わたしたちは愛を知りました[Ⅰヨハネ3:11-24]

ヨハネの手紙一
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カインのようになってはなりません。

わたしたちは愛を知りました[Ⅰヨハネ3:11-24]

わたしたちは愛を知りました[Ⅰヨハネ3:11-24]

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【ノート】
前回10節で、兄弟を愛さない者は神に属していないことを触れた。その理由が11節。愛の掟は旧約聖書で初めから与えられている。そして、「姦淫するな、殺すな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約される。すべての教えは、愛を指し示している。私たちが初めに御言葉を聞いたときからずっと、神は私たちの耳に互いに愛しなさいと語っておられる。やがて御国で神の御前に立つときも、聞かれる質問は偉大なミニストリーを成し遂げたかとか、奇跡を行ったかではなく、「あなたは互いに愛し合いましたか」だ。

悪魔の子の例として、カインが挙げられている。カインは兄弟のアベルを憎んだ。12-13節。ここで、大きく二つのことがわかる。第一に、悪い人は悪人だから罪を犯す。カインとアベルの話を知っているか。二人は兄弟で、カインが兄、アベルが弟。カインは土地の産物を神にささげた。アベルは肥えた羊の初子をささげた。神はアベルのささげものには目をとられたが、カインのささげものには目をとめられなかった。そこで、カインは神に対して怒った。アベルを嫉妬し、憎んだ。この話を聞いてカインに同情する人がけっこういる。えこひいきされれば、怒りたくもなると。それは危険信号だ。それはカインの種がその人の内にあるということだ。人は殺人者の動機に同情することがある。しかし、聖書は「なぜ殺したのか」という点について、自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからだと言っている。悪人だから殺人を犯したのだ。私たちはカインのようになってはならない。兄弟を憎むことを正当化してはならない。どんな動機があろうと兄弟を憎むことは悪いことだ。神はカインにそういう悪い心があるのを見抜いてカインのささげものに目をとめられなかったのだ。憎しみがあるなら兄弟をこの世から除いてしまおうとするのではなく、自分を退けて悔い改めなければならない。

第二に、正しい人が憎まれるのは、正しいからだ。アベルは信仰をもって、カインよりも優れたささげものをささげた。アベルは神に受け入れられた。にもかかわらず殺されてしまった。神に受け入れられる正しい人であれば、世の中から受け入れられるのではないかと期待してしまいそうだ。クリスチャンとして対人関係で理想的な性格を持っている人をイメージしてみよう。いつもへりくだっていて他人を自分よりも優れた者と考え、勤勉で忠実、忍耐強く、情け深く、ねたまず、礼儀正しく、正直で正義感が強く、惜しみなく与える人。そういう人は人からも尊敬され、愛されるように思われる。確かにそういう人は世の光として、人々を勝ち取ることができる。しかし、それと同時に、正しいがゆえに悪い人々から陰口をたたかれたり、ねたまれたり、不当な扱いを受けたりすることがある。そういう実例を挙げることができる。たとえばカネボウ薬品の元社長の三谷康人さんは正義感が強いがゆえにうとまれ、三度の左遷と降格を経験した。その後、主の不思議な計画の中で逆転が起こり、社長になる。私たちは正しいことをしても世から受け入れられることは期待しないでおこう。しかし、神は目にとめてくださる。

14-15節は兄弟を愛する者と兄弟を憎む者の状態。14節、死から命へと移っていると書いてある。ここで使われている移るという言葉は原語のギリシア語ではメタバイノー。ある国や地域から別の国や地域に私は行くという意味がある。これは死の国から命の国に移動したという意味。兄弟を愛する人は死と憎しみの支配下の国から王の招きに応じて命と愛の支配下の国に移住して帰化した。
私たちは兄弟を愛していることによって、自分が確かに移住したことを知っている。では憎む者はどうか?15節。私はカインほど悪くない。私は実際に人殺しをしていないという人がいるかもしれない。だから、多くの人が実は赦せない人がいるのに、自分でも気づいていない。心の奥底で憎んでいる人がいる。あるいは私が憎んでいる相手はアベルと違って本当に悪いことをしたやつだと思う人もいるかもしれない。しかし、憎む者は皆人殺しだ。弁解の余地がない。マタイ5:21-22。ここでイエス様がおっしゃっていることは比喩ではない。その人は誰にもばれずに完全犯罪を行える状況さえ整えば、相手を殺しかねない。憎む人は、場合によっては人を殺してしまった人よりも悪い。人を殺してしまった人が罪を悔い改めて、イエス・キリストの十字架の愛によって、赦しの恵みをいただくことはある。しかし、憎しみを持ち続けている人は心の中で相手を殺し続けている。憎しみによって一番害を受けるのはその人自身だ。憎しみを持っているせいで精神的に病んでしまったり、肉体的にも病気を発症したりすることがある。そして、霊的にもその人の永遠の命は非常に危険にさらされている。もし、過去から現在に至るまで、あなたの親類や友人の中で一人でも憎しみを持ち続けている相手がいれば、人殺しの罪を悔い改めて、その人を赦さなければならない。

16-18節は愛の実践。兄弟を愛するというけれども、具体的に何をすることが愛なのか?16節。イエス様のように命を捨てることが愛だ。神の愛はイエス様の十字架を通して示された。十字架以前も神は愛の神だったがそれは隠されていた。聖なる神、全世界を裁くお方、畏れ敬うべきお方として知られていた。旧約聖書の神と新約聖書の神が違って見える理由はそれだ。神の愛は十字架によってはっきり啓示された。十字架が神の愛の証拠!神の愛がよくわからなくなったら十字架を見上げればいい。イエス様の十字架を通して私たちは初めて「愛」というものを知ることができる。十字架以前は、私たちの心の中にもこの世の中にもどこにも愛が全くなかった。ただ十字架を通して愛を知ることができる。多くの人がヨハネ3:16を知っている。親しんでいる。ヨハネ3:16によって神の愛を知り、信じて救われる。Ⅰヨハネ3:16の方はあまり人気がない。神の愛を知った人が負債についてだからだ。「捨てるべき」と書いてある言葉は負債を意味する。私たちはイエス様から受けた愛の負債を兄弟を愛することによって返していかなければならない。その負債の額はイエス様の命に匹敵する。ただし、罪の負債やお金の負債と違って、首がしめられる、平安がなくなるようなものではない。愛の負債は、イエス様の愛によって満ちあふれている状態の中で、喜んで犠牲をせずにはいられないと突き動かされてするものだ。

兄弟を愛する愛は、場合によっては、自分の命をも捨てる愛だ。ただクリスチャンからだけ、「あなたのために死ぬ覚悟でいる」と言われたことがある。愛を知らない人はそんなことは言えない。しかし、実際のところ、誰かのために命を捨てる機会というのはそんなにない。「愛しているけれども、命を捨てる機会がないかた、何もしなくても仕方ない」ではいけない。それでは永遠に愛を実践することはできない。命よりも小さな犠牲をするところから始めなければならない。17-18節。困っていることがあれば自分の持っているものを通して助けるということ。おなかが減っていれば食べ物をおごってあげたり、心がふさいでいたら話を聞いてあげたり、孤独な人に対しては友人になってあげたり、病の癒しや問題解決のために祈ってあげたりする。方法はいろいろある。何でもできることをする。言葉をかけてあげることも愛の表れで、必要なことだがここでは口先だけでは「誠実」ではない。そして、愛を実践するときというのは、けちけちせずに、少なくとも相手が思いもよらない程度のものを与えて感動するくらいを目指すことをおすすめする。
私たちは愛の負債をかえすのだから、それをして自分を誇ることはできない。しかし、神は互いに愛し合う者に対してすばらしい実を結ばせてくださる。19-24節は愛の実践の実。大きく3つ取り上げられている。

1つ目は神の御前で安心できる。19-20節。神に裁かれることがない、真理の道を歩んでいるという平安だ。それはたとえ「心に責められることがあろうとも」ゆるがない。神の基準はあまりにも高く、私たちの兄弟に対する愛はイエス様の愛と比べればあまりにも小さい。だから、愛を実践しようと思えば思うほど、足りない自分に気づかされる。しかし、神はわたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだ。私たちが信仰によって義とされていることもご存じだし、自分の目に取るに足らないと映る愛の実践をちゃんとご存じだ。だから、神の御前に出ると平安が与えられる。

2つ目は願いを適えていただける。21-23節。神に願うことは何でも適えられる!聖書にはそういう言葉がたくさん出てくる。しかし、往々にしてそれは切り取られて使われてしまう。22節の後半では「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているから」と書いてある。神の掟というのは、23節によると、イエス様を信じることと互いに愛し合うことだ。そういう人は神の御心に適うことを祈るので、神は何でも聞いてくださる。

3つ目は神の臨在がとどまってくださる。24節。神もその人の内にとどまってくださるとある。イエス様を信じ、互いに愛し合う人の内は神にとって非常に居心地の良い場所となる。神はずっと聖霊様を通して私たちの内に住んでおられるが、特にその人の内に安らぎを見出し、力強く臨在されるようになる。そのことは聖霊様を通して体験し、知ることができる。

一つ注意しなければならないのは、順番を間違えてはならないということ。私たちはイエス・キリストを信じて救われ、死から命に移っており、愛を知り、真理に属する者となっているからこそ、互いに愛し合うことができる。愛することによって救われるのではない。救われていない人は愛を知らず、愛することができない。もしまだカインのように憎しみを抱いていて、死にとどまっている人は、今罪を悔い改めてイエス・キリストを信じて救われ、死から命に移ること、愛を知ること、真理に属する者となることをおすすめする。

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