神は光であり、神には闇が全くない[Ⅰヨハネ1:5-10]

ヨハネの手紙一
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光の中を歩みましょう。正直な告白によって、赦しと清めをいただきましょう。

神は光であり、神には闇が全くない[Ⅰヨハネ1:5-10]

神は光であり、神には闇が全くない[Ⅰヨハネ1:5-10]

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【ノート】
イエス・キリストは命の御言葉。その御言葉はつねに真実。私たちは御言葉を通して神を知り、永遠の命を得る。神の御言葉はすべて真実。御言葉は現実と完全に一致している。しかし、私たちの口が告白する言葉については、真実かどうか吟味する必要がある。人間の言葉には多くの虚偽がありうる。
では何を基準に偽りの告白か真実の告白かを判断することができるのか?それは神だ。まず私たちは自分自身を知る前に神がどのようなお方かを知らなければならない。神を知らなければ神に造られた自分自身のことも全然わからない。大前提として、まず、神がどのようなお方かが最初に来なければならない。5節。ヨハネは使徒たちがイエス様から聞いたことを伝える。それは、モーセやその他の預言者たちが語らなかったこと、イエス様によって初めて啓示された神の属性だ。

「神は光であり、神には全く闇がない。」このことから多くのことがわかる。聖書では光のことについて多くのことが言われている。
光のみで闇が全くない、というところから第一に、光である神は純粋だ。神には混じりけがない。神は純度100%だ。純度100%ということはごまかしがなく非常に貴いということ。果汁100%のジュースもあればコストを削るために果汁を薄めた飲み物もある。純金もあれば、表面だけ金メッキで美しくコーティングしてメッキが剝がれるとみすぼらしいものもある。神は純度100%どこをとっても光のみの貴いお方。

第二に、光である神は聖なる方だ。神の光には聖なる性質がある。イザヤ10:17。聖であるというのは、被造物と独立していること、あらゆる悪と罪から分離していることをさす。聖なる神と汚れた人間は同居することができない。神は聖なる方であるがゆえに「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い」とハバクク1:13に書いてある。もし神の目の前に悪が置かれるなら、光が闇を一瞬で消し去るように、神はその悪を一瞬で消し去ってしまう。

第三に、光である神は良いお方だ。天地創造のときに最初に神が創造して良しとされたのは光だ。神が光なのに神が光を創造したというと混乱しそうだが、神は超自然的な光であって、神がお造りになった光は自然的な光だということ。光はどのように良いのか?光は生命を象徴するもの。光は人を死から救い、命をもたらす。詩編56:14。詩編や箴言には「目に光を与える」という言葉が出てくるが生きる力を与えるという意味。私たちは光である神によって力づけられ生きていくことができる!

第四に、光である神は見えるようにする。光がなければ、私たちには何も見えない。光には、見えるようにする性質がある。それは、物質的世界だけでなく、霊的な世界にも通じることだ。だから、啓示の光という言葉が聖書には出てくる。頭が良かったら聖書の真理がわかるのではない。私たちは光である神が共におられなかったら、真理が全くわからない。霊的なことが何も見えない。盲人。神によって見えるようになる。特に何が見えるようになるか。自分の罪が見える。罪からの救い主が見えるようになる。

第五に、光である神は照らす。周囲に影響を与える。月が太陽の光を受けて輝くように、クリスチャンは神の光を受けて輝く。神が持っておられる良い性質は、神と共にいるクリスチャンにも与えられる。クリスチャンも神のように純粋な者、聖なる者、良い者、真理がわからない人の霊的な目を開き、世を照らす者になることができる。
これが神。ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!この神と共に歩む人が世の人と同じままでいることは不可能だ。このことから、1:6-10節の通り、偽りの告白と真実の告白を吟味することができる。6-10節は、全部、「わたしたち」についてであり、「~なら、~だ」と場合分けされている。使徒ヨハネは自分自身も吟味の対象から免除しなかった。だれかほかの人のことではなく、「わたし」についてどの場合があてはまるか吟味しなければならない。

第一の告白は6節。「神と交わりを持っている!」交わりは二人以上で何かを共有する。光である神との交わりは光としての性質を共有する。にもかかわらず、闇の中を歩んでいる。闇の中を歩むというのは、光である神から遠く離れて罪深い生活を送る。そんなことはありえるか?Ⅱコリント6:14。光と闇にはつながりもない、つまり、何の交わりもない。ということはその人は明らかにうそをついている。しかも、真理を行っていない。話すことも一つの行いだ。口では「私はクリスチャンだ」といい、聖書の知識が豊富で、教会に通い、立派な信仰者のように装う。しかし、他の場所、家や職場では無神論者のようにふるまい、平気で罪を犯し、しかもそれを巧妙に隠す。教会とほかの場所で人格が変わる!二重人格の人!その人はただ周りに合わせているに過ぎない。私たちは正直でなければならない。自分の霊的な状態を分析するとき、そこに嘘偽りがあってはならない。

7節。しかし、光の中を歩むなら、つまり、光である神の御そばに進み出て、照らされて、神からの影響を受けながら生活するなら、ということ。そこには二つの事実がある。一つ目は「互いに交わりを持ち」。これは、気心知れた仲の人と気安い交わりをするという意味がある。神は御自分に近づく者に対して、へりくだって私たちと友のように交わってくださるのだ。この交わりには喜びがある。それではどうやって光である神の御そばに進み出て交わりを持つことができるのか?いろいろいうことができるが、単純な答えとしては祈り!祈りによって御前に進み出て、神との親密な交わりを持ったことがあるか?神との交わりによる喜びを体験したことがあるか?ないならどうすればいいのか?「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」祈りは淡泊であってはならない。祈っても手ごたえがないならもっと深く祈ろう。たいていの人は祈りの中で神の臨在が最も強く臨む至聖所まで行く手前で引き返してしまう。祈りによって御前に進み出て、神との親密な交わりを毎日持つ生活を送るものとなろう。ただし、私たちは自分自身の正しさや聖さによって神の御前に進み出ることはできない。もしそうであれば、私たちは門前払いされてしまう。私たちはイエス様の血潮によって神の御前に進み出る。二つ目は「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる」。光の中を歩む人も罪を犯すことがある。しかし、光の中を歩む人には、イエス様の血潮によってあらゆる罪から清められる。ここでは現在時制が使われている。つまり、イエス様の血潮は、すべての現在において罪から清める。私たちは血潮によって清められたし、清められているし、清められ続ける。流し台に使った食器が置かれるやいなやすぐに洗ってきれいにするかのよう、風呂場を使用して汚れるやいなやすぐに掃除してきれいにするかのよう。こうして私たちは常に清浄に保たれる。そして、イエス・キリストは部分的な救い主ではない。完全な救い主なのですべての罪から清める。

第二の告白は8節。「自分に罪がない」。これは10節の「罪を犯したことがない」というのと同じ。この告白については常に嘘。私は人生で一度も罪を犯したことがないので、罪を赦される必要もなければ、イエス・キリストの血潮によって清められる必要も全くない。イエス・キリストなしで私は天国に行くことができる。異端者たちはそう主張していた。実際、当時はびこり始めていたグノーシス主義という異端は、キリストが罪の贖いのために苦しまれたことすら否定した。彼らいわくキリストがユダヤ人に捕らえられたときにキリストに宿っていた神が離れたので、キリストはただの人間になり、十字架の苦しみは何の効果ももたらさないという。私たちは罪を持たないし、罪性をもたない、キリストを必要としない。そのように想像することは自らを欺いている。本当は自分が罪を犯していて、罪悪感を覚え、滅びが待っていることを予感することがあるにもかかわらず、真実の心の叫びを押し殺している。真実から目を背けて、自分自身に嘘をついているのだ。それでは罪の問題はいつまでも解決されない。伝道しているとそういう人に出会うことがある。その人は、すべての人は罪人であって、キリストの贖いを必要としているという真理を拒んでいるので真理を全く持っていない。私たちは見栄をはるのをやめて、少なくとも自分自身に対しては、正直にならなければならない。

第三の告白は9節。「自分の罪を公に言い表す」。罪を神に告白すること。「公に言い表す」は原語のそのままの意味は、同じことを言う。光である神に示された罪を全面的に認めて、そっくりそのまま神に告白する。罪を隠してはならない。罪について言い訳をしてはならない。仕方ない状況だった。自分はもともとそういう性格だから。ほかの人もやっているじゃないか。良いことをしているからこのくらいは大目に見てほしい。必ず償うなどなど。そではなく、罪をそのまま告白する。そうすれば、神は罪を赦してくださる。神は御自分の義を曲げて、赦してくださるのではない。本当は裁かないといけないけど、可哀想だから義を貫くのをやめて赦してあげようということだと、またいつやっぱり赦さないで裁く!ということになるかもしれない!罪の赦しについての約束を守ってくださる真実な方だから赦してくださる。キリストの十字架によって義を実現してくださった正しい方だから罪を赦してくださる。神は約束を守ってくださる。一度赦された罪の責任が再び問われることは絶対にない。私たちは罪の告白によって、罪の赦しだけでなく、清めもいただくことができる。赦しは罪の罰を免除すること。清めは罪の汚れを取り除くこと。たとえば、子供が母親の言うことを聞かずに雨の中で遊んで泥だらけなったら、子供は母親から赦されるだけでなく、シャワーを浴びて服を着替えてきれいになることが必要だ。

私たちは光の中を歩み、神と親密な交わりを持とう。私たちは神から示された罪を正直に告白しよう。私たちはイエス様の血潮によってすべての罪から清められ続けていただこう。

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