使徒の権利の放棄[Ⅰコリント9章]

コリントの信徒への手紙一
スポンサーリンク

ナンバーワンになりましょう!

使徒の権利の放棄[Ⅰコリント9章]

使徒の権利の放棄[Ⅰコリント9章]

YouTubeのチャンネル登録はこちらから!

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一9:1-27

1 わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
2 他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
3 わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。
8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。
9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。
14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。
16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

【ノート】
9章の内容は一見8章と関係ないように見えるが、8章の内容を深めたものだ。8章は偶像の供え物になった肉を食べて良いかどうかということについて。コリントの信徒たちの中には「自分たちは『神は唯一である』という、この世界の重大な真理を悟っている一握りの知識人なのだから、その知識に基づいて自由にふるまう当然の権利がある。肉を食べないのは、偶像の神を信じてしまっている無知で無教養な連中のすることだ」とする人々がいた。これに対して、使徒パウロは原則を打ち出した。知識に基づいた自由にふるまう権利は愛によって制限されるという原則だ。良心の弱い人に愛の配慮をしなければならない。愛は自分と違う立場の人を思いやる!愛はいつもほかの人の信仰や救いに強い関心を持つ。使徒パウロはもし自分の自由が兄弟を傷つけ、滅ぼしかねないのであれば、喜んでベジタリアンになることを宣言した。ベジタリアン宣言!

この原則に対して、自由を声高に主張したコリントの信徒たちの不平不満が聞こえてきそうだ。「え~~~!!肉を食べないなんてそんな~~~!!」とうてい、納得しないのではないか。ベジタリアン宣言をするのはいいけど、パウロよ、本当に肉を一生涯食べないなんてことができるのか?ベジタリアン宣言はもし必要あらばこのくらいするという覚悟を見せるためのもので、パウロがこのあと実際に肉を全く食べなかったわけではないだろう。それだけでは説得力に欠けるため、パウロがすでに権利を制限する模範を示していたことに言及する。使徒の権利についてだ。パウロはこの権利を制限した。
コリントの信徒たちの中には特にパウロ派以外の人々の中にはパウロの使徒職を疑問視している人がいた。ついでにパウロの使徒職に疑念を抱く人々に対してもピシャリと反論をする。それは自己弁護が目的ではない。パウロが使徒でなければパウロの語った福音に対しても疑問符がついてしまう。信徒たちの福音信仰がゆらがないために、使徒職の正当性を主張する必要があった。使徒の頭にいつもあったのは人々の信仰や救いのことだ。
このことから批判的なのは損だとわかる。神に仕える人々に誰彼ともなく批判し、難癖をつけ、その権威を否定してしまう人がいる。そういう態度はその人自身が霊的糧を得る機会を失い、大きな損失をとなる。イエス・キリストは幼い子供から信仰を学ぶよう命じられた。偽善者とみなす律法学者たちとファリサイ派の人々を見習ってはいけないが命令を守れと言われた。そして、悪魔の化身である蛇のように賢くあれといって悪魔からすら学ぶように言われた。

1-14節まではパウロが使徒として正当に主張できる権利について。1節。ここで、4つの問いかけがなされている。「わたしは自由な者ではないか」。コリントの信徒たちはキリスト者の自由を主張することができた。それは、キリスト者の自由について教えた張本人であるパウロも当然そうだ。「使徒ではないか」。ましてや、パウロは使徒だ。使徒は教会の役職の中で最上位に位置する。役職という点でいえば、使徒の上はもう頭であるキリストしかいない。ということは教会の中で誰かが権利を主張できるとすれば、使徒であるパウロはなおさらそうだ。最上位の役職だけに本当に使徒なのか判断する基準が必要。「わたしたちの主イエスを見たではないか」。これがパウロが使徒である証拠その1。個人的体験だ。使徒1章でイスカリオテのユダの欠員補充をするとき、その条件として、「ヨハネのバプテスマのときから始まって、イエス様が天に上げられた日まで一緒にいた者の中から」というのがあった。これは十二使徒の条件であって、使徒職全般の条件ではない。聖書をくまなく読みこむならパウロ以外にも、少なくとも、バルナバ、シラス、アンドロニコとユニアスについては使徒と呼ばれていることがわかる。使徒職の条件は少なくとも主イエスを見たことがあること。パウロはダマスコに向かう途上でイエス様を見た。その後も度々、パウロはイエス様の顕現にふれた。もう一つ使徒職の条件をあげるなら、奇跡に用いられること。Ⅱコリント12:12。パウロはどちらも満たしていた。そして、どちらも神からしかいただくことのできない体験だ。
人間には与えられない。教会で何かしらの重要な役職に就く人は、誰でも、個人的にイエス様を知り、神の力を体験していなければならない。

最後の「あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか」。これがパウロが使徒である証拠その2。救いの実だ。2節。証拠という言葉は、原語のギリシア語では印という意味の言葉が使われている。今でも署名や印鑑には力があるが、古代社会でも印は大切なものだった。穀物やなつめやしの実を船に荷物として載せるとき、最後に袋や箱に封印をして中身が確実に表記通りのものであることを示した。遺書を書いた場合、七つの封印をする。その封印の一つでも損なわれると法的効力を失ってしまう。封印は確実に本物であることを保証する。コリントの信徒たちの存在自体が、パウロの使徒職を保証した。イエス様を個人的に知っている人は、人々をイエス様のもとに導くことができる。
どの神学校卒か、どの教団出身か、そういうことは全く問題ではない。そういう肉的なことばかりにこだわる人がいる。しかし、個人的体験と救いの実、この二つが神からの召命の証拠だ。

3節。それでも批判する人は必ずいる。どんな働きにも、影響力があればあるほどアンチも出てくる。仮に、使徒かどうかを置いておいても、パウロが主張できる権利というのはごく当然なのものだ。4-14節でパウロが主張できる権利が3つ挙げられている。この順番で権利は大きくなる。1番目は食べたり飲んだりする権利。別に特別贅沢したい、高級料理を飲み食いしたいというのではない。これは、生きる権利だ。殺してはならないと書いてある。誰も他人の生存を否定する権限を持たない。2番目は信者である妻を連れて歩く権利。エルサレムの使徒たちやイエス様の兄弟たちはその権利を利用していた。誰も他人の結婚や家庭生活についてとやかく言う権利はない。それは使徒職でも例外でない。このことから、教会の教職者を一律に生涯独身と定めるのは間違いであることがわかる。
3番目は使徒として福音を宣べ伝える働き以外の仕事をしなくてもよい権利。つまり、教会の信徒たちの献金によって生活する権利だ。6節。仕事をしなくても良いという権利と書いてある。なんだか誤解を呼びそう。福音宣教を仕事とみなしていない。パウロはこの権利について特に力説する。コリントの信徒たちが献げることについてしぶっていたからだろう。お金ということに人間が出る。十二使徒は初代エルサレム教会で、「私たちは祈りの御言葉の奉仕に専念します」と宣言した。彼らが漁師などの仕事をせずに食べていけたのは教会の献金に支えられていたからだ。しかし、それは教会だけで見られる特別な事柄ではなく、あらゆる仕事についてごくごく当たり前にみられるものだ。軍隊に加わる人が自分で弁当を持参するということはない。しっかりと食べて力をつけて戦えるように、食糧が支給される。それであれば、キリストの兵士として悪魔と戦う者はなおさら食糧が支給されてしかるべきだ。ぶどう畑の所有者は当然その実を食べる。そうであれば、御言葉の種を蒔く人はなおさら、収穫の実の一部を食べてしかるべきだ。羊飼いは羊の乳を飲む。そうであれば、牧師はなおさら牧会する教会から養われてしかるべきだ。モーセの律法にも根拠を見出すことができる。9節。口籠とは、牛馬などの口にはめるかご。かみついたり農作物を食べたりしないようにするもの。口籠をはめてはならないということは、脱穀する牛は穀物を食べて良いということ。牛でさえ労働の見返りが約束されている。それであれば、神の教会のために熱心に働く人が報酬を受けるのはなおさらのことだ。ダメ押しが13節。祭司は神殿での献げ物の肉、穀物、十分の一などを受け取る権利が律法によって保証されている。そこには祭司制度が継続し、神に仕える者が絶えることのないようにとの神の御心を見ることができる。旧約の祭司制度すら神は継続を願った。それであれば、新約の救いをもたらす福音を宣べ伝える者、神の教会に仕える者についてはなおさら絶えてはならない。教会がなくなったり、無牧になったりすることは御心ではない。この箇所から教会の教職者には、献金で養われる権利があるということがよくわかる。
日本の教会が弱い理由の一つは、コリント教会のように献金をしぶるところにある。伝道牧会に専念する教職者を立てること、支えることに否定的なところにある。豊かに献げるなら教会は強くなる。たとえば、韓国のクリスチャンは非常に貧しかったにもかかわらず豊かに献げたので、教会が多いに成長した。私たちは信仰をもって惜しみなく経済を献げ、御国の拡張に用いられるものとなろう。
でもこれだけ聞くと、なんだか教職者に都合の良い教えだと思うかもしれない。そんなことはない。教職者は教職者で豊かに献金を献げるということに対抗するものがある。パウロが使徒の権利について力説したのは、その権利を利用したいという下心からではなかった。パウロはこの権利をコリントの信徒たちに対しては一度も用いなかった。それではどうやって生活していたのか?自分でテント造りの仕事をして生活していたのだ。過酷な福音宣教の中、それとは別に仕事までしていた。大変だ!そうまでした理由は12節にある。キリストの福音を妨げないため。教職者が権利をあからさまに主張すれば、福音を聞いた人が「お金目当てだ」と思い、逃げていくかもしれない。また、教会に負担をかけることになる。福音を拡散する上での障害になりうるので、権利を全く用いなかった。人々の救いを思う愛が、知識に基づく当然の権利を制限、むしろ完全に捨てた。

パウロにとって宣教は仕事以上のものだった。仕事は給料をもらってするもの。もし、給料が全然もらえないのに、仕事と同じくらい、いやもっと熱心に働くとしたら、それは仕事以上に貴い何かだ。お金ではないのだ!どうしてお金にならないことに人生をかけることができるのか?何がパウロを突き動かしていたのか?
15節。誇り。給料をもらって働くなら当然なので、何もすごくないが、給料をもらえないのに働くことはすごいことだ。無給であるということは、それ自体が福音宣教の位置を引き上げ、より誇り高いものとする。
16-17節。誇り以前に、もっとパウロを突き動かすものがあった。そうせずにはいられない、強いられてすると書いてある。誰がパウロを宣教せずにはいられないようにしたのか?誰がパウロを強いたのか?神だ。神はパウロに福音宣教の使命を与えられた。それで神からの使命感がパウロを突き動かした。もし使命に反して福音を伝えないなら、苦しむことになる。
ここから一つの指標をみることができる。神から教職者としての召命を受けているかどうかは、お金をもらわなくてもその働きをするかどうかでわかる。もし神からの召命があるなら、ほかの誰に言われなくても、お金をもらえなくても、人からほめられなくても熱心に取り組む。そうせずにはいられず、そうしないなら苦しいからだ。
ではパウロはひたすら神に強いられていやいや宣教をしていたのか?そうではない。18節。パウロの得た報酬は、無報酬で宣教をすることで宣教の実りに対する純粋な満足感を味わうことができた。報酬が出るとどこかしらに「報酬のため」というのが出てきて動機の純粋さが多少損なわれるおそれがある。無報酬であるからこそ職業人には味わえない幸せがある。伝道では神の御業を見る。伝道した一人の人が主イエス・キリストに勝ち取られ、人生が180度変えられる様を見る。救いの喜びに満ち溢れるのを見る。その満足を純粋に味わうともうやめられない。
なぜかフルタイムの教職者であるということにこだわりを持ち、誇りに思う人がいる。またそういう風潮がある。それは間違いであり、悪しき風潮だ。フルタイムになれるのは感謝なことではあるが、お金をもらって働くのは当然であり、何も誇る点はない。確かに教職者には献金で生活する権利がある。その点について教職者は弁解したり罪悪感を持ったりする必要はないし、信徒はコリントの信徒たちがパウロにさせたように弁解させてはいけない。しかし、教職者は必要あらば生活の資を得るために自分で働くくらいの覚悟を持たなければならない。神は「あなたは給料をもらわなくてもこの働きをしますか?」と問われる。それに対して「はい」と答えられなければならない。そうでなければ本物ではない。
19-23節は福音宣教の方法論。生活を支えてもらう権利を捨てただけでなく、福音宣教の方法論では自分を主張することを捨てた。相手に合わせた。ここでユダヤ人、律法に支配されている人、律法を持たない人、弱い人がリストアップされている。これらの人々はパウロと立場が違う。パウロはユダヤ人だが、ユダヤ人らしくないクリスチャン独特の行動原理を持っていた。パウロはキリストの贖いによって律法の呪いから解放されていて、もはや律法に支配されていなかった。それでいてパウロはキリストの愛の律法を持っていた。パウロは信仰が強かったからこそ、患難にめげずに宣教ができた。しかし、パウロは「私はあなたとは違う」と言わず、その人たちの立場によりそった。コリント教会にいろいろな種類の人がいた理由はここにある。自由な人なのに、自己中心になって自己主張をせず、自分を捨てて、相手と同じようになり、奴隷として仕えた。それは妥協ではない。自分の主張なんてどうでもいい。大事なのは神の福音だ。福音について妥協しないためだ。福音が相手の心に届きやするためだ。人間は自分と似た人に対して心を開き、耳を傾けやすい。すべては福音のため、救いのためなのだ。これはパウロのオリジナルなやり方ではない。イエス様に倣ったやり方。イエス様も私たちによりそうために、天から降って人間になられ、徴税人や罪人と食事を共にされた。
この箇所から宣教についての優れたコンセプトを見ることができる。第一に、一人でも多くの人が救われることを願う。「できるだけ多くの人を得るため」「何人かでも救うため」第二に、あらゆる種類の人の救いを願う。自分と似た特定の種類の人だけをターゲットとするのではいけない。福音はすべての人に救いをもたらす神の力だ。ストライクゾーンを広くしなければならない。第三に、最も大事な救いのためなら、二次的なものは犠牲にしなければならない。「福音のためならどんなことでもします」と書いてある。どんな犠牲もいとわないのだ。第四に、一人一人を大切にしてよりそう。パウロの宣教は常に1対多を相手にした大雑把なものではなく、個々人を相手に対話することがよくあったのだろう。よくできた方法論をすべての人に無理矢理あてはまるのではなく、一人一人に合わせ、一人一人に心に語り掛ける。
それだけキリストの贖いの恵みは貴い。福音宣教の使命は貴い。一人の魂は貴い。そして、福音に献身するなら、救いの実を結ぶとき、共にその恵みに預かることができる。23節。救いの喜びを体験する人と共に大きな喜びを体験することができる。

ここまでの話では、使徒という教会に特別に立てられた役職のある人の権利や働きについてだ。だから、聞いた人の中には自分にはそういう役職がないので、「おお、パウロすごいね!がんばれ!ファイト!」と他人事のように応援する人がいるかもしれない。しかし、パウロは自慢したり実績をアピールしたりするために書いたのではない。私たちも同じように権利を放棄して神と人とに仕えるように背中を押すためだ!福音宣教はすべてのクリスチャンの使命だ!私たちもパウロに倣わなければならない。24節。あなたがたは知らないのですか?と問いかけている。競技場で走る人のことをコリントの信徒たちは良く知っていた。なぜならオリンピックに次ぐ競技会であり、コリント地峡大競技会が行われていたからだ。多くの選手たちが鍛錬を重ねて、出場するが、そのうち優勝して月桂樹の冠を受けることができるのはたった一人だ。私たちも賞を得るように走らなければならない。信仰の道でナンバーワンになることを目指さなければならない。すべてのクリスチャンは出場選手として登録されている。満員の観客が競技場を埋めつくすように、天の万軍が、先に召された聖徒たちが私たちの走りっぷりを見る。そして何よりも私たちに賞を授けてくださる主イエス・キリストが私たちの走りっぷりを見ている。そんな中で適当に流すように走ることができるか?そんなことはありえない!全力を尽くさなければならない。
では、賞を得るように走るためにはどうすればいい?ナンバーワンになるには本物の実力が必要。25節。節制だ。つまり権利の放棄だ。スポットライトがあたり、人々が注目するのは、競技会で走るときだ。しかし、競技会の当日だけ、全力疾走しても賞を得ることはできない!それは日曜日だけクリスチャンの顔をする人のようなもの。何か人に見せるための奉仕をするときだけ信心深くなる人のようなもの。節制ということは、賞を得るための準備は普段の生活で行われるということ。
生活全部が準備!ふだんの信仰生活で節制することが御国で賞を得る秘訣だ。それは全然目立たない。誰も注目しない。ほめてくれない。地味!しかも、節制には、確かに喜びや満足もあるが、やはり大変なことも多い!「競技をする者は皆、すべてに節制します」とある。すべてに。飲食を節制しなければならない。不健康な食生活や食べ過ぎを避ける。時には断食をして肉の欲を断つ。物を節制しなければならない。自分のために使ってもよい物やお金を分け与える。感情を節制しなければならない。怒りを爆発させそうなところを、穏便におさめる。憎しみを捨て、嫉妬を捨て、プライドを捨てる。自分の色を出すことを節制しなければならない。自分流を貫くのではなく、二次的なことは相手に合わせる。言葉を節制しなければならない。口を開くよりも相手の話に耳を傾ける。個人的な野望を節制しなければならない。自分の野望の実現ではなく、主からの使命の実現を願う。時間を節制しなければならない。自堕落な時間の使い方をせずに、信仰の道を走る上で有益なこと、たとえば祈りや御言葉を読むことに時間を使う。

競技者が大変な節制をすることができるのは、すぐにしぼんでしまう月桂樹の冠を得ることを期待しているからだ。長年の節制でやっと得られるのは、月桂樹の冠というのは割に合わない気がするが、それは大変名誉なことであり、それを得ることを想像すれば、厳しい鍛錬にも耐えることができる。私たちが節制するのはキリストが与えてくださる朽ちない冠を期待するからだ。金メダルなんて目じゃない。キリストと共に茨の冠を耐え忍ぶなら命の冠が待っている。節制のつらさにあまりある賞が待っている。そのすばらしい賞を心から期待すれば、一生涯、節制を耐えることができるだろう。

26-27節。パウロは賞を得る秘訣について、ただ節制のことしか言わなかった。闇雲に走る、空を打つボクシングというのは、ダイナミックなように見えて実は非効率なやり方のこと。一番効率のよい鍛錬は、自分の体をうちたたいて服従させること、つまり、節制だ。肉体ではなく、霊が主導権を持って生きる。自分自身をコントロールする。節制、最も取るに足らないように思えることが実は最大の効果を生む。こざかしい知識を持っていることや目を見張るようなパフォーマンスを見せることではなく、節制できること、これが人間としての真の強さ。そして、節制をするなら、途中で誘惑に負けて罪を犯し、せっかくの働きを台無しにしてしまうということもなくなる。節制がナンバーワンになる秘訣だ。聖霊の結ぶ9つの実も、最後は節制だ。

もうレースは始まっている。あなたはすべてに節制しているか?ずっと闇雲に走っていた、空を打つボクシングをしていたという人もいるだろう。まずは今日から一つ、賞を得るために何かを節制しよう。それが朽ちない冠のための第一歩となる。それがうまくいったらさらにもう一歩前進しよう。聖霊様が私たちに節制の実を結ばせてくださるように。大歓声の中、あなたが一番でゴールし、キリストから勝利の栄冠を受けることを想像してみてほしい。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)とある。あなたはすべての節制を耐えて、賞を得ることができると信じる。

【お問い合わせ】
聖書に興味を持たれた方はお気軽にご連絡ください\(^o^)/
池袋で教会と聖書勉強会の集まりを持っています。

Email : jesus.christ.is.the.lord19860804@gmail.com
※メールで問い合わせる場合は受信設定でこのメールアドレス許可してください。

Twitter : https://twitter.com/Shuzo_Koita

Line : http://line.me/ti/p/ICne2QGIuJ

Facebook : https://www.facebook.com/shuzo.koita

コメント

タイトルとURLをコピーしました