終末的生き方[Ⅰコリント7:17-40]

コリントの信徒への手紙一
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一番の幸福は結婚にはありません。

終末的生き方[Ⅰコリント7:17-40]

終末的生き方[Ⅰコリント7:17-40]

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聖書箇所:コリントの信徒への手紙一7:17-40

コリントの信徒への手紙一7:17-40
17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。
26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。
28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。
29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、
30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、
31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。
32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、
34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。
35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。
37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。
38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。
40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

【ノート】
7章は結婚についてだが、結婚するかどうか迷っている人以外にもあてはまる、信仰生活全般にかかわる原則がいくつかちりばめられている。未婚者とやもめに対しては、可能であれば独りのままが良い。既婚者については、離婚してはならないが、相手が未信者であり、離婚を望んでいる場合は去るにまかせる。これらのことから、イエス・キリストへの信仰を持つことは、生活を激変させるきっかけにはならないということがわかる。

17-24節は、それを教会全体に対して、クリスチャンのあらゆるライフスタイルについて適用する。クリスチャンになることをきっかけに、仕事をやめたり、家族と絶縁したり、遠い国に移住したり全く新しい生活を始めたいという人がいる。不必要にそうしてはならない。クリスチャンになることによる新しい生活は、環境を変えることではなく、キリストをお迎えすることによって心を変えていただくことによって生じる。心の変化は環境を超越したものだ。
17節。私たちの身分というのは、「分け与えられた分」と書いてある通り、神の配材によるものだ。神があなたをその身分に置いた。あなたの国籍、あなたの家族、あなたの性別、あなたの社会的な身分、あなたを取り巻くすべてのものは、偶然ではない。それには意味がある。神はあなたが今与えられている身分の中で光を放つことを望んでおられる。神は今のあなたの身分において、あなたに何を望んでおられるか?考えてみてほしい。
18-20節は割礼について。割礼は男性の包皮を切り取るもの。割礼を受けるということは、古い契約、つまり旧約を結ぶことを象徴する。イエス・キリストの血潮によって新しい契約を結んだユダヤ人クリスチャンの中には、古い契約を象徴する割礼を受けていることを恥じている人がいた。そういう人は割礼の跡を消してはならない。割礼の跡を消そうとすることは、逆に外面的なことばかりにこだわろうとする古い契約のやり方にのっとることになる。
また、割礼を受けていない異邦人クリスチャンの中には、旧約聖書を読んで、自分に神の民としてのしるしがないことにコンプレックスを抱く人がいた。そういう人は割礼を受けようとしてはならない。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることだからだ。そのことによって心の割礼を受けていることがわかる。神の民であるしるしは心に刻まれる。
ユダヤ人をうらやましがる日本人クリスチャンと時々出会うことがあるが、それは正しい態度ではない。その人が日本人なのは、日本人として召されているからだ。日本人だからこそできることがある。私たちの人種、国籍は神の配材によるものだ。その意義を無にしてはならない。そして、ユダヤ人だろうが、異邦人だろうが、キリストに結ばれている人の真の国籍は御国だ。

21-24節は奴隷について。奴隷は自由の身分になることにあこがれる。わずかながらそのチャンスはある。奴隷の親族がお金を払って買い戻してくれるかもしれない。あるいは、奴隷自身がお金を稼いで自由を買い取ることもできる。主人から休暇をもらったときに、よそで小銭を稼ぐ。そして、自分を買い取るだけの金をためるのだ。使徒パウロはそういう千載一遇のチャンスや涙ぐましい努力によって自由を勝ち取ることができたとしても、奴隷のままにとどまっていることを勧めている。主によって召された奴隷は、主によってもうすでに罪から自由の身とされている!そして、主によって召された自由の身分の人は実はキリストの奴隷だ。イエス・キリストは御自分の命を代価として払って私たちを買い取ってくださった。それで、すべてのクリスチャンはこの世での身分にかかわらず、罪から自由であると同時にキリストを愛し、愛によって奉仕する奴隷だ。「人の奴隷となってはいけません」と書いてある。誰にとっても究極的な主人はイエス・キリストであり、何をするにしてもイエス・キリストのためにするのだ。この世で召されたときの身分にとどまるのは、神から与えられた救いこそが私たちが何者かを決めるということを鮮明にしている。あなたは自分の所属や仕事を卑しいものと考えて卑下することがあるかもしれない。
しかし、罪でないなら、あなたが主にあってする働きはすべて神への貴い奉仕だ。主の目に決して卑しいものではない。
なお、これは決して奴隷制度を擁護するものではない。むしろ、奴隷制度廃止の根拠となる。奴隷と自由の身分の人の間に何の違いもないという点から、人間が神の御前で平等であり、身分によって差別してはならないことがわかる。

25節と36-38節は解釈が大きく二つにわかれる。一つ目の解釈は、未婚の娘を持つ父親に対する勧告。新改訳聖書第三版はその立場をとっているが、おそらく正しくない。それであれば、「娘」と書くべきだが、「おとめ」にあたる言葉が使われている。
二つ目の解釈は、男女が同じ家に住み、同じベッドで寝ながらも、全然性的な関係を持たないという習慣についての勧告だ。それは、もし男女が性的関係を一切持たずに霊的生活を親密に共有できるほど自分を抑制できれば、すばらしいという考えに基づいている。本当にそんなことできるか?ごくまれにできる人もいるだろう。性的誘惑を全然感じない人は確かにいるのだ。しかし、たいていの人にとっては大きな誘惑であり、みだらな行いを避ける上では賢明ではない。自分は大丈夫だと自信を持ち、この奇妙な習慣を持つことを決意したはいいものの、いざやってみるとあまりにも荷が重い、自分を抑えるのが難しいと感じる人がいた。そこで、使徒は忠告する。努力してみたけれども、自分を抑制できないと思ったなら、結婚しなさい。それは罪ではない。ごく自然なことだ。誓いを継続できなかったということを恥じることはない。しかし、もし無理に自分を抑え込もうとしなくても、そういう難しい男女の関係を維持できるほど、自己抑制ができるなら、ぜひともそうしなさい。
ここでは禁欲の価値が認められている。あえて自制心が強く要求される難しい課題を自分に課すことは間違いではない。その人にそれが可能であれば、意義のあることだ。しかし、そのことが自分を過度に抑圧するならやめなければならない。それはその人に合わない不自然な生き方だ。強い抑圧はひずみを生む。耐えがたい苦痛を感じたり、罪を隠す偽善者を生み出したりする。そうならないうちにやめなければならない。それは主から出たものではない。主はそんなことをあなたに命じたことはない。

26-35節は終末的な生き方について。7章全体の内容はすべて26節の「危機が迫っている」、29節の「定められた時が迫っている」ということに基づいている。つまり、キリストの再臨による世界の終わりが近いということ。実際にはパウロが思っていたほどすぐにキリストは再臨されなかった。今はパウロ当時よりも再臨がもっと迫っていることは間違いない。そして、主は「私はすぐ来る」と言われ、「目を覚ましていなさい」と言われたので、主がすぐにでも来る、自分が生きているうちにも来るかもしれないという心づもりで備えている必要がある。そういう意味で7章はまさに私たちが適用すべき内容だ。終末の時を生きる私たちがどのような生き方をすべきかのガイドライン。

まず、26-29節では、できれば現状維持をすることをおすすめする。時が迫っているから大きく生活を変えても仕方ないということ。結婚をしても罪ではないが、結婚をすると苦労することになる。どんな苦労なのか。もう少し読んでみよう。30-31節。これはどういうことか?結婚、泣くこと、喜ぶこと、物を買うこと、世のことにかかわりを持つことが悪なのか?禁止なのか?そうではない。結婚は罪を避ける上で良いことだ。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くのは良いことだ。物を買わなければ生活ができない。必要なことだ。世のことに関わりを持つというのは、この世のことを楽しむことをさす。健全な趣味を持ち、気晴らしの時間を持つことは生きる上で有益だ。しかし、心得なければならないのは、これらすべてのものは過ぎ去ってしまう一時的なものでしかないということだ。結婚はこの世で生きている間だけのものだ。御国ではみな天使のように性別がない。
泣く、喜ぶといった感情も、主から来る救いの喜び以外の感情はつかのまのものだ。感情は状況によってころころ変わってしまう。物はどれだけ買っても、死んだら失われてしまう。世の楽しみは気晴らし以上の価値はない。これらはすべて、悪いものではないが、二次的な価値しか持たない。こういうことに深く関わり過ぎて、振り回され、思い悩んでしまったら、最も重要なことがおろそかになる。最も重要なことは主に仕えることだ。主に仕えることは過ぎ去らない!主は覚えていてくださる。永遠の報いを与えてくださる。

32-34節は結婚生活が主に仕えることを難しくすることについて。心が分かれてしまうとある!良いはずのものが神に向けるべき注意を妨げてしまう!そういうことのないように、世のもの全般について、のめりこみ過ぎないようにする、深入りしすぎないようにすることが終末的な生き方だ。結婚生活が主に仕えることを難しくするなら、時には配偶者とすら多少距離を置いて煩わされないようにする。多少。といってもそれが難しいから余計な苦労を負う。良い感情、当然抱いてしかるべき感情であっても主に仕えることを難しくするならそのような感情は踏みにじり、振り回されないようにする。物が主に仕えることを難しくするなら倹約し、簡素な生活をし、必要とする人に惜しみなく分け与えることで物が自分の心を占めないようにする。世の楽しみは熱中しすぎないようにうちにやめて、気晴らし以上のことを求めないようにする。
一番よいのは、すべてのことが妨げになるのではなく、主に仕えることにつながることだろう。男女が互いに見つめあうのではなく、どちらも主の方を向いて熱心に仕えるなら結婚生活は足の引っ張り合いではなく相乗効果を生むことになる。
35節。束縛ではない!すべてはひたすら愛する主に仕えるためだ。すぐにでも主の御前に立つということを思えば非常に合理的な生き方だ。
7章全体の基調は結婚自体にではなく、終末と罪を避けることにある。結婚自体の価値については、エフェソ5章に書いてある。それはキリストと教会の関係にたとえられる麗しいものだ。

39-40節は再婚について。39節。終末的な生き方の中でも触れたように、結婚はこの世で生きている間だけの関係だ。どちらかが死ねば、結婚の誓いは解かれる。たいていこういうふうに誓う「良いときも悪いときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死がふたりを分かつまで、愛し慈しみ貞節を守ることをここに誓います」。死がふたりを分かつまで。それが結婚だ。配偶者と死別した後、再婚することは良いことだ。裏切りでも薄情でもなく、良いことだ。祈りだけで孤児院を経営したジョージ・ミュラー、中国宣教のハドソン・テイラー、リバイバリストのチャールズ・フィニーなど、偉大に用いられた聖徒たちの多くが再婚を経験した。
ただし、条件が一つだけある。「相手は主に結ばれている者に限ります」とある。再婚相手はクリスチャンでなければならない。ということは、再婚の時に限る理由は何もないので、初婚の相手も当然クリスチャンでなければならない。クリスチャンがあえてノンクリスチャンと結婚することはあるが、それは神の御言葉にのっとってはっきりと良くないことだ。私が言うのではなく、神がそういわれる。クリスチャンがノンクリスチャンと結婚するのは良くないことだと神が言われる。それは神ではなく人間をとることだ。自分が神に属する者だと思うなら、神に従いませう。もしノンクリスチャンと交際することがあれば、それはリスクのあることではあるが、少なくとも相手がはっきりとした信仰告白をし、主に仕えるようになるのを見るまでは、結婚に踏み切るべきではない。相手が地獄に向かっているのを止めもしないで、どうしてその人を愛していると言えるか。
再婚以外の選択肢もみてみよう。40節。ずっと幸福と書いてある。独り身の人は自分がどれだけ幸福なのかを知らなければならない。その人は愛する主と誰にも邪魔されずに、常に親密な交わりを持つことができる。主と愛の交わりを持ち、愛する主に従い、仕えること以上の幸せはない。これは独身者も既婚者もすでに持っているものだ。

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