子たちよ、父たちよ、若者たちよ[Ⅰヨハネ2:12-17]

ヨハネの手紙一
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信仰の三世代に対する励ましの言葉です(^o^)

子たちよ、父たちよ、若者たちよ[Ⅰヨハネ2:12-17]

子たちよ、父たちよ、若者たちよ[Ⅰヨハネ2:12-17]

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【ノート】
2章11節までは、御父と御子との喜びの交わりに招待だった。中には自分がクリスチャンだと思い込んでいるだけでこの喜びの交わりにまだ預かっていない人が教会の中にもいることを使徒ヨハネは見抜いていた。そこで、各々の告白が外面的な行いと一致する真実なものであるか吟味し、偽物の宗教家になってしまうのではなく、本当に御父と御子との交わりの中に入るようにと招く。だから、2章11節までは、クリスチャンもクリスチャンではない人も対象となる。12節からは、神の家族に対するもの。もしまだクリスチャンではないという人は、この内容を通して神の家族の在り方や豊かさについて学ぶ機会にし、イエス・キリストを受け入れることをおすすめする。

使徒ヨハネは全員に対して一緒くたに同じことを語ろうとはしていない。神の家族を見るなら、信仰によって大きく三世代に分けることができる。この三世代というのは実年齢とは必ずしも関係ない。あくまでも信仰の成熟度合による分類。クリスチャンになるとき、大人も子供からやり直すことができる。子供が霊的に大人になることもできる。三世代の内訳は子たち、若者たち、父たちだ。あなたはどの世代にあたるか?世代は固定ではない。もしあなたが子たちか若者たちにあたるのであれば、次の世代にステップアップする準備をしなければならない。あなたが父たちにあたるのであれば、御国に入る準備がいつでもできている。父たちは残りの時間をまだ準備できていない世代に対して、霊的な父として指導をすることが求められる。

12-14節でヨハネは、各世代に対して、書き送る目的を伝える。その目的はそれぞれの世代の優れた点を励ますためだ。12節。子たちというのは、イエス・キリストを信じたばかりの人々。霊的には赤ん坊。子たちはイエスの名によって罪が赦されている。イエス・キリストを信じてすべての罪から赦されて、神の子になった!天国に行ける!ハレルヤ!このことはクリスチャンにとって一番重要なこと。すべてのクリスチャンは最低限この罪からの赦しを体験している。そして、救われたばかりのクリスチャンの中には、イエス様を受け入れて罪が赦されたということ以外に何もわからない人がいる。聖書に関するいろいろな教理、三位一体とか、神の属性とか、聖化や栄化とか、予定とかがわからない。子たちは、そういうことを徐々に学び、神の家族の中で愛を受けて成長していく。子たちは城壁のある街の中で守られ、成長するまで前面に出ることはなく、教会を建て上げ、神の国の拡張に用いられるのは、ほかの世代の役割。

13節。この節では二世代書かれているが、まずは父たち。女性にとっては母たちと考えてもらってよい。神の家族の中で最も成熟している。父たちの特徴は、初めから存在なさる方を知っていること。御父については初めから存在していることを強調する必要はない。ヨハネが初めから存在なさる方というとき、御子イエス・キリストをさす。イエス・キリストを人格的に知ることは何よりもすばらしいことだ。イエス・キリストを知ることのすばらしさに比べたら、この世での名誉や地位や財産や特権なんていうものは何でもない。むしろ、御国にとって邪魔になるので損失だ。使徒パウロはイエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに他の一切は塵芥だ。排泄物だと断言した。父たちは使徒パウロのようにイエス・キリストを知ることの豊かさを経験した世代。

次に若者たち。若者たちは教会の中では最前線で活躍する人々。若者たちは、信仰においてある程度成長し、すでに実を結びつつある。若者たちは悪い者に打ち勝った。それは個人の信仰生活の中で罪の誘惑に打ち勝ったというだけではない。それは悪霊の攻撃に対する防御。むしろ若者たちは霊的戦いで前に出て、祈りと賛美と奉仕と伝道において、積極的に悪霊に攻撃をしかけて、悪霊に囚われている人々を解放した。若者たちはキリストを中傷する人々をその立派な行いによって沈黙させ、霊的に盲目になっている人の目を開き、罪の重荷に疲れ果てている人に福音を宣べ伝えてイエス・キリストのもとに導いた。キリストの御旗を高らかに掲げて勝利を得る世代。

14節では各世代に対してもうひと言ずつ添えられている。子供たちは、神の子として御父を認識している。幼子が「パパ」と呼ぶように、神を自分の父として頼りにする。イエス・キリストは「天の父は求める者に良いものをくださるに違いない」と言われた。子供たちは御父の愛を求め、御父から良いものをいただくことを期待する。御父が与えてくださる聖霊様、あらゆる霊的な祝福、生きる糧を期待する。クリスチャンの最初の段階では、御父からの愛にひたすら満たされるだけでよい。
父たちに対しては、なんと13節と全く同じ言葉が使われている。「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである」これは年老いた使徒ヨハネがすぐ前に書いたことを忘れて同じことを書いてしまったからではない。聖書で同じことが二度書かれるときというのは、常にそのことが非常に重要だからであり、それに代わることが他にないからだ。使徒ヨハネがエフェソ教会にいたときの有名な逸話がある。ヨハネは非常に高齢でただ弟子たちの腕にすがってやっと教会に行ける状態だった。もはや多くの言葉を語ることができなかったとき、集会中に勧めの言葉を求められると、毎回「子らよ、互いに愛し合いなさい」としか言わなかった。あるとき、その言葉に飽きてしまった信徒たちが耐えかねて「先生、どうしていつもこれだけしか言わないのですか!」と聞くと、「これは主が命じられた命令である。そしてもし、ただこれのみが行われるなら、それで十分である」と答えた。クリスチャンの成熟についていえば、イエス・キリストを知る以上にすばらしいことは何もない。それ以外に言うことは何もない!

若者たちに対しては、悪い者に打ち勝つ秘訣が付け加えられている。「神の言葉があなたがたの内にいつもあり」。悪い者に勝利する秘訣は御言葉だ。若者たちには御言葉が宿っている。聖書の御言葉をただ知って理解しているだけでなく、御言葉が心の中で生きて働くようになっている。若者たちは御言葉によって養われ、強められ、勝利することができる。聖書の御言葉を聞き、自分でも通読し、黙想し、暗唱し、研究し、実践しよう。そうすれば、もしあなたが子たちだったとしても、青年にまで成長し、戦いに勝利することができるようになる。

若者たちはすでに悪い者に打ち勝ったことが賞賛されている。では、もう戦いは終わりなのかというとそうではない。戦いは私たちが天国に凱旋する日まで続く。戦いに勝利した若者たちが警戒を怠って、信仰が後退してしまわないように15-17節で世を愛するなと警告がなされている。ここでいう愛してはならない世とは、神が創造された世界のことではない。神はその独り子をお与えになったほどに、御自分が創造された世界を愛しておられる。ここでいうクリスチャンが敵としなければならない世というのは、悪魔が支配している堕落した世のあり方、この世の宗教、哲学、風習、文化、教育、娯楽、快楽、知識などである。これらのものと完全に決別しなければならない。
そうしなければならない理由について、大きく3つのことが書かれている。一つ目は15節にある。世を愛してはならない理由の第一は、御父と相いれないからだ。世を愛しながら、同時に御父を愛することはできない。不可能。ある者に情熱を注ぎつつ、正反対のものにも心を注ぐことはできない。イエス・キリストが「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるかのどちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われたのもまさにこれだ。もし私たちが片足を世に、片足を神の国に置くという芸当ができると信じているならそれは幻想だ。その人は結局世を愛していて御父を愛していない。私たちは世を退けて、御父のみを愛することを選ばなければならない。

世を愛してはならない理由の第二は、世は私たちを強くひきつけるからだ。16節。肉の欲というのは世が与える味覚や触覚を通して得られる快楽。目の欲というのは世が視覚を通して私たちを魅惑するもの。生活のおごりというのは世が与える虚栄心をくすぐるもの。こういうものは一度手を出すと私たちを骨の髄までダメにしてしまうまで離そうとしない。今の時代は、人類史上最も、肉の欲、目の欲、生活のおごりが蔓延している。テレビのCM、インターネット上の広告というのはすべて肉の欲、目の欲、生活のおごりに利用して人々を引き付けようとするものだ。ゲーム、映画、漫画なども多くの場合、強い刺激を与えて人を虜にしようとする。信仰を題材にするものでもない限り、それらの内容によって御父への愛に駆り立てるものはなく、世を崇拝させようとするものばかりだ。
肉の欲、目の欲、生活のおごりの最初の犠牲者はエヴァだ。エヴァは善悪の知識の木の実について、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存知なのだ」と誘惑された。その誘惑を聞いてエヴァが善悪の知識の木の実を見ると、いかにもおいしそうだった。肉の欲だ。そして、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。目の欲。エヴァは神のようになりたいと思って食べた。生活のおごりだ。

しかし、世を退けた模範も存在する。私たちは若者たちにとって悪い者に打ち勝つ秘訣であるところの御言葉によってこれらの三つを撃退した方を知っている。それは私たちの主イエス・キリストだ。エヴァは最も神の愛のしるしに満ちあふれるエデンの園で誘惑に陥ったが、イエス・キリストは何もない厳しい環境の荒れ野で誘惑を撃退した。悪魔はキリストに言った。「神の子ならこの石にパンになるように命じたらどうだ」肉の欲だ。キリストは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と御言葉で撃退した。悪魔は全世界の繁栄している国々を一瞬のうちに見せて「わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言った。目の欲。キリストは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えた。悪魔はキリストを神殿の屋根にたたせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。天使たちは手であなたを支えると聖書に書いてある。飛び降りて無事だったら人々の脚光を浴びることができる」と言った。生活のおごり。キリストは「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と言って撃退した。主は世に打ち勝った。私たちも同じように御言葉によって勝利しよう。

世を愛してはならない理由の第三は、世のものは過ぎ去るからだ。17節。世や世の欲に夢中になって力を注ぐ人というのは、過ぎ去ってしまう空しいものに投資をしている。何も残らない。しかし、神の御心を行うものは永遠に生き続け、永遠に残るものにエネルギーを注ぐことができる。それであれば私たちはどちらのために生きるべきか。過ぎ去ってしまう世のためか。永遠の神の国のためか。いま決断しよう。

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