通して実現した。まだ実現していない事柄もあるが、それは将来実現することになる。神はイエス様を通して約束を守ってくださった。神の約束通りに来られたイエス・キリストを見れば、私たちは神の私に対するすべての約束が真実であることを確信し、「アーメン」とはっきり唱えることができる。
第二に、約束の保証として聖霊様が与えられている。21-22節。油注ぎは聖霊の賜物を与えてくださったことを意味する。そして、聖霊様は神様の約束の実現の保証だとある。保証は、原語のギリシャ語でアラボーンという言葉が使われている。アラボーンは分割払いの支払いの第一回分として受け取れるものを指す言葉だ。手付け金のようなものだ。ギリシャの法律関係の文書にはよく出てくる。踊り子たちが村の祭りに雇われて、アラボーンを受け取る。それは謝礼金全体の一部であり、その契約が確かであり、残りのお金も必ず支払われることを前もって保証するものだ。聖霊様は私たちのアラボーンだ。聖霊様は私たちの心に神の愛を注ぐ。聖霊様はこの世において神の国にある義と平和と喜びを味わわせる。聖霊様の御助けによって生きる最高のクリスチャンライフは天国の手付け金だ。やがては完全な形で天国が私たちのものとなることが聖霊様によって保証されている。聖霊様に満たされて最高のクリスチャンライフを満喫し、天国が保証されていること喜ぼう。
23-24節。ここで、パウロがコリントに行かなかった理由を説明する。それは「あなたがたへの思いやり」だ。つまり、純粋な愛の動機だった。パウロは手紙のやりとりや人からの直接の報告によって、コリントの状況について聞いていた。それで、今行けばせっかく悔い改めて立ち帰ろうとしているコリントの人たちに無用な動揺や恐れや悲しみを与えてしまうと神様から悟らされてやめたのだ。誰かを悔い改めさせるために、罪を指摘しなければならない場合がある。そういうときは、まっすぐに罪を指摘しよう。しかし、指摘される側としては、厳しく罪を指摘されることは苦しいことだ。苦しみのあまり逃げ出したいという衝動にかられることもある。そのことを理解して、あまり執拗に指摘して、相手を追い詰めてしまわないように気をつけなければならない。そのような細やかな思いやりを発揮する者になろう。
24節では「あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」とある。権威を振り回して無理矢理なんでもいうことを聞かせるつもりはないということ。これは教会の牧会者が持つべき意識として、ペトロも語っている。Ⅰペトロ5:1-4。
そして、「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです」とある。パウロは自分のことを悪く言う人々も混ざっているのに、コリントの人々のことを良く評価して、信頼を寄せている。パウロが言って、1-100まで何でもかんでも指導しなくても、教会としてある程度自立できるはずだと。これも牧会者の心として必要だ。たとえ裏切られても、たとえ悪く言われても、たとえいろいろな問題があっても、信徒は大牧者なるイエス様に養われて、必ず堅く立つことができる。変えられていくことができる。
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