全き愛[Ⅰヨハネ4:11-21]

ヨハネの手紙一
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全き愛[Ⅰヨハネ4:11-21]

全き愛[Ⅰヨハネ4:11-21]

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【ノート】
神は私たちを愛してくださった。愛する独り子、イエス・キリストを惜しまずに与えてくださるほどに愛してくださった。誰でもへりくだって、罪を悔い改めるなら、主イエス・キリストによって過去現在未来のすべての罪を赦していただくことができる。神の限りない愛を受けた人は、どうするべきか?11節。私たちが神を愛するのは当たり前のこと。神は良い方、正しい方、真実な方、私を救ってくださった、愛すべき理由がたくさんある。だから、神の愛を受けた者にあえて「神を愛すること」を勧めても意味はない。神の愛を受けた者は、互いに愛し合う。必ずしも良い人ではなく、正しい人ではなく、真実でもなく、頼りにならない人かもしれないが、互いに愛する。そのことが神への愛を表すことになる。

そして、互いに愛し合うと、すごいことが起きる。12節。誰も父なる神を直に見たことのある人はいない。モーセはあるとき神の栄光を示してくださるように求めた。しかもそれは、イスラエルの民が偶像崇拝の罪を犯して、罰を受け「私はあなたの間にあって上ることはしない」と宣告された直後のことだった。非常に大胆な要求だ。そこで、神はモーセに御自身の姿を見せることにした。しかし、神の御顔を真正面から見たら死んでしまうので、モーセが見たのは神の後ろ姿だけだった。後ろ姿ですら、神の栄光を示すのに十分だった。もし、神の御顔を正面から見たらどれだけ栄光に輝いているか!それは残念ながら適わないことだ。しかし、もし私たちが互いに愛し合うなら、神が私たちの内にとどまってくださることがわかる。神の愛が私たちの内に全うされている。神の栄光がそこに現れる。人々は私たちのただなかに神を見る。そういう教会になること、そういう兄弟姉妹の交わりになることを目指していきたい。

7-12節で互いに愛し合うことについて扱い、14節から16節で信仰告白について扱っている。その間の13節には、聖霊様について書いてある。愛も信仰も、人間の力ではなく、聖霊様に端を発しているからだ。13節。神様が与えてくださった賜物の内で最もすばらしいものは聖霊様だ。神以上に偉大な方、価値のある方、良い方はいない。その神の霊である聖霊様こそが、私たちが神様から受け取れる最高の賜物。あなたは聖霊様で満たされたことはあるか?イエス様も求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさいそうすれば開かれると、強く求めることを明じられ、しめくくりで父なる神は求める者に最も良いものとして聖霊様を与えてくださると言われた。私たちは聖霊様を求めることについて、淡泊であってはならない。ペンテコステの聖霊降臨のときの弟子たちのように熱心に祈り求めなければ、聖霊様によって満たされるには至らない。聖霊様を求めよう。父なる神は求める者に必ず聖霊様を豊かに注いでくださる。
聖霊様と私たちの位置関係はほかの一切のものとことなる。すべてのものは私たちの外にあるか、中にあるかのどちらかだ。聖霊様の場合両方だ。聖霊様は教会でクリスチャンの間で働かれる。それで私たちは神の内にとどまっていると言える。そして、聖霊様は個々のクリスチャンの内に住まわれる。それで神も私たちの内にとどまっていてくださると言える。私たちは前後左右正面背後全方面を聖霊様で取り囲まれ、神の栄光を現す上で用いられる。さらには聖霊様は内側で私たちの心を守り、清め、信仰を成長させ、希望を抱かせ、愛を注いでくださる。聖霊様にあって神の臨在、神の愛の中を私たちは泳ぎながら生活するのだ。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!

14-16節は信仰告白について。14節。ヨハネを含む使徒たちの証しによって、さらには使徒たちの証しを受けて別の人々に伝える伝道者たちによって、私たちは御父が御子を世の救い主として遣わされたことを知った。それによって、15節にある通り、イエスが神の子であると信仰告白をして救われる。信仰告白をする人を通して、見えない神を見ることができる。神の愛は使徒たちによって伝えられ、信仰告白によって結実する。ここから伝道と信仰告白の重要性がわかる。伝道する人がいなければ、誰もイエスを信じることができない!誰かの伝道を通してイエスについて知り、信じて救われた私たちは同じように他の人にイエスを伝える使命がある。そうやって、救われた人々が忠実に伝えてきたからこそ、いまに至るまで連綿と伝え続けられているのだ。あなたはこの点について忠実か?福音を伝えるために何らかのアクションを続けているか?信じて救われた人にとって、福音を伝えることは非常に簡単で、誰でもできる。ただ自分が信じている内容をそのまま伝えればよい。あるいは自分が体験した救い、自分の身に起きた変化の内容をそのまま伝えればよい。あなたはこの点について忠実か?使徒たちは忠実だった。使徒たちは命をかけてイエスのことを証しし続け、このヨハネの手紙一のような文書も残している。私たちもできる限りのことをしよう。

しかし、もしあなたが全然伝道をしようという気持ちがないのであれば、そもそもあなたには確信がないのかもしれない。信仰があいまいなのかもしれない。その場合、伝道しないのは無理もない。信仰の有無は信仰告白によってはかることができる。ただし、1章から2:11節までの内容で触れた通り、私たちは自分や他人を欺き、偽りの信仰告白をするということがありうる。教会の中で使徒信条を読んでいるから、内容について何も考えず、とりあえず呪文のように声に出して読むということも正直なところあるのではないか?そして、偽の信仰告白をした直後にそんなことを全く忘れたかのように不信仰なことを口にする。真実な信仰告白をしよう。その告白する内容について理解し、100%の同意を思って信じることを宣言しよう。聖書について、罪について、裁きについて、罪の赦しについて、新しく生まれることについて、聖霊様について、三位一体について、奇跡についてなど、全部クリアにしていこう。そして、最も基本的で重要な信仰告白は15節の通りイエスが神の子だとする信仰告白だ。では、もし何かはっきりと信じていないことが見つかったらどうするのか?そういう場合は聖霊様の御助けのもと、あなたの意思により、信仰によって、そのことを「信じます!」と告白することだ。信仰で肝心なのは意思の決断だ。信じると決めさえすれば「信じられない」ということはないのだ。

16節。神の内にとどまり、神もその人の内にとどまるというのはこれで3度目。1番目は聖霊様、2番目は信仰告白、3番目のこの箇所は神の愛について。これは正しい順番だ。聖霊様によって信仰と愛が与えられ、神の栄光に完全に包囲される。完全に包囲されたらどうするか?両手をあげる!それで神に対して降伏と賛美をする。ハレルヤ!

こうして愛が全うされた人はどのような状態になるのか?17節。裁きの日を大胆に臨むことができる。裁きの日にはどんな裁きがあるのか?裁きは二つある。まずは、罪の裁き。罪がある者はすべての罪状が明らかにされ、火の池に投げ込まれる。罪を赦されている者はすべての罪状をキリストの血潮によって消していただく。その人は新しいエルサレムで神と共に住むことができる。そこには死も苦しみも涙もない。火の池をまぬかれて新しいエルサレムに入れることは本当に感謝だ。
次に賞の裁きがある。新しいエルサレムに行く人の中でも、賞は人によって違う。神に仕えた働きの実が何もなく、何も残っていない人は、何の報いもなく、火の中をくぐりぬけたように救われる。神に忠実に仕え、働きの実が残っている人、勝利を得た人には、様々な約束がなされている。その人には天になくならない富が積まれている。キリストから賞賛の言葉を受ける。キリストと共に王座につき、王として治める。キリストと秘密を共有することができる。その名が御国全体に告げ知らされる。裁きの日に確信を持っている人は、新しいエルサレムに入れることはもちろん、賞を豊かに受けることについても確信がある。使徒パウロが殉教の直前に書いたテモテへの手紙第二で「今や、義の栄冠を受けるばかりです」と確信を持って書いているように。それは愛に裏打ちされた確信だ。

愛が全うされている人は裁きの日を全然恐れない。18節。裁きの日に対して備える姿勢は恐れか愛のどちらかだ。裁きを恐れる人は裁かれたくない、罰せられたくないという一心で、悪い行いを避け、善い行いをしようとする。恐れをモチベーションとしても、多くのことができる。無感覚な人よりもずっと勤勉に聖書で命じられている多くの命令を実践できる。だから、恐れを信仰の入口にするのは良い。メソジストの創始者のジョン・ウェスレーは最後の審判に対する恐れにかられ、必死に努力して聖なる生き方を追求した。オックスフォード大学のホーリークラブでお互いの生活を監視し、完全無欠な生活を送ろうとした。スケジュールをびっしりと立てて少しの怠惰を許さず、気がゆるむことも一切ないようにした。様々な言語を習得し、誰から言われてでもなく病院と刑務所を訪問し、メッセージを語り、聖書を読み、祈った。どこまでもストイックだった。賞賛に値する。しかし、そこまでしていたのに、ジョン・ウェスレーは救われていなかったと後で自分で言っている。あくまでも自分の努力に頼っていただけであり、信仰がなく、聖霊様を受けておらず、神の愛を知らなかった。そして、多少影響力はあったものの、アメリカのインディアン伝道に失敗し、人々を救いに導くということができなかった。実を結ばない働きだったのだ。恐れを動機とするならどこまでも恐れをぬぐいさることはできない。ウェスレーは死を恐れ、裁きを恐れ、地獄を恐れた。恐れには罰が伴うと書いてある。恐れは過酷な裁きを暗示するものだ。
あるとき、ウェスレーに信仰が与えられ、神の愛の炎が彼の内に燃え上がり、メソジストリバイバルが始まる。もはや死も、裁きも、地獄も恐れない。英国国教会から締め出されていたウェスレーが路上でメッセージをすると、数千人の群衆ができた。ウェスレーが恐れを締め出して完全な愛を受けてしたことは恐れにかられてしたことに比べて何千倍も実を結んだ。愛に動かされる方が恐れよりも常に優れている。
19-21節は全き愛の実践の勧めだ。愛の源は神。神がまず私たちを愛してくださった。そして、神を愛することとクリスチャンを愛することはイコールだ。20節。イエス・キリストは「最も重要な掟は何か」と聞かれたのに、二つの掟を答えた。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさいと、隣人を自分のように愛しなさいだ。それは二つが連動していて、切り離すことができないからだ。目に見える兄弟というのは、地球の裏側にいるクリスチャンではなく、いつも身近にいて自分の目に直に映る人のことだ。神は愛するけども、身近にいる目に見える兄弟は無理というのは、嘘つきだ。兄弟に対する態度は神に対する態度に通じる。
愛することはしてもしなくてもどっちでもいいこと、ではない。21節。愛は神からの命令だ。聖霊様に促されて真実な信仰告白をし、兄弟姉妹を愛し、神が見えるようにしよう。ハレルヤ!

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