ダビデ契約[サムエル下7章]

サムエル記
スポンサーリンク

御言葉に聞き従うと、主の御言葉が私たちを安息にまでたどりつかせます。
不思議に思ってしまうほどの恵みの御言葉、真実の御言葉、祝福の御言葉の約束を聖書から見出して、大胆に祈る者となりましょう。

ダビデ契約[サムエル下7章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

【ノート】
1-2節。1節の安らぎ=安息。ダビデの安息とは何だったか?ダビデはサウルから追われて放浪生活をしていた。そのときから、主に託宣を求めて状況を打開してきた。すると、サウルから追われることがなくなった。預言されていた通りに王座をついた。ペリシテ人も撃退した。自分の町エルサレムを手に入れた。念願のマイホームとして王宮を建てることができた。これがダビデの安息だ。
あなたは自分が求めていたものをすべて手に入れて、たどりつきたい場所にたどりつき、そこにどっかりと腰をおろし、もう特別何もしなくてよい状態になったらどうする?どうしようと考えるだろうか?ひたすら余生を楽しむか?あるいは新たな目標を定めて、もっと高みを目指して前進を続けるか?こういうことを考えることは意義のあることだ。なぜなら、あなたがダビデのように神の御声に聞き従って歩むのであれば、あなたは必ずそこに安息に至ることができるからだ。確実に起こるべきことだ。そして、この世で安息を得た時というのは、罪の誘惑を受けやすい時でもある。申命記8:11-18。モーセは主がイスラエルに安息をお与えになった後、主を忘れて罪を犯さないように先回りして警告した。ところが、イスラエルは警告されていたのに、やはり約束の地を占領して安息を得た後、主を忘れてしまった。人は大変なときには主を頼るが、満ち足りたときには自分の手柄にしてしまい主を忘れやすい。そうならないためには、まず、究極的には、永遠の安息である天国を最終目的地に定めなければならない。その上で、この世で安息を得たときには、ひたすらそれを与えてくださった主なる神様に感謝と賛美をささげ、主にフォーカスすることだ。
ダビデがしたのはそれだ。ダビデは自分のことについては満ち足りた。しかし、ダビデは主のことを忘れなかった。自分は立派な王宮に住んでいるのに、神の箱は粗末な天幕においたままだ。このギャップに、ダビデは罪悪感を覚えた。そして、ダビデは神殿を建てたいと思った。これは言ってみれば、自分は祝福されて出世して大豪邸に住んでいるのに、教会はまだ建物もない、集会場も狭い、献金が集まらないのでフルタイムの牧師が立てたくても立てられない、そういう状況だ。まさにそういう状況にあるという人は、別にそのことで罪悪感を抱く必要はないが、一度ダビデのように自分にできることは何かないか、考えてみることをおすすめする。
ダビデは、そのことを預言者ナタンに相談した。ダビデ自身、預言者だ。これまで何度も託宣を求めて、主からの答えをいただき、勝利を得てきた。それでも、ダビデは自分とは別に預言者をスタッフに加えてアドバイスを求めている。これは非常に賢いことだ。神は私たちを謙遜にさせるために、すべてのことを一個人だけに語るということをなさらない。ほかの人を通してしか語られないことがどうしてもある。自分のディボーションでは語られず、教会の牧師のメッセージを通してしか語られないことがある。兄弟姉妹たちの勧めの言葉を通してしか語られないことがある。だから、私たちはいつも交わりの中にいる必要があるのだ。

3節。「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう」神様はゴーサインを出しているという。このナタンの言葉は、後で受ける主の御言葉と矛盾するように見える。だからといってナタンがいい加減なことを言っているわけではない。サウルが油注がれるときにもサムエルはサウルに対して同じようなことを言っている。サムエル上10:7。油注がれた者、神が共におられる者に、何か神のために行おうという志が与えられた場合、神様は基本的にゴーサインを出している。むしろ、神がその志を与えている。クリスチャンも聖霊様の油が与えられていて神が共におられる存在だ。
クリスチャンについても、「神の栄光のためにこれをやってみたい」という志が与えられたら、基本的には神様はゴーサインを出してくださっている。基本的には志が与えられたら、ためらわずにやってみることだ。もちろん、時々例外もあるから、すぐに実行に移す前に、ダビデがしたように主に聞いたり、誰か神の御心に敏い人物に相談したりすることも大切だ。

4-17節。ナタンの最初の回答に反して、主はダビデに神殿を建てることを許可しない。このように預言者本人の考えや意思に反する思いもよらない内容が語られるとき、それは本人によらずに主から出たものだとわかる。しかし、それでいて主のお答えは恵み深く、様々な約束をしてくださっている。この約束の内容をダビデ契約と呼ぶことがある。

まず、5-10節で、主はダビデに対して、「罪悪感を抱かなくてよい」とフォローしておられる。今までずっと、契約の箱が幕屋にあるのが当たり前だったし、誰に対しても、一度たりとも「神殿を建てなさい」と命じたことがない。そのことで思いつめる必要はない。そして、ダビデを祝福して羊飼いから王に立て、勝利を与え、名声を与えるのは主であり、イスラエルを守るのも主であるから、祝福されて豊かにされていることを気にする必要はない。祝福は祝福として、感謝して受け取ればよいのだ。
あなたが罪悪感を抱いているからといって、主があなたを裁こうとしておられるわけではない。主は全然気にしておられないことも多い。「救われたのに、主に喜ばれることが全然できていない」と思うだろうか?主はあなたが救われたことを喜んでおられる!それにまさる喜びはない!また、クリスチャンは信仰に生きると祝福されて必ず豊かになるものだが、「貧しい人がたくさんいるのに、自分だけこんな豊かな生活を送ってよいのだろうか?」と罪悪感にさいなまれる必要はない。祝福は感謝して受け取り、喜び楽しんでも大丈夫だ。大金持ちで、大豪邸に住んでいても大丈夫だ。そのように祝福しておられるのは主だ。ただ、与えられている財産を頼りしたり、高慢になったりせずに、ダビデのように財産を有効活用して主の栄光を現せばよい。

11節では、逆に主があなたのために家を興すと約束されている。ダビデが主の家を建てようとしたのに、逆に主がダビデの家を興してくださるという。これは、主がダビデの神殿を建てようという志に感動して約束されたことだ。主はそれを許可しなかったが、人が主のために何かを企てるならば、主はただそれだけで感動されて、まだ何もしていないうちから祝福の約束をしてくださるのだ。ダビデが企てたことは、主がお命じになったことでもなければ、過去の誰かが思いついたことでもない。完全にダビデの真心からの主への愛から出たことだ。イエス様は「命じられたことを果たしたからと言って、主人は僕に感謝するだろうか」と言われた。僕が命じられたことをするのは当たり前すぎて感謝しないということ。実際には主は気前の良いお方なので命じられたことを果たす者に天の報いを約束しておられる。しかし、そこには大きな感動はないだろう。命じられていないことを真心からの愛で行うなら、主は感動なさって、その人を祝福したくて仕方なくなる。
ここでいう家を興すというのは、ダビデの家系を名門の家として祝福して存続させるということだ。私たちは一生懸命努力することで家を興そうとするなら空しいが、主が家を興してくださることはすばらしいことだ。詩編127:1-2。

12-13節では、神殿を建てるのはダビデではなくその子孫だと約束されている。ダビデの子孫のうち、王国をゆるぎないものにして、神殿を建てる人物といえば、第一義的にはソロモンだ。なぜダビデ自身が神殿を建ててはならなかったのか?この預言の中ではその理由が明らかにされていないが、歴代誌ではダビデが多くの人の血を流してきたから除外されたことがわかる。ある意味、戦争で敵の血を流すことは仕方ないであり、罪には問われていない。しかも、ダビデが相手にしてきたのは皆異邦人だ。それでも、ダビデは神殿を建てる資格を失った。すべての人の命はそれだけ神の御目に貴いということだ。あなたの命は神の御目に貴い。

14-15節では、ソロモンが過ちを犯すなら懲らしめられることが予告されている。これはヤロブアムの離反によって王国が二つに分裂することによって実現している。しかし、サウルとは扱いが違う。サウルのようにすぐに王座から退けられることはない。その通りに、ソロモン以後もダビデの王朝は続いた。不従順な者は主に懲らしめられる。それは、主がその人を子供として愛しておられるからこそのことだ。主は愛する者を叱ったり鍛えたりする。懲らしめは、滅ぼすためではなく、生かすため、悔い改めさせるためだ。主に愛されている者として、主からの訓練を喜んで受ける者になろう。

16節では、ダビデの王国が永遠に続くことが約束されている。しかし、歴史を知っている人はこの約束を文字通り受け取ることに違和感を覚える。なぜなら、ダビデの王朝はバビロン捕囚の時に途絶えて、その後復興もしていないからだ。神様は約束を破ったのか?決してそうではない。バビロン捕囚の時に書かれたエレミヤ書ですら、ダビデ契約の確かさが確認されている。エレミヤ33:19-22。絶対にダビデ契約が破棄されないということだ。ダビデ契約の永遠の王国は、イエス・キリストを通して実現している。ダビデ契約はやがて来られるメシアがダビデの子孫だということを指し示している。マタイ1:1ではアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図という言葉で始まるが、それはイエス様こそがダビデ契約で約束されている永遠の王国を築くメシアだということを示す言葉だ。2000年前、ダビデの子孫としてこの世にこられたイエス・キリストがユダヤ人の王メシアとして神の国を地上に建設することをはじめられた。その時以来、神の国は続いており、これからも決して滅びない。今は神の国は教会を通して霊的な王国として存在している。そして、イエス・キリストが地上に再臨されるとき、いよいよ神の国が政治的な王国としても実権をにぎるようになる。神の約束はすべてことごとく実現する。

18-29節。ダビデが感動して祈った内容。18-19節では、主の約束は人の思いをはるかに超えるものだとわかる。ダビデはなぜ私?なぜ私の家?と不思議がっている。神の約束の御言葉はあまりにも自分には分不相応に見えるので、不思議なのだ。なぜ私、私の家なのか?理由はいつも私の内にはなく、神の恵みにある。神は、資格のない者に一方的な愛のご好意によって良いものを惜しみなくお与えになる。そして、主が約束されたのは、遠い将来のこととか、ダビデが願ったことすらないものばかりだった。このことから主の御心に適うことを願い求めるのが最善だとわかる。主の御心を願うというのは、なんだか我慢しなければならないというイメージを持つ方がいるかもしれない。それは逆。自分の願いというのは、自分の分相応な小さなものになりがち。しかし、主の御心を願うなら、「こんなに祝福されていいのですか!?」とびっくりしてしまうほどすばらしいものをいただけることがある。
20-21節では、ダビデは主から認められていることに感動している。新改訳2017年版では「あなたはこのしもべのことをよくご存じです」となっている。創造主なる神様に、私が個人的に認識されている、よく知られているということは感動的だ。それはいつも事実であり、あなたは確かにいつも神様によく知られている。御言葉がそのことを保証している。髪の毛の数まで数えられている。しかし、あまり実感がわかないという人もいるだろう。どうすれば実感がわくか?神からの御言葉を個人的に受け取ったときだ。聖書のメッセージを聞くとき、ディボーションをするとき、神が私に語ってくださるという信仰を持って聞くと、個人的な語り掛けを受ける。まさに私の今の状況にあてはまる、今必要な御言葉が来る。そのとき、あなたは与えられた御言葉を悟ると同時に、自分がよく神に知られていることも悟って大きな感動を受けることになる。

22-24節では、ダビデは神の偉大さをイスラエルの民に対する計らいと結びつけて賛美する。イスラエルの民は何によって特別な民とされたか?エジプトからの贖いだ。主は贖いによって御自分の民を特別なものとすることがわかる。今や、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みが、神の民を地上のあらゆる人々と異なる特別な存在にしている。

25-29節では、ダビデが大胆に祝福を求めて祈っている。ダビデはそれまでそんなに大きな祝福を求めたことがなかった。大きな祝福を求めることは不遜なように思われたからだ。どうしてダビデは大胆に祈れるようになったのか?御言葉の約束ゆえだ。神が御言葉で約束してくださっていることであれば、遠慮なく求めても問題がない。遠慮するのはむしろ神を疑うことになり、良くないだろう。御言葉の約束が、私たちの祈りを大胆で、確信に満ちて、答えられるようにする。なぜなら、御言葉は真実であり、恵みであり、永遠であり、祝福だからだ。祈りが小さく、遠慮がちになってしまっていないだろうか?聖書はすばらしい約束の御言葉に満ちている。御言葉の約束を宝さがしのように探そう。御言葉の約束に基づいて、力強い祈りをささげる者になろう。アーメン。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました