永遠の命を得ている確信[Ⅰヨハネ5:13-21]
【ノート】
13-21節はクリスチャンの確信について。大事なことについては、確信しておかなければならない。確信していれば、平安がある。力がある。ゆるがされない強さがある。
13節は永遠の命についての確信。命は何よりも大事なものだ。それが命の定義でもある。しかし、命は不思議なもの。神秘的なもの。命は生物の生きる力のことをさすが、肉体の命にしても、何で生きていられるのか、何が命なのか、どこに命があるのか、自分で持っているはずなのによくわからない。創世記を読むなら、少なくとも、生き物の霊と血の内に命の力があるということがわかる。そういわれて初めてわかる。
永遠の命についても、自分で持っていてもよくわからないことがある。しかも、肉体の命があるかどうかはたいていすぐに判別できるが、霊的な命があるかどうかはぱっと見ではわからない。だから、実際には永遠の命を持っていても、はっきりと分かっていないということが起こり得る。永遠の命はイエス・キリストの内にある。そして、イエス・キリストは信じる者の内に住まわれる。13節。名と書いてある。名は人格を表す。私たちはイエス・キリストが力ある神の子だということを信じるだけでなく、イエス・キリストの人格を信頼する。イエス・キリストが真実で正しい方であり、憐れみ深い方であることを信頼する。そして、イエス・キリストに自分の人生をゆだねる。それがクリスチャン。イエス・キリストはその人の内に確かに住んでおられる。当人がそう感じていようがいまいがそうなのだ。その人は確かに永遠の命を持っている。その人は神と共に永遠に生きる力を持っている。その人はいま死んでも天国に行ける。このことを悟らなければならない。
14-15節は祈りについての確信。神の御心に適うことを願うなら何でも、神は聞き入れてくださる。私たちの願いと神の願いが一致するとき、神は祈りを聞いてくださるのだ。そうでない場合、祈りが聞かれることは良くない。祈りが聞かれることで私たちは罪を犯したり、悪い方向に進んだりする。だから、御心に適わない祈りが聞かれないことは本当に感謝なことだ。では、神の御心かどうかをどうしたら知ることができるのか?聖書の御言葉にはっきりと記されていることは神の御心に適うことだ。あとは、祈りの中で神が預言的に祈りが答えられると確信をさせてくださることがある。その場合も、その内容が神の御心に適っているということが言える。そういう祈りはただちに答えられるとは限らない。しかし、まだ答えられていなくても、遅かれ早かれ答えられることがわかるのだ。
具体的に御心に適ったこととして何を祈るべきか、一つ提示されている。何よりも大事な永遠の命を確信し、祈りの力をも確信するなら、ほかの兄弟姉妹たちの命の状態に関心を持ち、必要なときには祈らなければならない。16-17節は死に至る罪と死に至らない罪について。「罪を犯している兄弟を見たら」と書いてある。クリスチャンも罪を犯すことがある。罪を犯しているクリスチャンを見たら、その人のために神に願う。その人が裁かれるように願うのではなく、その人が憐れみを受け、信仰を回復し、赦しと清めを受けるように執り成す。イエス・キリストがペトロの信仰の回復を祈ったように。ところが罪には二種類あり、死に至る罪と死に至らない罪があるという。死というのは永遠の死、つまり地獄のこと。執り成すべきは死に至らない罪の場合だけだ。死に至る罪とは何か?そもそも、不義はすべて罪だ。ローマ6:23には罪が支払う報酬は死とあるので、すべての罪はイエス・キリストなしには死に至る罪。
私たちはただイエス・キリストが十字架で身代わりに死んでくださったことによりすべての罪の赦しを受けることができる。それで罪は死に至らない罪となる。
死に至る罪というのは、罪を犯しながらもキリストを拒絶し、罪の告白をせず、自分には罪がないと言い、罪を犯してはいないと自分を正当化する場合の罪だ。こういう罪について、神からの憐れみを期待できないので、執り成して祈っても意味がない。こういう罪については、本人に直接指摘して、罪を悔い改めるように説かなければならない。
18-20節は私たちが与えられている三つの知識について。これらの知識はそれを学んだり信じたりしている以上に聖霊様の働きによって「知っている」ということができる。当たり前に事実であると確信することができる。
一番目の知識は罪からの完全な守り。18節。罪を犯さないというのは、信仰の成熟したクリスチャンについてのこと。クリスチャンはイエス・キリストの御守りを期待できる。そして、イエス・キリストが私たちを守ってくださるなら、悪い者、悪魔や悪霊は指一本私たちに触れることはできない。イエス・キリストは罪の罰から完全に救ってくださるだけでなく、罪の力からも完全に救ってくださる。私たちの弱さではなく、信仰によってイエス・キリストの強さに注目するとき、罪に打ち勝つことができる。この事実が二番目のショッキングな事実をやわらげることができる。
二番目の知識は世界が悪魔の支配下にあること。19節。私たちは神に属している。しかし、この世全体は悪魔の支配下にある。世界は本来人間に支配をまかされたが、人間が悪魔に従って罪を犯した結果、支配権を悪魔に奪われてしまった。だから、常に世にある限り戦いがあることを心得なければならない。
三番目の知識はイエス・キリストによって神を知ることができること。20節。神がどのようなお方かは、イエス・キリストによってのみ知ることができる。イエス・キリストは神を表すお方。また、父なる神への道を開かれたお方でもある。そして、イエス・キリストを知り、神を知ることが永遠の命だ。
最後に、これらの確信に対して罠になりうるものに対する警告によって、手紙は突然しめくくられる。21節。偶像とは、木や石や金属で造った像であり、神の栄光を奪うもの。偶像は神を知る上で大きな妨げとなる。つまり、永遠の命の妨げとなる。もし偶像を拝むなら、その人は神ではないものを神として拝んでいる。神は霊だ。だから、どのような立派な像を造ったとしても、その像をもって生ける神を礼拝することはできない。その像を神だと見立てるなら、神の栄光を限りなく低い次元のものにおとしめている。つまり神への冒涜だ。また、仮に積極的に拝まなかったとしても、偶像をただ所有しているだけでも、無意識のうちにその偶像を神聖視することによって、神への信仰、礼拝、賛美、祈りが偶像に奪われてしまう。偶像は信仰にとって百害あって一利なしだ。だから、あなたが生きておられる真の神を知りたいのであれば、自分が所有しているあらゆる偶像を処分しなければならない。そして、自分が所有していない偶像については拝まないようにしなければならない。
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