御父と御子との交わりへの招待[Ⅰヨハネ1:1-4]

ヨハネの手紙一
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御父と御子との交わりへの招待[Ⅰヨハネ1:1-4]

御父と御子との交わりへの招待[Ⅰヨハネ1:1-4]

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【ノート】
御父と御子との交わりへの招待 Ⅰヨハネ1:1-4
まずは著者について。ヨハネの手紙第一は、使徒ヨハネによって書かれた。
ヨハネは父ゼベダイと母サロメの子。職業は漁師だった。雇い人たちを抱えていたので比較的裕福であって、大祭司とのコネクションもあった。十二人の使徒のうちではペトロと兄弟のヤコブと共に、中心的な三人の弟子の一人だった。イエス様からボアネルゲス、雷の子と言われるくらい気性が荒いところがあった。イエス様の御名で悪霊を追い出していた人々がイエス様一向に従なかったので、イエス様の御名を語ることをやめさせようとするくらい不寛容な人だった。また、自分たちを受け入れなかったサマリア人の村に火を降らせて滅ぼそうとするくらい短気な人だった。他の弟子たちをだしぬくために、自分の母親まで動員して兄弟のヤコブと共にイエス様の右と左に座る、つまりイエス様に次ぐ地位を得ようと画策するようなずるがしこい人だった。それでイエス様に叱責されることが多かったが、主との交わりの中で次第に愛の人と変えられていった。最後の晩餐ではイエス様の胸元に寄りかかり、イエス様の心臓の鼓動を聞いた。イエス様が十字架にかかられたとき、十二人の中でただ一人、それを目撃した。そのとき、主はマリアのことをヨハネに託すほど、主の信頼を得ていた。ヨハネは福音書の中で自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」と書いている。ヨハネの変化を見れば、神の愛によって人は変わることができるのだということがわかる!ヨハネの深い主との交わりはキリストの昇天後も聖霊様を通して続けられた。ヨハネは深い主との交わりに基づいて書いている。

ヨハネの手紙第一を書いた目的は何度も書いてある。1:4、喜びが満ちあふれるため!それはジェットコースターのようにアップダウンする単なる感情ではない。神からあふれるように与えられて尽きないもの。私たちはどんな状況でも主にあって喜ぶことができる。2:1罪に打ち勝つ生き方をするため!イエス様の血潮に清められて可能だ。しかも、バックアップがある。罪に打ち勝とうとしても、罪を犯してしまうことはある。そのときは弁護者、イエス・キリストに頼り、赦しと清めを受け取ることができる。5:13永遠の命に対する確信!もうすでに得ていると悟る。それはもう頭の中だけの領域ではなく、私たちの内なるすべてのものがそのことを知覚する。御言葉には力がある。御言葉は一度解き放たれたらその使命を必ず果たす。だから、このヨハネの手紙第一をすべて学び終えることには、みなさんは喜びが満ちあふれるようになり、罪に打ち勝つようになり、永遠の命を確信するようになる!ハレルヤ!

信仰者を取り巻くものは闇だ。ヨハネは信仰によって堕落した世に打ち勝つよう励ます。また、イエスを否定する異端を糾弾する。現代の異端は昔の異端の焼き増しに過ぎないので、これらの御言葉で対処できる。悪魔は顔や名前を変えて近づいてくるが、基本的な手法は変わらないのだ。

ヨハネは終始簡単なギリシャ語を使っている。聖書のギリシャ語を学ぶときの初級の教科書に出てくる言葉ばかり使われている。それでいて同時に非常に深遠な真理を伝えている。ヨハネはパウロと違って議論を尽くしていない。ヨハネは、真理を抽象的、観念的に述べる。それについて詳しく説明はしない。説明はヨハネがそうだったように、直接聖霊様に教えてもらわなければならない。ヨハネは妥協を知らない。光と闇が対比されていて、ある者が光でないなら、もう闇だ。どちらともとれる中間地帯、灰色的な要素はない。白か黒かのどちらかだ。信仰は生き方に反映されるものであり、そうでなければ偽り者だ。これはヨハネ自身がイエス様の血潮によって清められて、光と愛のうちに生きることができることを体験してきたからこそ言える。このようなはっきりとした信仰、生き方と結びついた信仰こそ、世に打ち勝つことができる。

1節で差出人も宛名も挨拶もなく、始まっている。しかし、差出人が書いていなくても、ヨハネによる福音書と同じ「初め」という書き出しで言について書いているところから、そして著者が命の言であるイエス・キリストと深い交わりを体験してきたことから、使徒ヨハネだということがすぐにわかる。「わたしたち」と複数形なのは、同じようにイエス・キリストのメシアとしての公の生涯に弟子として同行したほかの使徒たちも含む意味合い。これから私ヨハネが書くことはイエス・キリストが受肉されて地上を歩かれたときに直接交わりを持った使徒たちがみな認めるところのものだということ。

ではこれを伝えようとしている2節や3節のあなたがたとはいったい誰なのか?すべての人が対象とされている。つまり、読者であるわたしやみなさんが対象!この手紙はみなさんにあてられたもの。
使徒たちが宣べ伝えるのは、初めからあったもの。御子イエス・キリストだ。メッセージの中心には必ずイエス・キリストがくる。御子は2節の通り、人間として来られる前から父なる神の御もとで永遠の昔から存在されるお方。それでいて、使徒たちにとっては遠い存在ではなく、自分の耳で聞き、自分の目で見たもの。しかも一瞬ちらっと見ただけでなく、よーく見て、自分の手で触れたお方だった。使徒たちが一緒に寝起きし、食事をし、会話をし、脇腹や手の釘のあとを触れたお方だ。聴覚と視覚と触覚を総動員してイエス様を知った。イエス・キリストは空想の産物ではなく、人間の感覚によって感知できるお方、身近なお方だ。ヨハネは抽象的なことをけっこう語るが、すべては血肉を持つ人間として現れてくださったイエス・キリストという現実を土台にしているのでゆるぎない。ヨハネは意見や憶測を語っているのではなく、自分が知っている方のことを語っている。私たちの信仰対象は小難しい哲学的な考え方ではなく、この世に来られた一人の人格だ。異端者は妄想を膨らませて全然知らないイエス様について間違った教理をでっちあげた。しかし、使徒たちが書いた聖書には圧倒的な権威がある。しかも、少しの脚色も加えることなく知ったままのイエス・キリストを伝えるのだ。
では、イエス・キリストが命の「言」というのはどういう意味か?原語のギリシャ語では言はロゴス、ヘブライ語ではダバールにあたる。創世記の天地創造のときに言葉だ。ダバールは生ける神を解き明かす言葉、神からのメッセージ、神と人との交わりを成立させる言葉といった深遠な意味を持つ。命の言というのは、この方を通して神を知り、神からのメッセージを受け取り、神と交わりを持つことができるということこそが、命であるということ。

2節では、御子イエス・キリストは永遠の命なる方であるという。ここでいう命は肉体の命ではなく霊的な命。神を知っていること、神のうちにとどまっていること。それは朽ちる肉体の命と違って永遠!命の源なる方とつながっていると決して死ぬことはない。その命には生き生きとした力がある。ヨハネはそれを体験したのでそのすばらしさを読者に伝えたい。ヨハネは単に「いいだろう!」と自慢したいのではない。この命は受肉したイエス・キリストを見た使徒たちしか体験できないものではないのだ。読書もこの命の豊かさを体験できる。

3節。ヨハネは自分たちが体験した交わりに私たちを招待する。言ってみればヨハネの手紙第一は神の国のパーティーへの招待状だ。使徒たちのいう「わたしたちの交わり」とは御父と御子イエス・キリストとの交わりのこと。ヨハネは出だしで、五感で血肉を備えたお方としてイエス・キリストを知ったことを証言した。しかし、もっとすばらしいのはイエス・キリストと交わりを持つことができること、そして、イエス・キリストを通して父なる神と交わりを持つことができることだ。この交わりになら、イエス・キリストの受肉した姿を見たり触れたりした人でなくても加わることができる。

では交わりとは何か?原語のギリシャ語ではコイノニア。そこには霊的交わりのほかに「共有する」という意味がある。交わりは単なる関係とか立場ではなくて、何かを共に体験する。たとえば家族が集まって一緒に食事をする。その他に、一緒にボードゲームをする。一緒に旅行をする。一緒に歌を歌う。そういうことが交わりだ。そこには人格的な交流がある。会話があり、感情があり、一体性があり、つながりがある。私たちは御父と御子とそれを体験できる。ここでは特に、永遠の命が共有されている。御父と御子は本質的に永遠の命が持っておられる。使徒たちは御子への信仰によって永遠の命を持つようになった。この命に預かるようにと、使徒たちは私たちを招待している。

クリスチャンになるということは、神と神の教会と、永遠の命を共有する輪に入るということ。コイノニアを具現化したのが聖餐だ。独立したクリスチャンというのはありえない。神の家族の一員として、礼拝で神の臨在を共有し、時間を共有し、しまいには持ちものや才能、喜びも悲しみも共有するというように交わりが深くなっていく。神が共におられ、兄弟姉妹が共にいる。しかもお別れはない。一時的に顔を見なくなることはある。しかし、その交わりは永遠だ!そこに大きな喜びがある。

4節。新しく人が交わりに加わると、加わる人にも迎えいれる教会にも喜びの爆発がある。2000年前にタイムスリップして受肉したイエス・キリストに会うことができなくても大丈夫。誰もが信仰によってこの交わりに加わることができる。そうすれば永遠の命が与えられ、喜びに満ちあふれる。

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