狭い扉から入るように努めなさい[ルカ13:18-30]

ルカによる福音書
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あなたの主人はどなたでしょうか?

狭い扉から入るように努めなさい[ルカ13:18-30]

狭い扉から入るように努めなさい[ルカ13:18-30]

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【ノート】
イエス様が安息日に腰の曲がった婦人を癒した。すると反対者が現れて安息日に治してもらってはいけないと言った。反対者は意図せず、神の国の拡大を妨げようとした。しかし、イエス様が真っ向から理路整然と律法主義の矛盾を指摘し、サタンの束縛からすぐに人々を解放すべきことを説くと反対者は恥じ入った。反対者は神の国の拡大を阻止できなかった。神の国は、人間の力で抑え込むことができるものではない。パウロのファリサイ派での師匠だったガマリエルは、使徒たちについて、「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」と言った。神の国は、滅ぼせない!人間の力では全然対抗できない神の国にはどんな性質があるのか、イエス様は二つのたとえを通して説かれる。

18-19節。からし種はものすごく小さい種で約0.5ミリ程度だが、成長するとあるものは4mほどの木になり、実際に空の鳥が巣をつくるほどになる。始まりは目に見えないほど小さいが、誰の目にもあきらかなくらい大きくなる。人々が来てとどまる場所となる。それでは、実際のところどの地域のどのような人々に影響するのか?それは木と鳥に関する別の記事からあきらかだ。旧約聖書に同様の記事がある。ダニエル書だ。ネブカドネツァル王の見た夢の解き明かしについて読んでみよう。ダニエル書4:17-19。ネブカドネツァル王のバビロン帝国は地の果てに至るまで、ありとあらゆる民を支配するものだった。バビロン帝国はこの世の国であり、反キリストの帝国の型ですらある。しかし、それでも神の計画の中で建てられた国でもある。世の国ですら神から授けられた権威によって地の果てまでを支配し、あらゆる民に影響を与える。それであれば、神御自身の国である神の国についてはなおさら、地の果てに至るまでありとあらゆる国民、民族、言語、肌の色、年齢、性別、身分の人が来て、とどまり、永遠に住むようになるのだ。今、確かにそうなっている。たった12人の使徒たちを中心に始まった教会は今や世界中にある。さらに教会は前進する。まだまだ多くの人々がとどまる場所を見つけられなくてさまよい、疲れ果てている。やがて爆発的に大きく成長し、あらゆる種類の人がとどまり、神を知る憩いの場所として用いられることを信じる。一人一人が教会の成長を祈り、伝道をし、新しく来る人々を教えることができるようにしよう。

20-21節。パン種はパンをふくらませるためのイーストのことで、当時は古い生地を残しておいた発酵されて作った。サトンは、約12.8リットル。3サトンでだいたい約40リットルだ。40リットルもの小麦粉を見たことがあるか?パン屋でもない限り一般家庭では一生無縁なくらいの量だ。ほんのちょっとのパン種が40リットル全部に影響し、全体が膨らむ。粉が世で、パン種が神の国だ。このことから、からし種のたとえと、爆発的な良い影響力と拡張という点は同じ。違いは何か?大きく2つ。第一に、変化は外からの入ってくる。粉自体には、粉をふくらませる力はなかった。世には、世を変革する力はないということ。世には自らを清めること、救うこと、癒すことができない。変革を起こす力は世の外から、神の国からのみ来る。つまり、私たちがカギだ。私たちが祈り、福音を伝え、御国を来たらしめなければ世には何の希望もない。第二に、パン種は内側で作用する。パン種は粉から離しておいて勝手に効力を発揮することは決してない。パン種は粉にまぜられてこそ効力を発揮した。同じように私たちも世に入っていく必要がある。世は堕落しているが、私たちは世を軽蔑して無視したり、世に絶望して引きこもったりしてはならない。祈りと福音伝道で世に内側から接触し続け、アプローチをかけ続けて変革させる。

しかし、教会による福音伝道だけで本当に世界全体が神の国になるのか?ならない!教会が果たす役割は大きいが、ある程度の時点で総仕上げとして、キリストが再臨される。つまり、ここで神の国が全世界を治めている状態は、千年王国と新天新地を指しているのだ。

22-23節。イエス様はエルサレムに向かって進みながら町や村で教えていた。ということは、イエス様はどの町、どの村でも、それが最後のメッセージの機会だった。そして、イエス様は多くの人々がまだ悔い改めていないことを知っていた。もう最後なのだからイエス様は厳しく教えたに違いない。悔い改めるように強く勧めたことだろう。この質問者はイエス様の教えを注意深く聞いていた。イエス様の教えはどれも新しいものであり、内面の清さを要求するもので、ファリサイ派の人々の教えよりもはるかに高い次元の洗練された教えだった。それだけに、自分や自分の家族、友人、知人を考えていても、その通りに生きている人は誰もいないように思われた。それどころか、高名なラビたちであっても、イエス様の教え通りに生きられるかは疑問だった。そそこで、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた。

24-30節。このたとえの意味は明白だ。家の主人とは、キリストのこと。家は神の国。
第一に、神に従う少数派であることを恐れてはならない。イエス様は12:32で小さな群れよ、恐れるなと言われた。イエス様はからし種とパン種のたとえを語られた。どちらも全体と比べたらごく少数だ。そして、狭い戸口から入って救われる人も少数だ。もちろん、少数であるべきだというわけではない。大勢の人が救われるために、イエス様は町や村で教えておられた。しかし、少数者であることを恐れてはならないのだ。ノアのときに救われたのは、全人類の中で8人だけだ。多数決ではないのだ。神が言われることについて、神に従うかどうかについて、人の意見を求めるな。その人は多数者にあたるかもしれない。神に従うかどうか、考えるまでもない。あなたの主人は誰か。あなたの主人は誰か。なぜ主人以外の人の意見を聞こうとするのか。あなたの主人は誰か。あなたの主人は誰か。ただ主人が言われることをその通りにしよう。少数者はそうする人々だ。多数者は人間同士の意見を聞いて共に滅びる人々だ。

では、入ろうと努める、努力をするというのは、どんな努力なのか。即断即決する努力だ。第二に、救いの機会がなくなるときが来る。救い自体は努力ではなく、完全に恵みだ。戸口から入るということ自体に何の努力が必要だろうか。入ればよいだけだ。しかし、人によってはもうちょっと外で遊んでから入りたいと考える。要求されている努力はすぐに入る努力だ。狭い戸口から入れない人の特徴は、戸口がずっと空いていると高をくくってすぐに決断しない人だ。たとえばどんな決断をしないのか。キリストを信じる決断をしない。罪の悔い改めの決断をしない。水の洗礼の決断をしない。献身の決断をしない。もちろん、中には決断をくだすために、ある程度の準備期間が必要な場合もある。しかし、狭い戸口から入ろうと努めない人は、ただただ先延ばしにするのだ。神が望んでおられることをすぐにしようとしないなら、その時間の分神に背き続けているのと同じだ。神は恵み深い方であり、なるべく多くの機会を与えるが、ある時突然扉が閉ざされるときが来る。それから慌てて入ろうとしてももう遅すぎるのだ。いま扉が開いているうちに神の呼びかけに対してすぐに応答する者となろう。

第三に、キリストと何らかの関わりを持つだけでは救いにならない。救われていない人の中には、イエス様と飲み食いしたり、教えを受けたりした人もいた。つまり、救われていない人の中には、幼稚園や学校がキリスト教系だった人もいるし、親や友人がクリスチャンという人もいるし、聖書を通読したことがある人もいるし、教会に足しげく通った人もいる。中には牧師や長老という肩書を持っている人までいる。それでいて、本人はクリスチャンではなく、救われていないということはよくあることなのだ。これら全部にあてはまっていても、イエス様から「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言われてしまう人がいる。救いそれ自体ではなく、救いの周辺的な事柄によって救われていると勘違いしないようにしよう。

それでは、救われるには何が必要なのか?第四に、従順を伴う信仰が必要だ。救われていない人は、主に対して「あなたを信じています」とは言えなかったし、「お教えを受けたのです」とは言えても「お教えに従ったのです」とは言えなかった。特にどんな点について従順が足りなかったのか。狭い戸口だから、不要なものを捨てて身軽でないといけない。偶像を持っていたり、金銭欲、性的な罪、プライドや虚栄心などを車に満載にしていたりすれば入れない。イエス様に対して「ご主人様」と言っている。「主よ」と同じだ。これは本当か?これは嘘だ。イエス様がご主人様として受け入れているならイエス様を信じて従っていたはずだろう。ただのフレーズとして、「主よ」と言っただけなのだ。あなたの主人は誰か?あなたの主人は誰か?イエス様が主人か?それは虚しい言葉ではなく、事実か?イエス様が主人ならイエス様に従おう。

第五に、神の国ではよく宴会が開かれる。パーティーだ。神に従うとすべての喜びが奪い去られてつまらない人生になる?そんなのは嘘だ。神は楽しいことが大好きなお方だ。天国でパーティーが開かれていることからそのことがよくわかる。敬虔なクリスチャンはいつも眉間にしわを寄せて、あらゆる苦しみに耐え忍んでいるかのように苦々しい顔をしている人か?それは悪魔に圧迫されている人だろう。主に導かれた人生は冒険の生涯であり、新しいチャレンジの連続だ。退屈している場合ではない。聖霊様に満たされることは酒に酔う以上に心地よく、御国の喜びを味わわせ、大胆に正しいことを行えるようにする。誕生日パーティーを開いてクラッカーを鳴らすのも良いが、パーティーを最も盛大に騒ぐのは主への賛美のときだろう。主にある喜びを爆発させよう。ごちそうは何か?もちろん、主の御言葉だ。御言葉が霊の糧となる。神の国を喜び楽しむ日々を過ごす者になろう。

第六に、神の国は年功序列ではない。後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もあるというのは、まずユダヤ人ではなく後で福音を聞いた異邦人が教会で中心的に用いられるようになったことを指す。そして、そういう逆転は神の国ではよく起こる。後で信じた人にも最も用いられる者となる機会が公平に与えられているし、先に信じた人も信仰が停滞して末席に行くことになることもありうる。本人がどれだけ神に素直に従うかにかかっている。下剋上ということではない。上の者を倒してというのは反乱だ。自力で、不正な手段でなそうとするのではなく、神が引き上げてくださるのを見よう。

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